第85話 面倒な工場
河島産業での量産前確認は、思ったより早く終わった。
TKD-1996-002-C2。
洗浄前用試作修正版。
TKD-1996-002-D2。
洗浄後用試作修正版。
黒瀬精機が持ち込んだ2つの試作品は、前回よりもはっきり違う形になっていた。洗浄前用は赤札と浅い箱。洗浄後用は青札と深い箱。持ち手の位置も違う。棚に置いた時の高さも変えてある。
現場主任は、まず何も言わずに作業者へ渡した。
「いつも通りでええ。迷ったら、そのまま止まってくれ」
作業者は頷き、洗浄前用を手に取った。
赤い浅箱。
太めの持ち手。
拭きやすい面。
動きは前より早かった。
次に洗浄後用へ手を伸ばす。青札は持ち手の横へ移されている。作業台の影にも入らない。深い箱は赤い箱と形が違うため、手が自然に別の動きになった。
置く。
戻す。
仮の製品サンプルを置く。
もう一度戻す。
作業者は2回目で、ほとんど迷わなかった。
「これなら大丈夫そうです」
主任が尋ねる。
「前のやつと、どこが違う?」
「見たら違います。あと、箱が違うんで、手が先に気づきます」
手が先に気づく。
直人は、その言葉を胸の中で繰り返した。
これだと思った。
注意書きではない。長い説明でもない。作業者の手が、先に違和感を覚える。間違える前に止まれる。
片岡も、その言葉を聞き逃さなかった。
「手が先に気づく、ですか」
作業者は少し照れたように笑った。
「はい。頭で考える前に、こっちじゃないなってなります」
森川修一が、直人の横で小さく言った。
「ええ言葉もろたな、直坊」
「うん」
直人は小さく頷いた。
主任は棚の位置も確認した。
上段に青。
下段に赤。
洗浄後用を上段に置く理由も説明しやすい。床の濡れや汚れから遠い。赤と青だけではなく、高さと箱の形でも分かれる。
「これなら現場に通せます」
主任は、はっきり言った。
「説明も短くできます。洗浄後は上、青、深い箱。洗浄前は下、赤、浅い箱。これなら新人にも言いやすい」
片岡は、手元の紙に書き込んでから、隆夫へ向き直った。
「黒瀬さん、この形で先行分をお願いします」
隆夫はすぐには返事をしなかった。
横に座る直人を一度見る。
受けたい。
だが、ここで勢いだけで受けると、また線が曖昧になる。
直人は小さく頷いた。
隆夫が答える。
「ありがとうございます。まず先行分として、洗浄前用と洗浄後用を各5組。搬送箱と札も合わせて納める形でよろしいですか」
「はい。現場確認用として各5組。その結果を見て、追加分を判断します」
「正式な数量変更と追加条件は、書面でお願いします」
片岡は苦笑した。
「そこは、もう分かっています」
少し前なら、そこで空気が固くなったかもしれない。
だが、今の片岡は違った。
黒瀬が書面を求めるのは、逃げるためではない。後で揉めないためだと分かっている顔だった。
直人は、少しだけ息を吐いた。
河島案件は、ようやく仕事になった。
黒瀬精機へ戻る車の中で、森川は後ろの席から言った。
「各5組か。小さいけど、ええ仕事やな」
隆夫が運転しながら頷く。
「小さいからええんや。最初から大きく受けたら、現場が追いつかん」
宮田悟は、書類袋を抱えたまま言った。
「先行分。現場確認後、追加判断。書面待ち。戻ったら、ファイルを分けます」
森川が笑う。
「宮田、もう先に言うようになったな」
「先に言わないと、あとで戻れなくなるので」
「それ、完全に口癖やな」
車内に小さな笑いが起きた。
直人も笑ったが、頭の中では次のことを考えていた。
各5組。
大きな注文ではない。
けれど、黒瀬精機にとっては意味がある。
安い兼用案を退けた。
有償試作から先行分へ進んだ。
作業者が「前より迷わない」と言った。
それだけで、前の人生とは違う道を歩いている気がした。
黒瀬精機へ戻ると、美智子は話を最後まで聞く前に、机へ向かった。
「先行分やね。受注書が来るまで材料手配は仮止め。札と箱は先に仕様だけ整理。作業時間も、試作と先行分で分ける」
森川が苦笑する。
「奥さん、喜ぶ前に紙ですか」
「喜ぶのは、受注書が来てから」
「厳しいなあ」
「ここで緩めたら、今までの話が台無しや」
美智子は、当然のように言った。
隆夫はファックスの前に立ち、片岡からの書面を待つ準備をしている。宮田はファイルを開く。森川は端材置き場ではなく、材料棚の前で寸法を確認し始めた。
黒瀬精機は、浮かれていなかった。
それが直人には嬉しかった。
仕事を取った時こそ、浮かれると危ない。前の人生で、それも何度も見てきた。
昼過ぎ、河島産業から受注書が届いた。
TKD-1996-002。
洗浄前用C2、先行5組。
洗浄後用D2、先行5組。
搬送箱、各5。
札、各5。
現場確認後に追加判断。
正式量産見積もりは、先行分使用結果確認後。
美智子は最後まで読み、赤鉛筆で大きく丸を付けた。
「これで始められる」
その言葉で、工場の空気が少し変わった。
森川が、作業場へ声をかける。
「ほな、始めよか。直坊、C2から見るぞ」
「うん」
直人は作業台へ向かった。
そこからの黒瀬精機は早かった。
森川が加工の段取りを組む。
隆夫が工程順を決める。
宮田が番号札と写真控えを準備する。
美智子が作業時間と試作費、先行分の費用を分けて記録する。
直人は、C2とD2の使い方説明を短くまとめた。
C2。
洗浄前用。
赤。
下段保管。
浅箱。
汚れが残りにくい形。
D2。
洗浄後用。
青。
上段保管。
深箱。
製品に触る方を守る形。
説明は、それだけでよかった。
長く書けば、読まれない。
短くしすぎれば、伝わらない。
現場で一目見て、あとで戻れるだけの言葉にする。
直人が書いた紙を、森川が横から見た。
「ええんちゃうか。難しい言葉がない」
「おかんに言われたから」
「奥さんの赤鉛筆は強いな」
「強い」
直人が即答すると、森川が笑った。
夕方までに、最初の2組が形になった。
完成品ではない。
けれど、先行分としての顔をしていた。
赤と青。
浅い箱と深い箱。
持つ場所の違い。
置き向きの違い。
小さな差が、いくつも積み重なっている。
直人は、その2組を見ていた。
派手さはない。
大きな機械音もない。
だが、これは確かに仕事だった。
その時、事務所の電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、藤野さん。お世話になっております」
直人は顔を上げた。
藤野からの電話は、河島の報告だろうか。
だが、美智子の表情は少し変わった。
「……はい。河島さんの件を聞いて? ……いえ、まだ先行分が始まったところです。……はい。相談ですか」
森川が、作業の手を止めた。
隆夫も事務所へ入ってくる。
美智子は受話器を持ったまま、眉を寄せた。
「図面と比較表を見せてほしい、ですか。……いえ、黒瀬で作った資料をそのまま外へ出すことはできません」
直人の胸が、わずかに冷えた。
来た。
河島案件が進んだことで、黒瀬式が外へ出る。
それ自体は悪くない。
だが、比較表や写真、形状の考え方をそのまま出せば、黒瀬が考えた仕事の入口だけを誰かに使われる可能性がある。
美智子は、受話器越しに丁寧に言った。
「はい。考え方の説明なら可能です。ただし、個別案件の写真、比較表、寸法、形状案は出せません。……はい。藤野さん、そこは最初に線を引かせてください」
電話を切ると、美智子は深く息を吐いた。
隆夫が聞く。
「何の相談や」
「商工会議所に、別の会社から問い合わせが来たそうや。河島さんの比較資料を見た人がいるらしい。黒瀬精機がどうやって安い案と比べたのか、知りたいって」
森川が顔をしかめる。
「もう来たんか」
「来たね」
美智子は、赤鉛筆を置いた。
「しかも、図面と比較表も見たいらしい」
宮田が、思わずファイルを抱え直した。
「それは出せません」
「うん。出せない」
直人は即答した。
黒瀬精機の中が、少し静かになった。
仕事が広がる。
それは喜ぶべきことだ。
しかし、広がり方を間違えれば、黒瀬精機はただの無料相談所になる。比較表だけ取られ、考え方だけ抜かれ、安い加工屋に渡される。
前の人生で見た、技術の吸い上げと同じ匂いがした。
隆夫は、ゆっくり言った。
「考え方は出してもええ。けど、中身は出さん」
美智子が頷く。
「そう。黒瀬式を広げるなら、雛形にしないとあかん。個別案件の紙をそのまま渡したら終わりや」
森川が腕を組んだ。
「また紙ですか」
「今度の紙は、守る紙や」
直人は言った。
森川が直人を見る。
「守る紙?」
「うん。外へ出していいところと、出したらあかんところを分ける紙」
美智子の目が少し細くなった。
「それ、要るね」
直人は白紙を1枚引き寄せた。
外へ出せるもの。
初期費用だけでなく運用時の確認負担を見る考え方。
兼用案と分離案を比較する項目。
現場で迷う動きを確認する手順。
外へ出さないもの。
河島産業の現場写真。
試作品の寸法。
具体的な形状差。
費用内訳。
各社の名前が入った比較表。
宮田が、その横で同じ内容を写し始める。
森川が覗き込んだ。
「なるほどな。料理の考え方は教えても、鍋の中身までは見せん、みたいな話か」
「うん。たぶんそう」
直人は頷いた。
「黒瀬式を広げるなら、黒瀬が考えた形をただで渡すんじゃなくて、相談として受ける形にしないとあかん」
隆夫が、少しだけ笑った。
「また、面倒な工場になるな」
その言葉に、森川が反応した。
「もうなってますやろ」
美智子も、少し笑った。
「面倒な工場でええよ。後で揉めへん方が大事や」
その時、ファックスが鳴った。
藤野からだった。
内容は短い。
高井田町工場連絡会の運用について、黒瀬精機の考え方を聞きたい企業がある。
ただし、相手は「黒瀬式を自社の外注先にも使わせたい」と言っている。
打ち合わせ希望。
直人は、その一文で顔を上げた。
黒瀬式を、自社の外注先にも使わせたい。
便利な言葉だった。
しかし、その裏には危うさがある。
発注側が、黒瀬式を盾にして外注先へ管理だけ押しつける。黒瀬が守るために作った線が、別の町工場を縛る道具になるかもしれない。
それは違う。
黒瀬式は、上から押しつけるものではない。
町工場が、自分たちの手間と責任を見えるようにするためのものだ。
直人は、ゆっくり言った。
「おとん、この打ち合わせ、行った方がええと思う」
隆夫が直人を見る。
「危ないぞ」
「うん。でも、ここで断るだけやと、別の形で勝手に使われるかもしれん」
美智子が頷いた。
「なら、最初に言うことを決めとかなあかんね」
直人は、白紙の一番上に書いた。
黒瀬式は、安く叩くための道具ではない。
森川が、その文字を見て黙った。
宮田も、鉛筆を止めた。
隆夫は、しばらくその一文を見てから言った。
「それを言いに行くか」
「うん」
直人は頷いた。
「河島さんの仕事は進める。でも、次は黒瀬式の使われ方を決めなあかん」
美智子は赤鉛筆で、その一文の下に線を引いた。
黒瀬精機は、ようやく1つ仕事を進めた。
だが、その仕事は次の面倒を連れてきた。
安い案との勝負の次は、黒瀬式そのものの勝負になる。
直人は、赤と青の札を見つめた。
現場を守るために作った線が、誰かを縛る縄にならないように。
次は、そこを守らなければならない。
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