第83話 安い答え
安い兼用案の話は、翌朝には黒瀬精機の作業台に乗っていた。
片岡から届いたファックスには、詳しい図面はなかった。だが、別の加工屋が提示したという簡単な構想が書かれている。
洗浄前後兼用。
1台で対応。
色札貼付。
概算費用、黒瀬案より低め。
試作期間、短め。
森川修一は、その紙を見た瞬間、苦い顔をした。
「まあ、安いわな」
隆夫も腕を組む。
「1つで済ませたら、そら安く見える」
美智子は、ファックスの端を赤鉛筆で押さえた。
「見える、やね」
宮田悟は、机の横で控えのファイルを開いている。前日の現場確認メモ、写真、試作品AとBの記録、片岡からの電話メモ。その全部を並べても、ファックス1枚の安い数字の方が強く見えることがある。
直人は、その紙をじっと見ていた。
敵は、別の加工屋ではない。
安く見える答えだ。
前の人生でも、何度も見た。最初に安く出したところが勝つ。後から条件が増えても、最初の数字が基準になる。現場が困っても、発注側は「最初の話と違う」と言う。受注側は「そこまで聞いていない」と言う。
その間で、手を動かす人間だけが無理をする。
森川が、直人を見る。
「直坊、どうする」
「比べます」
「値段を?」
「値段だけやと負けます」
直人は、はっきり言った。
「だから、比べるのは値段じゃなくて、残る手間です」
美智子の赤鉛筆が止まった。
「残る手間」
「はい」
直人は白紙を出した。
左に、安い兼用案。
右に、黒瀬の分離案。
その下に項目を書いていく。
初期費用。
試作数。
置き場。
色札。
持ち間違い。
洗浄前後の混在。
傷確認。
搬送時の混載。
責任範囲。
現場教育。
再発時の調査。
森川が横から覗き込み、少し目を細めた。
「再発時の調査って何や」
「もし傷が出た時、どこで起きたか調べる手間です」
「ああ、それは重いな」
「はい。兼用だと、洗浄前で付いた傷か、洗浄後で付いた傷か、運ぶ時についた傷か、置き方か、道具か、すぐに分かりません」
宮田が、すぐに書き足した。
再発時に原因が分かりにくい。
美智子が頷いた。
「それは片岡さんにも刺さるね。発注側が嫌がるのは、安い高いだけやなくて、問題が出た時に原因が追えないことやから」
隆夫は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「黒瀬案は高い。そこは隠さん方がええな」
「はい」
直人は即答した。
「高い理由を、項目で見せます」
森川が腕を組む。
「安い方を悪者にせん方がええで」
「わかってます」
直人は頷いた。
「兼用案が悪いんじゃなくて、今回の使い方には合わない。そう書きます」
その言葉に、隆夫が少しだけ笑った。
「喧嘩しに行くんやないからな」
「はい。選べるようにします」
美智子が、新しい紙の上に見出しを書いた。
TKD-1996-002 提案比較表。
安い答えと、安全な答え。
書いた後で、美智子は少し考え、線を引いて直した。
安い答え。
安全な答え。
その言葉は強すぎる。
直人もそう思った。
「おかん、そこは変えた方がいいと思う」
「うん」
美智子は、すぐに書き直す。
兼用案。
分離案。
その下に小さく添える。
初期費用だけでなく、運用時の確認負担を含めて比較。
これなら、押しつけではない。
相手に選ばせる形になる。
ただし、見るべき場所は変えられる。
午前中いっぱい、黒瀬精機は比較表を作った。
森川は、現場で起きそうな動きを言葉にした。
「急いだ時は、絶対に近い方へ置く」
「濡れた手袋で札だけ見るのは無理ですわ」
「形が同じやったら、箱を逆に置くことはあります」
「色だけやと、汚れたら見えにくいですね」
宮田は、それを一つずつ紙に落とす。
隆夫は、費用の線を見た。
美智子は、言い方が強くなりすぎないように整えた。
直人は、最後に表の一番下へ1行を足した。
初期費用差より、再発時の調査不能リスクを重く見る。
美智子が、それを見て少し止まった。
「強いね」
「強いです。でも、ここが一番大事です」
隆夫が、その一行を読んだ。
「調査不能、か」
「はい。傷が出た時に、原因が追えない。これは発注側も困るはずです」
森川がぼそっと言った。
「現場はもっと困るで。誰がやった、どこでやった言われる」
その声に、事務所の空気が少し重くなった。
直人は、森川の方を見た。
「そこも書いた方がいいですか」
「書かんでええ」
森川は首を振った。
「でも、忘れん方がええ。原因が追えん仕事は、最後に人のせいになる」
それは、直人の胸に強く残った。
紙の比較表には書かない。
だが、黒瀬精機が守りたいのは、そこでもあった。
午後、東大阪商工会議所の小会議室に集まったのは、前回と同じ顔ぶれだった。
黒瀬側は隆夫と直人。
会議所の藤野。
信用金庫の白井。
河島産業の片岡。
片岡は、最初から少し疲れた顔をしていた。安い兼用案を社内から出され、黒瀬案との比較を求められているのだろう。
片岡は、席に着くなり頭を下げた。
「申し訳ありません。昨日の現場確認のあとで、別案が出てきました」
隆夫が答える。
「聞いてます」
「社内では、やはり初期費用を抑えたいという声が強いです。兼用で安くできるなら、そちらも検討すべきではないか、と」
藤野は黙っている。
白井も、手元の資料を見るだけだった。
ここで黒瀬が感情的になれば、ただの高い業者になる。
隆夫は、直人に視線を送った。
直人は、比較表を机の中央へ置いた。
「片岡さん、黒瀬案の方が初期費用は高いです」
最初にそう言うと、片岡の目が少し動いた。
高いことを認めたからだ。
「洗浄前用と洗浄後用を分けます。試作品も2系統になります。搬送箱と札も別に見ます。だから、兼用案より安くはなりません」
片岡は頷いた。
「そこは、社内でも指摘されています」
「はい。なので、費用だけなら黒瀬案は不利です」
藤野が少しだけ顔を上げた。
白井も、直人を見る。
直人は、比較表の下段を指した。
「ただ、比べる場所を初期費用だけにすると、昨日見えた危なさが消えます」
「危なさ」
「はい」
直人は、昨日の記録写真を出した。
作業者の手が試作品Aへ伸びかけた場面。
濡れた状態で製品サンプルがわずかにずれた場面。
持つ位置が1回目と2回目で変わった場面。
宮田が撮った写真は鮮明とは言えなかった。だが、何が起きたかはわかる。
「兼用案は、道具が1つで済みます。初期費用も低く見えます。でも、洗浄前後の混在、持ち間違い、置き間違い、搬送箱の混在が起きた時、原因を追いにくいです」
片岡は写真を見た。
昨日、自分もそこにいた。
だから、その写真には説得力があった。
「黒瀬案は、最初に分けます。洗浄前用と洗浄後用で、形、色、置き場、箱を変えます。初期費用は上がります。でも、問題が出た時に、どちらの工程で起きたか追いやすくなります」
白井が静かに口を開いた。
「片岡さん、金融の立場から言えば、これは設備費の大小だけの話ではありません。後で不良が出て再発防止や調査に時間がかかると、その費用は見積もりに出てこない形で膨らみます」
片岡は、白井の方を見る。
「見えない費用、ですね」
「はい。特に、原因が追えない費用は厄介です」
藤野も続けた。
「会議所としても、黒瀬さんの比較表は使いやすいです。高い安いではなく、どこを残すか、どこを追えるようにするかが整理されています」
片岡は、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ苦笑した。
「社内で、こういう表が一番嫌がられるんです」
直人は意外に思った。
「嫌がられるんですか」
「はい。安い案を選ぶ理由が、薄くなる」
片岡は、比較表を指で押さえた。
「もちろん、安いことは大事です。ただ、昨日の現場確認を見た後で、この表を見せられると、安いから兼用にしましょう、とは言いにくい」
隆夫が静かに聞いている。
片岡は、視線を直人へ向けた。
「黒瀬さん。これは、黒瀬案を通すための表ですか」
問い方は穏やかだった。
だが、核心だった。
直人は、少しだけ息を吸った。
「黒瀬案を通したい気持ちはあります」
正直に言うと、片岡の目が少し細くなった。
「でも、それだけなら、安い案の悪いところだけ書けばいいです。比較表には、兼用案の良いところも書きました」
直人は、左側の欄を指した。
初期費用が低い。
置き場が少ない。
導入説明が短い。
試作期間が短い。
「兼用案にも利点はあります。洗浄前後の混在が問題にならない仕事なら、兼用の方がいい場合もあります。でも今回の現場では、混ざることが一番怖いです。だから、今回に限っては分けた方がいいと思います」
片岡は、その言葉を聞いて、少しだけ表情を変えた。
「今回に限っては」
「はい。何でも分けろと言っているわけではありません」
それは、直人がどうしても入れたかった線だった。
何でも安全側に振ればいいわけではない。安全を言い訳にして高くするのも違う。現場に合う形を選ばなければ、ただの重い仕組みになる。
片岡は、比較表をもう一度見た。
「社内へ持ち帰ります」
直人の胸が少し沈みかけた。
即決ではない。
だが、それは当然だった。
片岡は続けた。
「ただし、私は黒瀬案で進めるべきだと説明します」
隆夫が、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ決定ではありません。購買側から、安い方でいいのではという話は必ず出ます」
片岡は、そこで少しだけ苦い顔をした。
「そこで、黒瀬さんにお願いがあります」
「何でしょうか」
「この比較表に、昨日の現場写真を添付した正式版を出してください。社内説明用に使います」
直人は、すぐに頷きかけて、止まった。
美智子の声が、頭の中で響いた。
無料で考えない。
無料で資料を作らない。
だが、ここは相手を突き放す場でもない。
「正式版は作れます」
直人は言った。
「ただし、追加試作提案の一部として出します。写真、比較表、確認範囲、責任範囲をまとめます」
片岡は、少し笑った。
「それも費用に入る、ですね」
「はい」
「わかりました。そこも含めて、黒瀬さんの提案として出してください」
白井が小さく頷いた。
藤野もメモを取る。
隆夫は、直人の横で何も言わなかった。
ただ、膝の上で握った手が少し緩んだのを、直人は見た。
会議が終わり、片岡が先に出ていったあと、藤野が資料を整えながら言った。
「黒瀬さん、今日は強かったですね」
「強すぎましたか」
直人が聞くと、藤野は首を振った。
「いえ。前より良かったです。前回は線を引いた。今回は、相手が選べる形にした。そこが違います」
白井も言った。
「高い理由を隠さなかったのが良かったです。金融でも同じです。高いことを隠す計画は、後で崩れます」
隆夫は、短く礼を言った。
帰りの車の中で、森川は同席していなかったが、直人の耳には森川の言葉が残っていた。
原因が追えん仕事は、最後に人のせいになる。
比較表の中には、その言葉は入れていない。
だが、写真の一枚一枚には、その危うさが写っていた。
黒瀬精機へ戻ると、美智子がすぐに聞いた。
「どうやった?」
隆夫が答える。
「片岡さんは、黒瀬案で説明するそうや。ただ、社内決定はまだや」
美智子は頷いた。
「まあ、そうやろうね」
「正式版の比較表が要る。写真付きで」
「作るよ。ただし、提案資料として控えも残す」
美智子の返事は早かった。
宮田は、もうファイルを開いている。
「写真番号、振ります。A-1、A-2、B-1、B-2でいいですか」
直人は頷いた。
「うん。どの写真が何を示しているか、横に短く書いて」
森川が作業場から顔を出す。
「勝ったんか?」
「まだです」
直人は答えた。
「片岡さんが社内で説明するところまでです」
「ほな、半分勝ちやな」
「半分ですか」
「安い方が出てきた時点で、普通は負けや。そこで持ち帰らせたなら半分勝ちでええ」
森川らしい言い方だった。
美智子は、赤鉛筆で新しい紙に見出しを書く。
TKD-1996-002 分離案比較資料。
その下に、直人が言った項目が並んでいく。
兼用案。
分離案。
初期費用。
運用時確認。
混在リスク。
傷発生時の調査。
搬送時識別。
責任範囲。
再発防止。
直人は、その紙を見ながら思った。
これは、ただ仕事を取るための資料ではない。
安い答えに、安さ以外の値札を付けるための資料だ。
初期費用には出ない手間。
表には出ない確認。
問題が起きた時に、人のせいにされる時間。
それを見えるようにしない限り、町工場はいつまでも安い数字に負ける。
夕方になって、片岡から電話が入った。
美智子が受話器を取り、すぐに隆夫へ渡す。
「黒瀬です。……はい。……はい、ありがとうございます」
隆夫の声が、わずかに変わった。
直人は顔を上げる。
森川も、機械の音を止めた。
隆夫は、受話器を置いてから言った。
「黒瀬案で進めるそうや」
事務所の空気が、一瞬だけ止まった。
宮田が、鉛筆を握ったまま固まる。
美智子が確認する。
「正式に?」
「正式に。洗浄前用と洗浄後用、2系統の追加試作。搬送箱と札も含めて検討。比較資料作成費も提案費に入れてええそうや」
森川が、低く笑った。
「ほら、勝った」
直人は、すぐには笑えなかった。
嬉しい。
だが、同時に怖さもあった。
これで黒瀬精機は、安い兼用案に勝った。
しかし、勝った以上は、結果を出さなければならない。
分けた方が良かったと、現場に思わせなければならない。
隆夫が直人を見た。
「直人、ここからが本番や」
「はい」
美智子は、赤鉛筆でファイルの表紙を書き換えた。
TKD-1996-002 分離試作正式受注。
その文字を見た瞬間、直人の胸の奥に熱が広がった。
正式受注。
それは、ただの仕事ではない。
黒瀬精機が、安い答えに対して初めて別の価値を認めさせた仕事だった。
夜、工場の灯りの下で、森川が端材を並べながら言った。
「直坊、明日から忙しいで」
「はい」
「洗浄前用と洗浄後用。箱も札も別。逃げ道なしや」
「迷い道を消したので」
森川は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「言うようになったな」
直人も笑った。
作業台の上には、2枚の新しい札が置かれていた。
TKD-1996-002-C。
洗浄前用試作。
TKD-1996-002-D。
洗浄後用試作。
その横に、宮田が置いた写真付きの比較表がある。
安い答えは、確かに強かった。
けれど、見えない手間まで並べた時、安さだけでは選べない答えになった。
町工場が値段で負け続けないためには、ただ安くしないだけでは足りない。
高い理由を、現場の手と紙で示さなければならない。
直人は、札を見ながら思った。
黒瀬精機は今日、少しだけそのやり方を覚えた。
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