第88話 言うべき値段

 説明会の翌朝、黒瀬精機のシャッターを上げる前に、工場の前に1台の軽トラックが停まっていた。


 荷台には、古びた木箱が2つ積まれている。運転席から降りてきたのは、昨日の説明会で最初に声を上げた年配の工場主だった。


 直人は、入口の鍵を持ったまま足を止めた。


「おはようございます」


 男は、少し気まずそうに頭を下げた。


「朝早うから悪いな。昨日、面倒な兄ちゃん言うた者や」


 直人は思わず苦笑した。


「覚えてます」


「古川研磨の古川や。研磨と簡単な仕上げをやってる」


 古川は名刺を出した。


 古川研磨工業所。


 直人は受け取り、すぐに頭を下げた。


「黒瀬直人です」


「知ってる。昨日よう喋っとったからな」


 その言い方は少しぶっきらぼうだったが、昨日ほどの棘はない。


 そこへ、奥から隆夫が出てきた。


「おはようございます。古川さんでしたね」


「朝からすんません。ちょっと見てもらいたいもんがありまして」


 美智子が事務所の戸を開ける。


「どうぞ。中へ入ってください」


 古川は軽トラックの荷台から木箱を1つ下ろした。直人が手伝おうとすると、古川は「重いで」と言ったが、直人は片側を持った。


 たしかに重い。


 中に入っていたのは、研磨済みの小さな金属部品だった。表面は鈍く光っている。寸法より、面の仕上げが大事な仕事だと直人にも分かった。


 古川は箱を作業台に置き、紙を1枚出した。


「桐島さんから、昨日の話を受けて、次の見積もりには条件整理の時間も書いてええと言われた」


 隆夫が眉を上げる。


「もうですか」


「早いんはええんやけどな。こっちは逆に困ってる」


「困ってる?」


 古川は紙を広げた。


 そこには、いつもの見積書らしい項目が並んでいる。


 研磨加工費。


 数量。


 単価。


 納期。


 その下に、手書きで小さく足されていた。


 条件確認費。


 だが、その横は空欄だった。


「ここに値段を入れろ言われても、いくら入れたらええか分からん。高すぎたら嫌がられる。安すぎたら、またただ働きと同じや」


 森川修一が作業場から顔を出した。


「朝から濃い話してますな」


 古川は森川を見る。


「あんたも職人さんか」


「黒瀬の森川です」


「ほな分かるやろ。研磨の前に、傷の場所、当ててええ面、あかん面、梱包、手袋の汚れ、前工程の油。そこを確認せんと、仕上げだけ見積もれん。でも今までは、そこはサービスやった」


 森川は、すぐに頷いた。


「分かります。見てから値段出せ、言われるやつですね」


「そうや。見て、触って、話聞いて、これは危ない言うて、でもその時間は見積もりに入らん」


 古川は、少し苛立ったように紙を指で叩いた。


「昨日、兄ちゃんが言うたやろ。相談にも値段があるって。あれはよう分かる。でも、いざ書くとなると手が止まるんや」


 直人は、古川の見積書を見た。


 手が止まる。


 その言葉が、胸に刺さった。


 言うべきことが分かっていても、紙に書く時に止まる。得意先の顔が浮かぶ。次から仕事が来なくなるかもしれないと思う。高いと言われるかもしれない。面倒な工場だと思われるかもしれない。


 前の人生で、何度もあった。


 隆夫が椅子を引いた。


「古川さん、これはうちが金額を決める話ではありません」


「分かってる。けど、考え方だけでも聞きたい」


 美智子が赤鉛筆を持った。


「見積もりの項目を分けた方がええですね」


 古川が顔を上げる。


「分ける?」


「はい。条件確認費だけやと、何に払うのか相手に見えません」


 美智子は白紙を出した。


 初回条件確認。


 傷位置確認。


 触ってよい面、触ってはいけない面。


 前工程の油、汚れ確認。


 梱包、搬送確認。


 記録作成。


「こう分けて、全部を別料金にするという意味やなく、何を確認する時間なのか見えるようにするんです」


 宮田悟が、横からそっと紙を出した。


「古川さん用の控え、作ります」


 古川は苦笑した。


「黒瀬さんとこは、ほんま紙が早いな」


 森川が笑う。


「慣れたら、紙がない方が怖なりますよ」


「それは嫌やな」


 少しだけ空気が緩んだ。


 直人は、古川の部品を見た。


 箱の中で、部品同士が薄い紙に挟まれている。だが、紙の向きは揃っていない。研磨後の面が、時々箱の側面に近づいている。


「古川さん、この部品、傷が出た時はどこで揉めるんですか」


 古川の顔が、すっと真面目になった。


「仕上げ面や。うちが研磨した後に傷がついたんか、前からあったんか、運んでる時についたんか。そこが揉める」


「今はどう確認してますか」


「目で見る。怪しい時は電話する。けど、全部写真撮ってたら時間が足らん」


 直人は頷いた。


「全部撮る必要はないと思います。でも、最初の条件確認で、傷が問題になりやすい面だけは決めた方がいいです」


「面だけ?」


「はい。全部守る、やと高くなりすぎます。ここだけは絶対に守る。ここは軽い擦れなら許容。そこを先に分ける」


 古川は、部品を手に取った。


「ほな、この光っとる面だけは守る。横面は機能に関係ないから、軽い擦れは許容。そういうことか」


「はい」


 森川が横から言う。


「それを先に言うとかんと、あとで全部きれいにせえ言われますからね」


 古川は、深く息を吐いた。


「あるな。ようある」


 隆夫が言った。


「古川さん、見積書にいきなり大きく『条件確認費』と書くと、相手も構えるかもしれません。最初は『初回条件確認一式』でどうですか」


 美智子がすぐに書いた。


 初回条件確認一式。


 対象面確認。


 前工程状態確認。


 梱包、搬送条件確認。


 記録作成。


 正式単価は条件確認後。


 古川は、その紙をじっと見た。


「これなら、言えるかもしれんな」


「言える形にするのも仕事です」


 直人が言うと、古川は少しだけ笑った。


「兄ちゃん、昨日からえらいこと言うな」


「昨日より、今日の方が怖いです」


「何でや」


「昨日は説明会でした。でも今日は、古川さんが実際に見積書へ書く話なので」


 古川は、しばらく直人を見た。


 それから、小さく頷いた。


「そうやな。こっちの紙に書くんが一番怖い」


 美智子は、古川の見積書を見ながら言った。


「金額は、古川さんの時間単価で考えるべきです。何分見るのか。誰が見るのか。写真を残すのか。記録を書くのか。そこから出した方がええです」


「うちの時間単価か」


 古川は、少し困った顔をした。


「そこも曖昧にしてきたな」


 隆夫が静かに言った。


「うちもそうでした」


 古川の目が隆夫へ向く。


 隆夫は続けた。


「材料や加工の値段は言える。でも、考える時間、確認する時間、説明する時間を言うのは苦手でした。今も得意ではありません」


 美智子が横から言う。


「だから紙にしてるんです」


 隆夫は苦笑した。


「その通りや」


 古川は、初めて声を出して笑った。


「黒瀬さんとこ、奥さんが一番強いんちゃうか」


 森川がすぐに言う。


「それは前からです」


 美智子は平然と赤鉛筆を動かしていた。


 古川は、持ってきた部品をもう一度箱に戻した。


「これ、桐島さんに出してみるわ。初回条件確認一式。安くないけど、何を確認するかは書く」


「金額を入れる前に、確認範囲も入れてください」


 直人が言う。


「それを書かんと、何でも見てくれると思われるかもしれません」


「ほんま、面倒な兄ちゃんやな」


「すみません」


「いや、ええ意味や」


 古川は、名刺をもう一枚置いた。


「これ、相談料いるか」


 事務所が一瞬静かになった。


 直人は、古川を見た。


 古川は冗談で言っていない。


 昨日の説明を聞いたからこそ、ここでただで帰るわけにはいかないと思っている顔だった。


 隆夫は少し考えた。


「今日は、説明会後の初回相談として、時間を付けさせてもらってもいいですか」


 美智子がすぐに台帳を引いた。


「1時間。初回相談。内容、見積項目整理。資料作成なし。控え1枚」


 古川は頷いた。


「それでええ。払うわ」


 直人は、胸の奥が熱くなった。


 大きな金額ではない。


 けれど、意味は大きい。


 相談に値段が付いた。


 古川自身が、その値段を認めた。


 町工場側が、自分の時間をただで差し出さないための最初の小さな一歩だった。


 古川が帰った後、森川は作業場に戻りながら言った。


「直坊、今のは地味やけど大きいな」


「うん」


「よその工場が、自分から相談料払う言うたんや。これ、昨日の説明会より効くかもしれんで」


 隆夫も頷いた。


「言うべき値段を、古川さんが自分の見積もりに入れる。そこからやな」


 美智子は台帳に記録した。


 古川研磨。


 初回相談。


 見積項目整理。


 相談料あり。


 直人は、その文字を見つめていた。


 相談料あり。


 たったそれだけの文字が、妙に重かった。


 昼過ぎ、桐島機工の長谷川から電話が入った。


 美智子が取り次ぎ、隆夫が受話器を持つ。


「黒瀬です。……はい。古川さんですか。朝、来られました。……はい」


 隆夫の表情が、少しだけ変わった。


 直人は顔を上げる。


「……初回条件確認一式。はい、そうです。……高い? いえ、内容は妥当やと思います」


 森川が、作業場からこちらを見た。


 宮田も鉛筆を止めている。


 隆夫は、ゆっくり言った。


「長谷川さん、昨日の説明会で、資料作成や条件確認にも時間がかかるという話はしました。古川さんの見積もりは、その時間を見えるようにしたものです。高いか安いかは、確認範囲と照らして見てください」


 少し沈黙。


 隆夫は続けた。


「もし桐島さん側で、そこまでの確認は不要だと判断されるなら、その範囲を削る話になります。ただ、その場合は、後で傷の原因調査が難しくなる可能性があります」


 また沈黙。


「はい。では、古川さんと確認範囲を詰めてください。黒瀬からも、必要なら考え方だけ説明します」


 電話を置くと、隆夫は深く息を吐いた。


 美智子が聞く。


「値段で来た?」


「来た。古川さんの条件確認一式が高いと」


 森川が苦笑した。


「やっぱり来ましたな」


 隆夫は頷いた。


「でも、今回は下げろとは言わんかった。確認範囲を見て判断すると言ってた」


 直人は、少しだけ息を吐いた。


 変わった。


 ほんの少しだが、変わっている。


 以前なら、発注側は「高いから下げて」で終わったかもしれない。だが、今は確認範囲という言葉が間に入っている。


 値段だけでなく、何を含むのかを見る。


 それは、大きな違いだった。


 夕方、古川から電話があった。


 受話器を取った美智子が、すぐに直人へ手招きした。


「古川さん、直人に代わってほしいって」


 直人は受話器を受け取った。


「黒瀬直人です」


「兄ちゃん、通ったわ」


 古川の声は、少し弾んでいた。


「初回条件確認一式、満額とはいかんかった。でも、確認範囲を一つ削って、残りは通った。写真は全部やなくて、指定面だけ。梱包確認は初回だけ。記録は簡易版。それで値段が付いた」


 直人は、思わず机の端を握った。


「よかったです」


「まだ仕事はこれからや。でもな、初めてや。見積もりに、考える時間を入れて、それを向こうが消さずに見たんは」


 電話の向こうで、古川が息を吐く音がした。


「昨日は面倒な兄ちゃん言うて悪かったな」


「いえ」


「面倒でええわ。面倒やないと、こっちはまた飲まされる」


 直人は、すぐには言葉が出なかった。


 古川は続けた。


「黒瀬さんとこ、これから敵も増えるで。楽に安く使いたい会社からしたら、邪魔やろうからな」


「分かってます」


「分かってるならええ。ほな、また相談するわ。次もちゃんと金払う」


 電話が切れた。


 直人は、しばらく受話器を見ていた。


 美智子が静かに聞いた。


「通った?」


「うん。満額ではないけど、確認範囲を削って通ったって」


 隆夫が頷いた。


「それでええ。値引きやなくて、範囲を削ったんや」


 森川が言う。


「大きいな。安くせえやなくて、ここまでなら払う、になったんやろ」


「うん」


 直人は頷いた。


 値段を下げるのではなく、範囲を変える。


 それができれば、町工場は少しだけ守られる。


 美智子は、台帳に追記した。


 古川研磨。


 初回条件確認一式。


 確認範囲調整により承認。


 指定面写真。


 初回梱包確認。


 簡易記録。


 森川が、それを見ながら言った。


「奥さん、これ、黒瀬の仕事やないのに、えらい大事な記録ですね」


「大事な記録やよ」


 美智子は言った。


「黒瀬式が、よその工場の見積もりを変えた最初の記録やから」


 その言葉に、事務所が少し静かになった。


 黒瀬精機が直接作った部品ではない。


 だが、古川研磨の見積もりが変わった。


 相談に値段が付き、確認範囲が交渉され、ただの値下げではなくなった。


 それは、黒瀬式が外で動いたということだった。


 夜、直人は作業台の上に、河島産業の赤と青の札、桐島機工の外部説明用紙、そして古川研磨の相談記録を並べた。


 1つ目は、現場の手を迷わせないための札。


 2つ目は、取引で出すものと守るものを分ける紙。


 3つ目は、相談にも値段があることを示す記録。


 どれも派手ではない。


 けれど、どれも前の人生で欲しかったものだった。


 言うべきことを言うための形。


 ただで飲み込まないための紙。


 値段を下げるのではなく、範囲を変えるという交渉。


 直人は、古川の言葉を思い出した。


 面倒でええ。


 面倒やないと、また飲まされる。


 黒瀬精機は、面倒な工場になり始めている。


 けれど、それはきっと悪いことではない。


 誰かに都合よく使われないために。


 現場の手間を見えないまま消さないために。


 言うべき値段を、言えるようにするために。


 直人は、台帳に書かれた「相談料あり」の文字を見つめた。


 たった数文字。


 だが、その数文字が、町工場の未来を少し変えた気がした。


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