第89話 食わせる仕事

 朝の黒瀬精機は、相談の紙から始まるわけではない。


 森川修一が最初に手を伸ばしたのは、河島産業の赤と青の札ではなく、昨日から機械の横に置いてあった小さな丸棒だった。


 材質はS45C。


 外径を落として、段を付け、穴をさらう。


 近所の機械修理屋から毎月のように来る、交換用の軸受けまわりの小物だった。


 図面は新しくない。紙の端は少し丸まり、隆夫の字で「前回同寸」と書かれている。けれど、黒瀬精機にとっては大事な仕事だった。


 派手さはない。


 大きな利益もない。


 だが、こういう仕事が朝から回っているから、工場は食っていける。


 直人は、材料棚の前で発注控えを見ていた。


 河島産業。


 桐島機工。


 古川研磨。


 黒瀬式。


 そういう新しい名前が増えた一方で、昔からある仕事の札も棚には並んでいる。


 近所の包装機械屋から来る、ガイドピン。


 食品工場の保全から頼まれる、壊れた治具の作り直し。


 小さなプレス屋で使う、位置決めの当て板。


 倉田精密から定期的に来る、医療系部品用の洗浄治具の追加分と、保管箱の札の交換。


 そして、クロフィックスの名前で出し始めた番号札と保管札の小口セット。


 数は多くない。


 けれど、切れたら困る仕事ばかりだった。


 森川が旋盤の前から声を飛ばした。


「直坊、そこの短い丸棒、こっちへ回してくれるか」


「これ?」


「それや。今日中に3本仕上げるやつ」


 直人は丸棒を持って、森川の横へ置いた。


「これ、いつもの修理屋さんの分やんな」


「そう。中川機械さん。毎月よう壊すなあ思うけど、壊れたらすぐ直したいから、うちに来る」


 森川はチャックを締めながら続けた。


「こういう仕事、地味やけどありがたいんやで。図面があって、相手も分かってて、無茶なことはあんまり言わん。うちも段取りが読める」


 直人は頷いた。


「食わせてくれる仕事やな」


「そうや」


 森川は短く答えた。


「新しい相談もええけど、これを落としたらあかん」


 その言葉は重かった。


 最近の黒瀬精機は、たしかに外から見れば派手になっていた。


 河島産業の試作。


 桐島機工の説明会。


 古川研磨の相談料。


 どれも大事だ。


 でも、それだけで工場が動いているわけではない。


 毎月来る小物。


 急ぎの修理。


 昔からの繰り返し加工。


 医療系の洗浄治具の追加や補修。


 クロフィックスの管理札セット。


 そういう仕事が積み重なって、電気代や材料代や給料になる。


 事務所では、美智子が月末の支払い予定を見ていた。


 材料代。


 電気代。


 刃物代。


 田端商会への運賃。


 森川の給料。


 宮田悟の給料。


 信用金庫への返済。


 その横に、倉田精密の継続分、クロフィックスの小口出荷、河島産業の先行分、古川研磨の相談料が別の欄で書かれている。


 美智子は、赤鉛筆で線を引いた。


「隆夫さん」


「何や」


 隆夫がフライス盤の前から顔を上げる。


「黒瀬式の相談料、入ってくるのはありがたい。でも、これを売上の柱に見るのはまだ早いよ」


「分かってる」


「クロフィックスも同じ。名前を付けたからいうて、急に大きな商売になったわけやない。今は、倉田さんみたいな継続先と、近場の工場に出す小口の積み重ねや」


 隆夫は黙って頷いた。


「通常加工の予定を押してまで相談を受けたら、本末転倒や」


 直人も、その言葉を聞いていた。


 本末転倒。


 まさにそれだった。


 町工場を守るために始めた黒瀬式が、黒瀬精機自身のいつもの仕事を圧迫したら意味がない。


 宮田が棚からファイルを何冊か出した。


「今日の通常分です。中川機械さんの軸受け部品3本。高田包装さんのガイドピン12本。西尾プレスさんの当て板4枚。倉田精密さんの洗浄治具用の交換札と、クロフィックスの保管札セットが2組。あと、午後に田端さんが引き取りです」


 森川が口笛を吹いた。


「宮田、すっかり段取り係やな」


「まだ覚えてる途中です」


「覚えてる途中で、それだけ言えたら十分や」


 宮田は少しだけ照れたが、すぐに紙へ目を戻した。


「ただ、河島さんのC2とD2も、今日中に材料取りを始めたいです。明日、田端さんに箱の確認をしてもらう予定です」


 美智子が手を止める。


「そこやね」


 直人は、宮田の予定表を見た。


 通常仕事。


 倉田精密の医療系継続分。


 クロフィックスの小口セット。


 河島の先行分。


 桐島機工の外部説明資料。


 古川研磨の相談記録。


 全部大事だ。


 だが、全部を同じ顔で扱うと、工場の中が詰まる。


「おかん、予定表を分けた方がええと思う」


「どう分ける?」


「食わせる仕事と、育てる仕事」


 美智子の赤鉛筆が止まった。


 森川も、機械の音を止めた。


 隆夫が振り返る。


「食わせる仕事と、育てる仕事か」


「うん」


 直人は作業台の上に白紙を置いた。


 食わせる仕事。


 毎月の繰り返し加工。


 修理部品。


 急ぎの保全品。


 医療系治具の追加、補修、保管札。


 クロフィックスの小口セット。


 すでに単価と段取りが決まっている仕事。


 育てる仕事。


 河島産業の試作。


 桐島機工の説明会。


 古川研磨の相談。


 黒瀬式の外部展開。


「食わせる仕事を止めたら、工場が回らへん。育てる仕事をやらなかったら、未来が変わらへん。でも、混ぜるとどっちも中途半端になる」


 美智子は、その言葉をじっと見ていた。


「なるほどね」


 隆夫が椅子に腰を下ろした。


「食わせる仕事は、毎日の機械の時間を先に押さえる。育てる仕事は、その空きで見る」


「うん。あと、育てる仕事も無料で増やさない。相談枠を決める」


 森川が、少し笑った。


「相談枠か。病院みたいやな」


「でも、必要やと思う」


 直人は言った。


「いつでも相談できます、にしたら、いつでも手が止まる。黒瀬は相談屋やなくて、加工屋やから」


 森川は、そこで真顔になった。


「それはほんまや」


 美智子が白紙に見出しを書いた。


 黒瀬精機 仕事の分け方。


 食わせる仕事。


 育てる仕事。


 相談枠。


 機械時間。


 納期。


 現金の入る時期。


 その言葉が並ぶと、事務所の空気が少し変わった。


 今まで、黒瀬式は外へ出す線として育ってきた。


 だが、今日は違う。


 黒瀬精機自身を守るための線だった。


 昼前、田端商会の軽トラックが来た。


 田端は、中川機械向けの前回納品分の空き箱を返しに来たついでに、作業台の上の紙を見て笑った。


「今度は何の札ですか」


「食わせる仕事と育てる仕事」


 直人が言うと、田端は一瞬だけ目を丸くした。


「ええ言葉やな」


「田端さんもあります?」


「あるで」


 田端は荷台を指した。


「毎日走らなあかん定期便と、新しい相談の運び方。定期便を崩したら、信用がなくなる。でも新しい仕事を取らんかったら先細る。どっちも大事やけど、同じ荷台に何でも乗せたら事故るからな」


 森川が頷く。


「運送も同じか」


「同じやわ。食わせる便と育てる便を混ぜたら、だいたい時間が狂うし」


 美智子が赤鉛筆で書き足す。


 田端商会も同じ。


 定期便を崩さない。


 新規便は条件を決める。


 田端は苦笑した。


「奥さん、すぐ書くなあ」


「大事なことやから」


「ほな、うちも気をつけますわ。黒瀬さんの育てる仕事に付き合いすぎて、うちの定期便落としたら笑えませんし」


 直人は、その言葉に頷いた。


 黒瀬式は、黒瀬精機だけでは成立しない。


 田端の運送。


 大西の樹脂。


 南田の板金。


 吉岡の表面処理。


 小池の小物加工。


 そして倉田精密のような、継続して使ってくれる取引先。


 みんなに、それぞれ食わせる仕事がある。


 そこを壊してまで新しい相談を押し込めば、結局ネットワークは続かない。


 午後、黒瀬精機は普段の仕事に戻った。


 森川は中川機械の軸受け部品を仕上げた。


 直人は高田包装向けのガイドピンの面取りを確認した。


 宮田は西尾プレスの当て板に番号札を付け、前回分の納品控えと照合した。


 隆夫は、急ぎで持ち込まれた古い治具の割れを見て、溶接で直すより作り直した方が安全だと判断した。


 その横で、美智子は倉田精密向けの交換札を揃えていた。


 洗浄前。


 洗浄後。


 保管済。


 確認待ち。


 札の言葉は短い。


 だが、医療系の部品を扱う現場では、その短さが大事だった。


 長すぎる説明は読まれない。


 色だけに頼りすぎてもいけない。


 札の形、置き場、文字、箱の高さ。


 倉田精密との仕事で積み重ねたものが、今の河島産業の試作にもつながっている。


 直人は、クロフィックスの保管札セットを箱に入れながら思った。


 黒瀬式は、突然出てきたものではない。


 倉田精密で洗浄動線を整え、保管箱を分け、札を作り、記録を残してきた。その積み重ねに名前が付き、外へ出始めたものがクロフィックスだった。


 だから、ここを抜かしてはいけない。


 黒瀬精機は、こういう仕事でできている。


 相談だけではない。


 新規案件だけでもない。


 毎日、誰かの機械を止めないために小さな部品を作る。


 折れたものを直す。


 なくなったものをもう一度作る。


 図面が古くても、現物から読んで形にする。


 洗浄後の札をなくした現場へ、同じ仕様の札をもう一度届ける。


 クロフィックスの小さな箱を、必要な分だけ出す。


 それが町工場だった。


 夕方、田端が引き取りに来た時、納品箱は5つに分かれていた。


 中川機械。


 高田包装。


 西尾プレス。


 倉田精密。


 クロフィックス小口セット。


 それぞれに、いつもの札が付いている。


 河島産業の赤青の札ほど目立たない。


 ただの白い荷札もある。


 けれど、その白い札こそ、黒瀬精機の日々の仕事だった。


 田端が荷物を積みながら言う。


「今日は普通の荷物が多いですな」


 森川が答える。


「普通の荷物がなかったら、うちは食われへん」


「ほんまですわ」


 田端は笑いながら荷台を閉めた。


 その時、事務所の電話が鳴った。


 美智子が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、藤野さん。お世話になっております」


 直人は、少しだけ身構えた。


 また新しい相談だろうか。


 美智子は話を聞きながら、机の上の「食わせる仕事」と「育てる仕事」の紙を見た。


「……はい。黒瀬式の個別相談ですね。……申し訳ありません。今週は通常加工と倉田さんの継続分、それから河島さんの先行分がありますので、新規相談は来週以降でお願いします」


 森川が、少し驚いた顔をした。


 隆夫も美智子を見る。


 美智子は、まったく揺れなかった。


「はい。急ぎの場合は、相談内容だけ先に送ってください。こちらで受けられる範囲か確認します。ただし、図面や費用内訳をそのまま見ることはできません。……はい。有償相談になります」


 電話を切ると、事務所は静かだった。


 美智子は受話器を置き、赤鉛筆を手に取った。


「新規相談、1件。来週以降。内容確認待ち。有償」


 隆夫が、少し笑った。


「断ったな」


「断ってへん。並べ直しただけ」


 美智子は平然と言った。


 直人は、その言葉に胸がすっとした。


 断るのではなく、並べ直す。


 食わせる仕事を守るために、育てる仕事の順番を決める。


 それも、言うべきことを言う一つの形だった。


 夜、黒瀬精機の作業台には、今日の納品控えと、新しい仕事分けの紙が並んでいた。


 中川機械。


 高田包装。


 西尾プレス。


 倉田精密。


 クロフィックス小口セット。


 河島産業。


 桐島機工。


 古川研磨。


 名前だけを見ると、黒瀬精機は少し大きくなったように見える。


 だが、実際には小さな工場だ。


 機械の台数も限られている。


 人の手も限られている。


 時間も限られている。


 だからこそ、何で食べて、何を育てるのかを分けなければならない。


 直人は、白い荷札の控えを一枚手に取った。


 いつもの仕事。


 食わせる仕事。


 それを軽く見たら、黒瀬式は足元から崩れる。


 未来を変えるのは、新しい相談だけではない。


 毎日、きちんと納める仕事を落とさないこと。


 その上にだけ、新しい仕組みは乗せられる。


 美智子が、最後に赤鉛筆で一行を書いた。


 食わせる仕事を守ってこそ、育てる仕事ができる。


 直人は、その文字を見て頷いた。


 黒瀬精機は、今日も町工場だった。


 それでいい。


 いや、それがいい。


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