第87話 相談にも値段がある
桐島機工との打ち合わせから2日後、黒瀬精機にはまた新しい紙が増えていた。
黒瀬式 外部説明用。
共有する項目。
相手に見せる項目。
自社で守る項目。
その3つの欄が、美智子の赤鉛筆でくっきり分けられている。
だが、その紙の横に置かれた藤野からのファックスを見た瞬間、直人は少し眉を寄せた。
桐島機工より、外注先向け説明会の相談あり。
黒瀬精機より、黒瀬式の考え方を説明してほしい。
参加予定、外注先6社。
場所、東大阪商工会議所。
希望内容、黒瀬式の基本説明、共通書式案、外注先への記入指導。
最後の一文に、直人は目を止めた。
外注先への記入指導。
森川修一が、横から覗き込んで顔をしかめた。
「指導て書いてあるな」
隆夫も無言で紙を見ている。
美智子は赤鉛筆を置いた。
「これは危ないね」
「うん」
直人は頷いた。
「黒瀬が桐島さん側に立って、外注先に書かせる形に見える」
森川が腕を組む。
「町工場からしたら、また面倒な紙を増やす人間に見えますわ」
「そうなる」
直人はファックスを机に置いた。
桐島機工が悪いとは限らない。
品質をそろえたい。問題が出た時に戻れるようにしたい。外注先ごとの差を減らしたい。その考え自体は分かる。
けれど、言葉を間違えると、黒瀬式はすぐ別物になる。
守るための線が、書かせるための縄になる。
隆夫が低く言った。
「行くなら、最初に条件やな」
美智子が頷く。
「黒瀬精機が何を説明するか。何を説明しないか。それと、無料で行かないこと」
宮田悟が顔を上げた。
「無料ではないんですか」
美智子は、すぐに宮田を見た。
「悟くん、そこが大事やで」
「はい」
「黒瀬式の説明は、ただのおしゃべりやない。河島さんの現場で見て、比較表を作って、失敗しそうなところを整理して、やっと言えるようになった考え方や。これを無料にしたら、次から全部ただになる」
宮田は、少し緊張した顔で頷いた。
森川が、ぼそっと言う。
「ただで聞いて、ただで使って、あとで安く作れ言われるんが一番きついですね」
「それを止める」
直人は言った。
「相談にも値段を付ける」
事務所が少し静かになった。
その言葉は、思ったより重かった。
加工したものには値段が付く。
刃物代にも、材料代にも、運送代にも値段が付く。
けれど、考える時間には値段が付かないことが多い。
どうすれば間違えにくいか。
どこまで見せるべきか。
どこを守るべきか。
何を先に決めるべきか。
それを考える時間が、いつも「ちょっと見て」「ざっくり教えて」「参考までに」で消えていく。
直人は、前の人生で何度もそれを見た。
そして、自分も何度も飲み込んだ。
今度は、飲み込まない。
美智子は、白紙を出した。
黒瀬式 外部説明会 条件。
1つ目。
個別案件の図面、写真、寸法、費用内訳は出さない。
2つ目。
黒瀬式は外注先に書かせる道具ではなく、発注側と受注側が条件をそろえる道具として説明する。
3つ目。
発注側も、用途、使用条件、検査基準、搬送条件、不具合時の戻り先を提示する。
4つ目。
説明会は有償。
宮田が、4つ目で鉛筆を止めた。
「有償、とはっきり書くんですね」
「書く」
美智子は迷わなかった。
「書かんかったら、あとで言いにくくなる」
隆夫が、その紙を見ながら言った。
「金額はどうする」
美智子は少し考えた。
「黒瀬精機としての説明料。資料作成費。相談範囲は1回分。個別相談は別料金」
森川が目を丸くする。
「奥さん、なかなか強いな」
「強くないと、ただ働きになる」
その言い方に、直人は小さく笑いそうになった。
でも、本当にそうだった。
技術にも、時間にも、責任にも値段がある。
それを言わないまま進めば、また町工場は便利に使われる。
隆夫は、美智子が書いた紙をしばらく見てから、受話器を取った。
「藤野さんに返事するわ」
電話は短かった。
だが、隆夫の声はいつもより硬かった。
「黒瀬です。説明会の件ですが、条件があります。……はい。黒瀬式を外注先への記入指導としては扱えません。発注側と受注側が条件をそろえる場としてなら、お受けできます。……それと、説明会は有償です。資料作成費と説明料をいただきます」
森川が、作業場の入口で黙って聞いていた。
宮田は、隆夫の言葉を一つずつ控える。
美智子は、赤鉛筆を持ったまま、父の背中を見ていた。
直人も、その背中を見ていた。
言うべきことを言う背中だ。
かつて、言えなかった背中ではない。
電話を置くと、隆夫は少し息を吐いた。
「藤野さんは分かってくれた。桐島さんへ伝えるそうや」
森川が言う。
「断られますかね」
「断られたら、それまでや」
隆夫は、意外なほどあっさり言った。
「ただで使われるよりええ」
その言葉に、直人は胸の奥が熱くなった。
黒瀬精機は、変わっている。
夕方、藤野から返事が来た。
桐島機工、条件付きで了承。
説明会は有償。
ただし、長谷川より要望あり。
外注先側から反発が出る可能性があるため、黒瀬精機から直接説明してほしい。
美智子はファックスを読んで、直人を見た。
「出番やね」
「俺?」
「前に出るのは隆夫さん。でも、外注先側が一番聞きたいのは、たぶん直人の言葉や」
直人は少し黙った。
また前に出る。
嬉しさより、胃の奥が重くなる感じが先に来た。
河島産業の片岡や桐島機工の長谷川は、発注側だった。相手の理屈は強いが、話すべき方向は分かりやすかった。
今度は違う。
外注先の町工場たちが相手だ。
彼らから見れば、黒瀬精機は発注側に呼ばれた工場である。余計な紙と管理を持ち込む相手に見えるかもしれない。
そこで信じてもらうには、きれいな言葉では足りない。
翌日、東大阪商工会議所の会議室には、桐島機工の長谷川と山野、藤野、白井、そして外注先の工場主たちが集まっていた。
金属加工。
樹脂加工。
板金。
表面処理。
組付け。
運送。
顔ぶれは、河島の時よりも広い。
空気は、明らかに重かった。
長谷川が挨拶をしたあと、黒瀬精機の名前を出した瞬間、後ろの席から低い声が飛んだ。
「要するに、また書類増やせいう話ですか」
会議室が静かになる。
声を出したのは、年配の工場主だった。腕を組み、顔には不信感がはっきり出ている。
「こっちは現場回すだけで精一杯なんですわ。大きい会社さんが管理したいからいうて、あれ書けこれ書け言われても、その時間は誰が払うてくれるんですか」
別の工場主も頷いた。
「書いたら書いたで、次から単価下げる材料にされる。うちは前にそれで痛い目見てます」
長谷川の顔が少し硬くなった。
山野は何か言い返そうとしたが、白井が目で止めた。
隆夫が口を開く前に、直人はゆっくり立ち上がった。
心臓がうるさい。
だが、ここで黙っていると、黒瀬式は最初から誤解されたままになる。
「黒瀬精機の黒瀬直人です」
若い声に、何人かの目がこちらへ向いた。
年配の工場主は、さらに眉を寄せた。
「若い子が説明するんか」
「はい」
直人は頭を下げた。
「先に言います。今日の話は、外注先さんに何でも書かせるための話ではありません」
会議室の空気が、少しだけ動いた。
「黒瀬式は、書類を増やすためのものでも、単価を下げるためのものでもありません。むしろ、何を出して、何を出さないかを分けるためのものです」
年配の工場主が腕を組んだまま言う。
「出さないことも決める?」
「はい」
直人は、持ってきた紙を掲げた。
共有する項目。
相手に見せる項目。
自社で守る項目。
「たとえば、用途や使用条件、検査基準、不具合時の連絡先は共有した方がいいです。そこが曖昧だと、後で現場が困ります」
次の欄を指す。
「必要な範囲の工程や確認方法、保管方法は、相手に見せた方がいい場合があります。安心にもなりますし、原因を追いやすくなります」
最後の欄に指を置く。
「でも、原価構成、仕入先、細かい段取り、外注先の組み方。これは最初から出すものではありません。必要になった時に、必要な範囲で確認するべきものです」
会議室の後ろで、誰かが小さく「それなら分かる」と呟いた。
年配の工場主はまだ納得していない。
「けど、結局書くんやろ」
「書きます」
直人は否定しなかった。
「でも、書くなら値段を付けるべきです」
その瞬間、会議室の空気がはっきり変わった。
長谷川も、山野も、外注先の工場主たちも直人を見た。
直人は続けた。
「資料を作る時間、条件を整理する時間、写真を撮る時間、記録を残す時間。それは、ただの雑用ではありません。後で揉めないための仕事です。だから、発注側が求めるなら、その時間も仕事として扱うべきです」
白井が、静かに頷いた。
藤野もメモを取っている。
年配の工場主の顔から、少しだけ険が抜けた。
「兄ちゃん、それを大きい会社さんの前で言うんか」
「はい」
直人は長谷川を見た。
「桐島機工さんにも、そこは最初に伝えました。今日の説明会も有償です」
会議室がざわついた。
誰かが小さく笑った。
「黒瀬さん、よう言うたな」
別の工場主が言う。
「そら、ただで来い言われたら来るだけ赤字や」
長谷川は、少し気まずそうに咳払いをした。
「その点は、桐島機工としても了承しています。本日の説明会費用は当社で負担します」
それを聞いて、外注先の工場主たちの表情が少し変わった。
少なくとも、今日の黒瀬精機は大手の使いではない。
そう見え始めた。
直人は、そこで話を進めた。
「もう一つ、大事なことがあります。発注側も書くことがあります」
長谷川が頷いた。
直人は紙の別の欄を指す。
発注側が出すもの。
用途。
使用環境。
検査基準。
変更時の連絡。
搬送条件。
不具合時の戻り先。
「外注先だけが書くのではなく、発注側も用途や条件を出す。そうしないと、片方だけが責任を背負います」
年配の工場主が、ぽつりと言った。
「それを出してくれるなら、話は違うな」
直人は頷いた。
「はい。出してもらうための紙でもあります」
そこからの説明会は、最初の空気とは少し違った。
長谷川は、桐島機工側が出すべき用途と条件を書き出した。
山野は、外注管理表から原価構成と主要仕入先の欄を外した修正版を見せた。
外注先の工場主たちは、それでも警戒を解いてはいない。
だが、質問は具体的になった。
「不具合が出た時、どこまで調べるんや」
「写真は誰が保管するんや」
「工程名を書いたら、加工の中身まで聞かれるんと違うか」
「書類作成時間は、見積もりに入れてええんか」
直人は、一つずつ答えた。
分からないところは、隆夫や白井に振った。
無理に全部を自分で抱えない。
それも、前に進むために必要だった。
最後に、年配の工場主が言った。
「黒瀬さん」
隆夫が顔を上げる。
だが、その工場主は直人を見ていた。
「兄ちゃんの言う通りに全部うまくいくとは思わん。大きい会社は、結局自分らに都合よう使おうとする」
「はい」
直人は頷いた。
「その可能性はあります」
「そこは認めるんか」
「認めます。だから、最初に出すものと出さないものを決めます。決めずに始めたら、たぶん押されます」
工場主は、しばらく直人を見た。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「面倒な兄ちゃんやな」
会議室に小さな笑いが起きた。
直人は、どう返していいか迷った。
その時、隆夫が横から言った。
「うちは、面倒な工場で売り出し中ですわ」
今度は、はっきり笑いが起きた。
重かった空気が、少しだけほどけた。
説明会が終わった後、藤野が直人に言った。
「今日のは、大きかったです」
「通じましたか」
「全員に通じたわけではないと思います。でも、外注先側が質問できる空気になりました。それが大きいです」
白井も頷いた。
「発注側が一方的に管理する会になると危なかった。今日は、取引条件をそろえる会になりました」
長谷川は、最後に隆夫と直人へ頭を下げた。
「黒瀬さん、今日は助かりました。耳の痛い話も多かったですが、必要でした」
山野も、少し硬い顔のまま言った。
「管理表は作り直します。全部集めるより、戻れる項目に絞った方が使えそうです」
帰り道、隆夫と直人は商工会議所を出て、夕方の高井田へ歩いた。
西日が工場の屋根を赤く照らしている。どこかでプレス機の音がして、トラックのバックブザーが短く鳴った。
「直人」
「うん」
「今日は、よう言うた」
父の声は短かった。
だが、それだけで十分だった。
「怖かったわ」
直人が正直に言うと、隆夫は少し笑った。
「わしもや」
「おとんも?」
「そらそうや。大きい会社と外注先の前で、相談にも値段がある言うんやからな」
直人は、少し笑った。
黒瀬精機へ戻ると、美智子がすぐに聞いた。
「どうやった?」
隆夫は椅子に座りながら言った。
「直人が、相談にも値段があると言うた」
美智子の目が少し丸くなり、それからゆっくり笑った。
「よう言うた」
森川が作業場から顔を出す。
「直坊、また面倒なこと言うてきたんか」
「うん」
「褒められたか?」
「面倒な兄ちゃんって言われた」
森川は声を出して笑った。
「最高やないか」
宮田が、今日の記録用紙を用意している。
「見出し、どうしますか」
直人は少し考えた。
美智子が赤鉛筆を持つ。
隆夫が言った。
「相談にも値段がある、でええんちゃうか」
美智子は頷き、そのまま紙の上に書いた。
相談にも値段がある。
直人は、その文字を見た。
加工だけではない。
考えること。
整理すること。
言うべきことを言うこと。
それにも値段がある。
それを認めさせなければ、町工場はまた便利に使われる。
黒瀬精機は今日、少しだけそこへ踏み出した。
作業台の上では、赤と青の札がまだ並んでいる。
その隣に、新しい紙が置かれた。
黒瀬式 説明会記録。
相談にも値段がある。
外へ出すもの。
出さないもの。
発注側も出すもの。
その3つの線が、また一つ太くなった気がした。
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