第82話 兼用の罠
河島産業の現場へ入った瞬間、直人は鼻の奥に残る匂いで、黒瀬精機とは違う仕事場だと思った。
鉄と油の匂いだけではない。
洗浄液の薄い匂い。濡れた床を拭いた後の匂い。乾いた布と樹脂箱の匂い。工場でありながら、どこか水回りに近い空気があった。
黒瀬精機から来たのは、隆夫、直人、森川修一、宮田悟の4人だった。美智子は工場に残り、控えと電話番をしている。
試作品は2つ。
TKD-1996-002-A。
持ち位置確認用。
TKD-1996-002-B。
当たり面確認用。
どちらも完成品ではない。むしろ、完成品にしないための試作品だった。
河島産業の片岡は、現場入口で一行を迎えた。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそお願いします」
隆夫が頭を下げる。
直人も続いた。
片岡の横には、現場主任が立っていた。額に汗がにじみ、腕には薄いゴム手袋を引っかけている。最初の挨拶こそ丁寧だったが、目は明らかに警戒していた。
主任は、机の上に置かれた2つの試作品を見て、すぐに眉を寄せた。
「2つあるんですか」
森川が軽く笑った。
「まだ本番品と違いますからね。持つ方を見るやつと、当たる方を見るやつを分けてます」
「分けるんですか」
主任の声が少し硬くなった。
片岡も、その反応を気にしている。
「正直に言うと、現場としては1つで済ませたいんです。洗浄前でも洗浄後でも置ける。持ちやすい。傷がつかない。できれば、そういう形がありがたい」
主任ははっきり言った。
「道具が増えると、置き場も増えます。説明も増える。間違いも増える。うちは人が多いわけじゃないんで、兼用できるなら兼用がいいです」
直人は、主任の言葉を最後まで聞いた。
言いたいことはわかる。
現場は道具を増やしたくない。置き場が増える。間違える。掃除が増える。説明も増える。1つで済むなら、その方が楽に見える。
けれど、そこで楽をすると、後で別の手間が増える。
「まず、置いてみてもらっていいですか」
直人が言うと、主任は少し意外そうな顔をした。
「このままですか」
「はい。説明より先に、実際に触ってもらいたいです」
主任は頷き、作業台の上にAの試作品を置いた。
持ち位置確認用のAは、形だけを見られるように、あえて荒く作ってある。手を掛ける場所は広めにして、角は森川が軽く落としてくれていた。だが、製品に当たる面はまだ仮のままだ。
主任が手袋をつけ、試作品を持った。
「軽いですね」
「重さは本番と違います。今日は、どこを持つかだけ見ます」
直人が答える。
主任は一度、試作品を持って、仮置き台の横へ動かした。次に、作業台へ戻す。手の位置は、最初と少し違っていた。
直人は、その手元を見逃さなかった。
「今、1回目と2回目で持つ場所が変わりました」
主任が手を止める。
「そうですか」
「はい。急いだ時は、こっちの角を持っています。ゆっくり置いた時は、ここを持っています」
直人は試作品の2か所を指した。
森川が横で頷く。
「ほんまやな。持ちやすい方に手が逃げてる」
主任は、少し気まずそうに笑った。
「そんなつもりはなかったんですが」
「それが大事なんです」
直人は言った。
「つもりがなくても、現場では手が楽な方へ行きます。だから、触っていい場所を形で誘導しないと、たぶん毎回変わります」
片岡がメモを取る。
「形で誘導……」
主任は納得しかけた顔をしたが、すぐに首を振った。
「でも、それは兼用でもできますよね。持つところを決めるだけなら、1つでいいはずです」
直人は頷いた。
「そこだけなら、1つでもできます」
「じゃあ、やっぱり兼用で進められるんじゃないですか」
主任の声に、現場側の本音がにじんだ。
片岡も黙っている。
ここで押し切られれば、話は「兼用の方向で試作」になる。最初は安く見える。だが、後で確認項目が増え、責任の線もぼやける。
直人は、Bの当たり面確認用を取り出した。
「次は、濡れた状態で見たいです」
主任は少し警戒した顔になったが、指示に従った。
作業台の横にある布を水で湿らせ、仮の製品サンプルを軽く拭く。直人はそれを確認し、Bの当たり面へ置いてもらった。
最初は問題ないように見えた。
だが、2度目に置いた時、製品サンプルの位置がわずかにずれた。
森川が低く言った。
「滑るな」
主任も認めざるを得ない顔になった。
「濡れると、ちょっと怖いですね」
「洗浄後に使うなら、滑りにくさが要ります。でも洗浄前にも使うなら、汚れが残りにくいことも要ります」
直人がそう言った時だった。
隣の作業台で、別の作業者が声をかけてきた。
「主任、それ、洗浄後の方へ持っていくやつですか」
主任が振り返る。
「ああ、確認用や。ちょっと待ってくれ」
作業者は、机の上に置かれていたAの試作品へ手を伸ばしかけた。
直人の背中が、ぞくりとした。
まだ本番品ではない。
ただの確認用だ。
だが、今その試作品は、洗浄前の仮置き台の横で触られた。濡れた布の近くにも置かれた。どちらの用途か、見ただけではわからない。
「待ってください」
直人の声が、思ったより強く出た。
作業者の手が止まる。
主任も片岡も、森川も直人を見た。
直人はすぐに頭を下げた。
「すみません。でも、今のが一番怖いです」
主任の顔が変わった。
「今の?」
「はい。これは確認用です。でも、見た目では洗浄前用か洗浄後用か分かりません。ここに置いてあったら、誰かが洗浄後側へ持っていくかもしれません」
作業者は気まずそうに手を引いた。
「すみません。形が同じやったから、そっちの台に持っていくもんかと」
直人は、その言葉を逃さなかった。
形が同じやったから。
それが、兼用の罠だった。
主任の顔から、さっきまでの反発が薄れていく。
片岡は、机の上のAとBをじっと見ていた。
直人は、静かに続けた。
「今のは、たまたま試作品だから止められました。でも本番で、洗浄前に使ったものを洗浄後側へ持っていったら、誰が気づけますか」
誰もすぐには答えなかった。
現場の音だけが残った。
主任が、ゆっくりと言った。
「……色が要りますね」
「色だけでは足りないと思います」
直人は言った。
「忙しい時は、色を見落とします。持つ場所、置く場所、箱の向き。できれば形も少し変えた方がいいです」
主任は、今度は反論しなかった。
片岡が小さく息を吐く。
「これは、数字の話ではありませんね」
その一言で、場の空気が変わった。
片岡は、さっきまでの発注側の顔ではなかった。現場で起きた小さな危なさを、自分の目で見た顔だった。
直人は、Bの当たり面を指した。
「洗浄後用は、製品に触れる面を守る形にします。洗浄前用は、汚れが残りにくく、洗いやすい形を優先します。同じ形に見えないようにした方がいいです」
主任が腕を組む。
「置き場は2つ要りますね」
「はい」
「でも、現場には余裕がありません」
「置き場を増やすのではなく、今ある仮置き場所を分ける方がいいです。線を引くか、台の向きを変えるか。道具だけで解決しようとすると、たぶんまた迷います」
主任は作業台の周りを見た。
洗浄前の仮置き。洗浄後の仮置き。布。手袋。樹脂箱。動線は狭い。
直人は、床のわずかな濡れ跡を見る。
「洗浄後用は、濡れた手袋でも滑りにくい持ち方を見ます。でも、表面を細かくしすぎると汚れが残るので、洗浄前用とは考え方が変わります」
森川が試作品Aを持ち、主任に向けて少し傾けた。
「たとえば、持つところをここだけにしたらどうです。こっち側は触りにくくする。そしたら、自然にこっち持ちますやろ」
主任が手を伸ばす。
「ああ、こっちに手が行きますね」
「せやけど、このままやと濡れた手袋やと滑るかもしれません。そこは表面の逃がし方を見なあきません」
森川は、職人らしく余計なことは言わなかった。
ただ、手で示した。
その方が、説明より伝わる。
片岡が資料を閉じた。
「兼用案は、いったん保留にしましょう」
主任は一瞬だけ顔を上げたが、反論しなかった。
片岡は主任を見る。
「今のは、こちらでも危ないと分かりました。置き場が増えるのは困りますが、混ざる方がもっと困る」
主任は、少しだけ悔しそうに頷いた。
「はい。現場にも説明します」
直人は、胸の奥で息を吐いた。
勝ったわけではない。
ただ、兼用という便利な言葉を、現場の前で止められた。
宮田がすぐに書いた。
兼用案は保留。
洗浄前用、洗浄後用で分けて次段階。
持ち位置誘導。
当たり面のみ材質検討。
色分け必要。
形状差必要。
置き場分離。
田端商会へ搬送箱相談。
片岡がそのメモを見た。
「搬送箱もですか」
「はい」
直人は言った。
「洗浄後用を外へ出すなら、運ぶ時に混ざらないようにした方がいいです。箱の外から見てわかる札が要ります。田端さんにも確認してもらいます」
片岡は、そこで苦笑した。
「黒瀬さんは、こちらが1つ頼むと、話が増えますね」
「増やしたいわけではありません」
直人は、少しだけ姿勢を正した。
「後で増える手間を、先に見えるところへ出しています」
片岡は、その言葉に黙った。
主任が、試作品をもう一度置いた。
今度は、直人が言った通り、持つ場所を意識している。置く動きも、さっきより慎重だった。
「これ、洗浄後用は青とかにできますか」
主任が言った。
直人は頷いた。
「できます。札でも、樹脂の一部でも、持つ場所でも色を付けられます。ただし、色が剥がれたり、洗浄で落ちたりしない方法を選ぶ必要があります」
「洗浄前用は?」
「赤や橙にすると目立ちます。ただ、工場内で他の注意色と被るなら避けた方がいいです」
主任が片岡を見た。
「うち、黄色は警告で使っています」
「では、洗浄前用は赤か橙。洗浄後用は青か白。そこも現場ルールに合わせた方がいいです」
宮田の鉛筆が走る。
片岡は、そのメモを見ながら言った。
「これは、もう単なる治具ではないですね」
直人は少し考えてから答えた。
「治具そのものは小さいです。でも、使い方まで含めると、現場の約束ごとになります」
主任が小さく頷いた。
「現場の約束ごと。そっちの方が伝わりやすいかもしれません」
その言葉を聞いて、直人は胸の奥で手応えを感じた。
紙の言葉ではなく、現場の言葉になった。
これなら、前へ進める。
確認は、予定より長くなった。
作業者が変わった場合の持ち方。
濡れた手袋での滑り。
置く向きの間違い。
洗浄前後を同じ台に置いた時の不安。
搬送箱の向き。
試作品を触るたびに、机上では見えなかったことが出てきた。
片岡は途中から、数字の話をしなくなった。
代わりに、現場主任と一緒に、使い方の条件を書き出していった。
最後に、片岡が資料をまとめた。
「黒瀬さん」
「はい」
「次段階の試作提案をお願いします。洗浄前用と洗浄後用、2系統で。兼用案は保留。搬送箱と札も含めた形で見たい」
直人は、すぐには答えなかった。
ここでまた、線を引く必要がある。
「次段階は、初期試作の追加になります」
片岡は苦笑した。
「費用が発生する、ですね」
「はい」
「わかりました。前回と同じように、目的と確認範囲を分けてください。社内にはその形で通します」
隆夫が、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。黒瀬精機から、正式に追加試作提案を出します」
森川が試作品を箱に戻しながら、直人に小声で言った。
「直坊、今度は逃げられへんな」
「はい」
「でも、ええ逃げ道を潰したんと違う。悪い迷い道を消しただけや」
直人は、その言葉を噛みしめた。
逃げ道ではなく、迷い道。
兼用という言葉は便利だ。
1つで済む。
安く見える。
置き場も少なく見える。
けれど、その裏で、現場の手が毎回判断を背負うことになる。
それを避けるために、今日は2つに分けた。
黒瀬精機へ戻る車の中で、隆夫はしばらく無言だった。
助手席の直人は、膝の上に宮田のメモを置いている。後ろの席で森川が試作品の箱を押さえ、宮田は書類袋を抱えていた。
車が高井田の町へ戻る頃、隆夫がぽつりと言った。
「直人、今日は紙より現場やったな」
「はい」
「紙だけでは、あそこまでは見えん」
「でも、紙がなかったら、何を見るか決まらなかったと思います」
隆夫は少し笑った。
「うまいこと言うようになったな」
森川が後ろから言った。
「社長、直坊は今日、ちょっと大人相手に勝ちましたな」
「勝ったわけやないです」
直人は振り返らずに言った。
「兼用を保留にしただけです」
「それが勝ちみたいなもんや。現場は、何でも兼用にしたがる。置き場も金も足らんからな。でも、兼用が一番高うつく時もある」
森川の声は、いつもより少し柔らかかった。
宮田が後ろで言った。
「今日の記録、戻ったらすぐ清書します」
「宮田くん、滑りのところは、持ってきたカメラで撮った写真と一緒に残して」
直人が言うと、宮田はすぐに頷いた。
「はい。試作品AとBで分けます」
黒瀬精機に戻ると、美智子が事務所から出てきた。
「どうやった?」
隆夫が答える。
「兼用は保留。洗浄前用と洗浄後用で分ける。追加試作提案や」
美智子は一瞬だけ目を細め、それから机へ戻った。
「ほな、番号増えるね」
「増えます」
宮田が書類袋を置く。
「TKD-1996-002-C、洗浄前用試作。TKD-1996-002-D、洗浄後用試作。あと、搬送箱と札の確認が必要です」
美智子は、すぐに白紙を出した。
TKD-1996-002 次段階試作提案。
洗浄前用。
洗浄後用。
兼用案保留。
搬送箱。
色分け。
形状差。
置き場分離。
試作費追加。
その最後の一行に、森川が反応した。
「奥さん、やっぱりそこは外しませんな」
「外したら、またただで考えることになるからね」
美智子は当然のように言った。
直人は、作業台の上に戻されたAとBの試作品を見た。
たった2つの小さな試作品が、現場で次の仕事を連れて帰ってきた。
しかも、無理な兼用ではなく、分ける仕事として。
それは、ただ売上が増えたという話ではない。
現場の迷いを減らすことで、仕事の形そのものが変わったということだった。
夕方、田端が寄った時、森川がさっそく言った。
「田端さん、今度は箱も相談ですわ」
田端は入口で足を止めた。
「また巻き込まれる話ですか」
「今回は、運ばんうちから運ぶ話や」
「いちばん面倒なやつやないですか」
田端はそう言いながら、すでに机の方へ歩いてきていた。
直人は笑った。
「洗浄前用と洗浄後用を、箱でも間違えないようにしたいんです」
田端の顔が、すぐに仕事の顔へ変わる。
「ほな、色だけやなくて、持った時の向きも変えた方がええかもしれませんな。積む時に同じ形やと、忙しい時に逆に置きますわ」
宮田がすぐに書く。
箱の向き。
積み間違い防止。
色だけに頼らない。
美智子がそれを見て、赤鉛筆で丸を付けた。
「ほら、また現場で増えた」
田端が苦笑した。
「増やしたんやないです。見えてなかっただけです」
その言葉に、直人は思わず顔を上げた。
田端は何気なく言ったのだろう。
だが、それは今日のすべてだった。
増えたのではない。
見えていなかっただけ。
黒瀬精機がやろうとしていることは、手間を増やすことではない。見えない手間を、先に見えるところへ出すことだった。
その時、事務所の電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、片岡さん。お世話になっております」
直人は顔を上げた。
片岡からの電話にしては、少し早い。
美智子の表情が、わずかに変わった。
「……はい。別の加工屋さんから、兼用で安く作れるという話が出ている? ……はい。いえ、承知しました。こちらは、今日の確認内容に基づいた追加試作提案を出します」
電話を切ったあと、工場の中が静かになった。
森川が、低く言った。
「来ましたな」
隆夫も頷いた。
「安い兼用案か」
直人は、作業台の上のAとBを見た。
今日、現場で止めたばかりの罠が、別の場所から戻ってきた。
値段だけを見れば、兼用案は強い。
道具は1つ。
試作も1つ。
箱も1つ。
紙の上では、安く見える。
けれど、あの作業者の手が洗浄後側へ伸びた瞬間を、直人は忘れられなかった。
美智子が、静かに赤鉛筆を置いた。
「ほな、黒瀬は黒瀬の提案を出すだけやね」
隆夫が頷く。
「安さと勝負するんやない。危なさが見える提案で勝負する」
直人は、胸の奥で静かに息を吸った。
次の相手は、現場の迷いだけではない。
安くて簡単に見える答えそのものだった。
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