第84話 間違えようのない形

 正式受注の翌日、黒瀬精機の作業台には朝から赤と青の札が並んでいた。


 TKD-1996-002-C。


 洗浄前用試作。


 TKD-1996-002-D。


 洗浄後用試作。


 まだ完成品ではない。けれど、前のAとBとは違う。今度は現場で実際に使う形を確かめるための試作品だった。


 森川修一は、赤い札を指でつまみながら言った。


「直坊、赤と青だけでほんまに足りるか?」


「足りへん」


 直人は即答した。


「色は見るためや。間違えにくくする本体は、形と置き場やと思う」


「ほな、色は最後の確認か」


「うん。色だけに頼ったら、汚れた時に弱い」


 森川は少し笑った。


「言うようになったな」


 作業台の上には、洗浄前用と洗浄後用の仮形状が置かれていた。


 洗浄前用は、汚れが残りにくいように角を少なくし、拭きやすい面を優先している。持ち手は太めで、手袋をしたままでも掴める。赤い札は外から見える位置に付ける予定だった。


 洗浄後用は、製品に触れる面の当たりを優先した。置く方向を間違えないように、片側だけわずかに形を変えてある。青い札は、持つ位置の近くに付ける。


 宮田悟は、2つの試作品を別々の紙に写していた。


 C。


 洗浄前用。


 赤。


 拭きやすさ優先。


 汚れ残り確認。


 D。


 洗浄後用。


 青。


 当たり面保護。


 置き向き確認。


 形状差あり。


 美智子は、その横で試作費の控えを見ている。


「直人、試作品の説明書きは、現場の人が読んで分かるようにしてね。黒瀬の中だけで通じる言葉にしたらあかんよ」


「うん」


「『当たり面保護』だけやと、現場では少し硬いかもしれん」


 森川が横から言った。


「製品に触る方、でええんちゃいますか。その方が早いですわ」


 美智子はすぐに赤鉛筆で書き直した。


 製品に触る方。


 触っていい場所。


 持つ場所。


 置く向き。


 宮田がそれを見て頷く。


「この方が、現場で見やすいです」


 直人は、2つの試作品を見つめた。


 前の人生で、よくあった。


 説明書はある。


 注意書きもある。


 けれど、現場で読まれない。読めない。忙しい時に、いちいち紙を開いて確認できない。だから最後は「注意しろ」「ちゃんと見ろ」「慣れろ」になる。


 それでは駄目だ。


 現場が楽をするためではない。


 楽に正しい動きができるようにするためだ。


 隆夫が旋盤の横から声をかけた。


「直人、持つところの逃げはこれでええか」


 森川と直人が覗き込む。


 洗浄後用の試作品Dには、持ってほしくない側に小さな逃げが付けられていた。無理に掴めないことはない。だが、自然と持ちやすい方へ手が行く。


 直人は自分で手袋をはめ、試作品を持った。


 1回目。


 2回目。


 急いだふりをして、少し乱暴に置く。


 手は、やはり同じ場所へ行った。


「これなら、だいたい誘導できると思う」


 森川が頷く。


「完全には無理やけどな」


「うん。完全を目指すと、今度は使いにくくなる」


「そこやな」


 森川は、試作品Dを持って軽く動かした。


「使いにくい道具は、最後に現場が勝手に使いやすいように変える。向き変えたり、札を外したり、違う箱に入れたりする。そしたら全部崩れる」


 美智子がその言葉を拾った。


「それ、書いとく?」


 森川は少し困った顔をした。


「そのまま書いたら角が立ちますやろ」


「現場で勝手に変更しなくて済む形にする、かな」


 美智子が言うと、直人は頷いた。


「それで頼むわ」


 昼前、田端がやって来た。


 いつものように荷物を受け取りに来たはずだったが、机の上の赤と青の試作品を見るなり、足を止めた。


「これが例のやつですか」


「はい」


 直人は、2つの試作品と仮の搬送箱を見せた。


 箱はまだ市販の樹脂箱を使った仮のものだった。だが、洗浄前用と洗浄後用で、持ち手の向きと札の位置を変えている。


 田端は、それを見てすぐに箱を持った。


「なるほど。こっちはこっち向きで持つ。こっちは逆向きにしたら札が見えにくい」


「はい。忙しい時でも、持った時に違和感が出るようにしたいんです」


「色だけやと、汚れたら終わりですからな」


 田端は箱を軽トラックの荷台に見立て、作業台の端に並べた。


「積むなら、こうですわ。けど、同じ大きさやと、急いだ時に上へ重ねるかもしれません」


 直人はすぐに宮田を見た。


 宮田はもう書いていた。


 同寸法だと重ねる可能性。


 高さ差、または蓋形状差を検討。


 田端は苦笑した。


「宮田くん、逃さんなあ」


「戻れなくなるので」


「ええ返しですわ」


 森川が横で笑う。


「宮田も、黒瀬の紙に染まってきたな」


 美智子は、宮田の紙を見て頷いた。


「高さ差は良さそうやね。重ねにくいなら、混ざりにくい」


 直人は、箱を2つ並べた。


 洗浄前用は赤札で、やや浅い箱。


 洗浄後用は青札で、蓋付きの深めの箱。


 これなら、見た目だけでなく、持った時にも違う。


「田端さん、これやと運びにくいですか」


「少し面倒です」


 田端は正直に言った。


「けど、間違えて戻る方がもっと面倒です。運ぶ方からすると、最初に面倒な方がまだええです」


 その言葉は重かった。


 楽に見える道具が、本当に楽とは限らない。


 最初に少し手間をかけることで、後の大きな手戻りを減らす。


 それを、運ぶ側も知っている。


 午後、河島産業で2回目の現場確認が始まった。


 片岡は、前回よりも真剣な顔で試作品を見ていた。現場主任の横には、前回手を伸ばしかけた作業者も立っている。あの時のことが気になっているのか、少し落ち着かない顔だった。


 直人は、その作業者へ頭を下げた。


「前回は急に止めてすみませんでした」


「いえ。こっちこそ、勝手に触りかけてすみません」


「今日は、その触りかける動きが出ないかを見たいんです」


 作業者は驚いた顔をした。


「僕がやるんですか」


「はい。いつも通りに近い感じでお願いします。間違えたら、その方がありがたいです」


 主任が少し笑った。


「間違えたらありがたい、ですか」


「試作なので」


 直人は答えた。


「本番で間違えるより、今間違えた方が直せます」


 その言葉で、作業者の緊張が少しほどけた。


 まず、洗浄前用Cを使った。


 赤札。


 浅い箱。


 持ち手は太い。


 作業者は、洗浄前の仮置き台からCを取り、製品サンプルを置く。動きは少しぎこちないが、持つ場所はほぼ誘導できていた。


 次に、洗浄後用D。


 青札。


 深めの箱。


 製品に触る方を守る形。


 作業者は最初、前と同じ癖で赤い箱の位置へ手を伸ばしかけた。


 だが、箱の高さが違うため、手が止まった。


「あ、こっちじゃない」


 作業者が自分で言った。


 主任の目が変わった。


 片岡も、すぐにメモを取る。


 直人は、そこで何も言わなかった。


 今のは、説明より強い。


 間違えかけた。


 けれど、形が止めた。


 注意ではなく、道具が一瞬、作業者に教えた。


 森川が小さく呟く。


「入らんようにしたら、怒らんで済む」


 直人はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。


 そうだ。


 叱らなくて済む。


 注意不足にしなくて済む。


 現場が悪いと言わなくて済む。


 間違えた人を責める前に、間違えにくい形へ変える。それができれば、不良も、手戻りも、空気の悪さも減る。


 主任が、作業者にもう一度やらせた。


 2回目。


 3回目。


 動きは少しずつ滑らかになった。


 説明を長くしなくても、赤は洗浄前、青は洗浄後。浅い箱と深い箱。持つ場所も違う。置く向きも違う。


 作業者は、途中で言った。


「これ、前より迷わないです」


 主任が聞き返す。


「前より?」


「あの、前回のやつやと、どっちにも使えそうで逆に迷いました。こっちは見たら違うんで」


 片岡のペンが止まった。


 直人は、作業者の言葉を噛みしめた。


 見たら違う。


 それは、設計の勝ちだった。


 主任は、試作品Dの製品に触る方を指で触った。


「濡れた手袋でも、前より置きやすいですね。ただ、青札の位置がちょっと作業台の影に入ります」


 森川がすぐに覗き込む。


「こっち側へずらした方がええですね」


 直人も確認する。


「札を上面ではなく、持ち手の横へ移します。箱に入れた時にも見える位置がいいです」


 宮田が書く。


 D青札、持ち手横へ移動。


 作業台影で見えにくい。


 箱収納時にも見える位置。


 次に、田端の搬送箱を使った確認をした。


 田端本人は来ていないが、仮の箱には田端から聞いた持ち向きと重ね防止の案が入っている。


 主任が洗浄前用Cを赤い浅箱へ入れる。


 洗浄後用Dを青い深箱へ入れる。


 作業者が、試しに箱を入れ替えようとすると、Dは赤い浅箱にうまく収まらなかった。


「あ、入らない」


 作業者が言った。


 主任が息を吐く。


「これはいいですね。間違えようとしても止まる」


 片岡が、その言葉に反応した。


「間違えようとしても止まる」


 直人は頷いた。


「完全ではありません。でも、間違える前に違和感が出ます」


 片岡は、箱を見ながら言った。


「安い兼用案には、これはありませんでした」


「たぶん、箱も1つになります」


「でしょうね」


 片岡の声には、もう迷いが少なかった。


 それでも、主任は最後まで現場の目で見ていた。


「ただ、箱が2つになると置き場が必要です」


「はい」


 直人は頷いた。


「今の棚の一段を分ける形ではどうですか。上段を洗浄後用、下段を洗浄前用。高さを変えれば、置き間違いも減ります」


 主任は棚を見る。


「上段が青、下段が赤ですか」


「はい。洗浄後用を上にした方が、床の濡れや汚れから遠くなります」


「それは説明しやすい」


 主任は、初めてはっきりと頷いた。


「これなら、現場に通せます」


 片岡が、静かに言った。


「黒瀬さん、これで進めましょう。次は正式な試作ではなく、もう量産前の確認に入れますか」


 直人はすぐには頷かなかった。


 気持ちは前へ行きたい。


 だが、まだ見るべきところがある。


「量産前確認には入れます。ただし、今日出た修正点を反映したものを1回だけ見たいです」


 片岡は少し苦笑した。


「慎重ですね」


「ここで飛ばすと、後で現場に戻ります」


 主任が片岡へ言った。


「私も、修正版を見てからの方がいいです。青札の位置と棚置きは確認したい」


 片岡は、主任の言葉に頷いた。


「わかりました。修正版を1回確認。それで問題なければ、量産前確認へ進めます」


 隆夫が頭を下げる。


「ありがとうございます」


 森川が試作品を箱へ戻しながら、直人に小声で言った。


「直坊、今日は勝ったんちゃうか」


「まだやと思う」


「厳しいな」


「量産前確認まで行ったら、少し勝ち」


 森川は笑った。


「社長より慎重かもしれんな」


 黒瀬精機へ戻ると、美智子がすぐに結果を聞いた。


「どうやった?」


 隆夫が答える。


「CとDで進む。青札の位置修正。棚置き確認。箱は形状差ありで継続」


 宮田がすぐにメモを出す。


「作業者が自分で『こっちじゃない』と気づいた場面がありました」


 美智子の手が止まった。


「それ、大事やね」


「うん」


 直人は言った。


「注意されて気づいたんじゃなくて、形で気づいた」


 美智子は赤鉛筆で、その言葉を大きく書いた。


 形で気づく。


 森川が、作業場へ向かいながら言った。


「怒らんで済む道具やな」


 美智子が顔を上げた。


「それ、ええね」


 森川は振り返る。


「いや、今のは適当に言うただけです」


「でも、ええ言葉や」


 直人も頷いた。


「怒らんで済む道具。現場には、その方が伝わるかもしれん」


 森川は少し照れたように鼻を鳴らした。


「ほな、使うなら使うてください」


 宮田が、すでに紙へ書いていた。


 怒らんで済む道具。


 形で気づく。


 間違えようとしても止まる。


 隆夫は、その紙を見ながら静かに言った。


「これは、黒瀬式の芯かもしれんな」


 直人は顔を上げた。


「黒瀬式の芯?」


「人を責める前に、形で止める。紙で戻れるようにする。箱で迷わんようにする。そういうことやろ」


 直人は、すぐには答えられなかった。


 それは、自分が前の人生で欲しかったものだった。


 誰かを責める前に、仕組みで止める。


 根性や注意力に頼らない。


 現場の人間を、最後の防波堤にしない。


「うん」


 直人は、ゆっくり頷いた。


「それができたら、現場は少し楽になる」


 美智子が言う。


「楽になるだけやないよ。不良が減る。調査も減る。結局、安くなる」


 隆夫も頷いた。


「安いもんを買うんやなくて、後で高うつかん形を選ぶんやな」


 その言葉に、直人は深く頷いた。


 安さに勝つのではない。


 あとで高くつく道を避ける。


 それが、黒瀬精機の提案だった。


 その夜、修正版の札が作業台に並んだ。


 TKD-1996-002-C2。


 洗浄前用試作修正版。


 TKD-1996-002-D2。


 洗浄後用試作修正版。


 青札は持ち手の横へ移された。


 赤札は浅箱の外側にも見える位置へ付ける。


 箱の高さは変えた。


 棚置き確認のため、簡単な置き位置の絵も添えた。


 宮田は写真を貼り、短い説明を書いた。


 形で気づく。


 箱で止まる。


 棚で分ける。


 怒らんで済む。


 森川がそれを見て、少し笑った。


「最後のやつ、ほんまに書くんか」


 美智子は迷わず言った。


「書く。現場の人が一番わかる言葉やから」


 直人は、作業台の上の修正版を見つめた。


 まだ小さな試作品だ。


 けれど、そこには黒瀬精機が進むべき方向があった。


 使いやすいだけではない。


 間違えにくい。


 戻りやすい。


 責めなくて済む。


 そして、結果的に安くつく。


 それを形にできるなら、黒瀬精機はただの町工場では終わらない。


 直人は、札を一枚ずつ確認しながら思った。


 未来を変えるのは、大きな発明だけではない。


 現場の手が迷わない、小さな形でも変えられる。


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