第81話 試作費はただではない
河島産業から、必要情報の返答が届いたのは4日後だった。
今度は東大阪商工会議所の封筒ではなかった。
河島産業の封筒だった。
黒瀬精機の事務所で、美智子が封を切ると、中から3枚の紙が出てきた。1枚目は片岡からの依頼書。2枚目は現場からの確認事項。3枚目は、初期試作相談としての依頼内容だった。
直人は、まず2枚目を見た。
洗浄後の仮置き。
洗浄前の一時置きにも使う可能性あり。
濡れは水と洗浄液残りの両方。
薬品接触は少量だが否定できない。
傷を避けたい面は製品下面。
作業者は複数。
1回あたりの仮置き時間は短い。
現場では手袋着用。
搬送時は混載あり。
前より、ずっと具体的だった。
だが、具体的になったぶん、簡単ではなくなっていた。
森川修一が横から覗き込み、眉を寄せる。
「洗浄後にも使う。洗浄前にも使う。濡れる。薬品残りもある。傷もあかん。……欲張りセットですな」
隆夫も紙を見ながら、低く唸った。
「これを1個の道具で全部受けるかどうかやな」
美智子は、赤鉛筆を持ったまま言った。
「片岡さんの依頼書には、初期試作提案を正式にお願いします、とあるね」
宮田悟がすぐにファイルを開いた。
「TKD-1996-002、初期試作相談に綴じます」
直人は、紙から目を離さなかった。
ここで、黒瀬精機がどう返すか。
それが大事だった。
前回までは、数字を出さない理由を説明した。だが、今回は違う。相手が必要情報を埋めてきた。ここからは、逃げる話ではなく、仕事に変える話になる。
しかも、ただの加工仕事ではない。
条件を確かめるための試作。
そこには、考える時間も、確認する時間も、やり直す余地も含まれる。
直人は、紙を机に置いた。
「これは、1個の完成品を安く作る話にしたらあかんと思います」
隆夫が直人を見る。
「どう分ける」
「まず、試作の目的を3つに分けます」
直人は白紙を引き寄せた。
1つ目。
傷がつくかを見る。
2つ目。
濡れた時に持ちやすいかを見る。
3つ目。
洗浄前後を混ぜてもいいのか、それとも分けるべきかを見る。
森川が、腕を組んだ。
「つまり、ものを作る前に、使い方を試すんか」
「はい。最初から万能の受け台を作ろうとしたら重くなりますし、高くなります。洗浄後用と洗浄前用を分けた方がいいかもしれません」
「色分けか」
「それも試します」
美智子が、その言葉を聞いてすぐに紙へ書いた。
洗浄後用。
洗浄前用。
兼用不可の可能性。
隆夫が少し考えた。
「材料はどうする」
「黒瀬の手元にある端材で、形だけ見る試作品を作ります。正式材料はまだ決めません。ただし、樹脂で当たりを見るなら大西さんに相談が要ります」
森川が頷く。
「金属で作ったら、傷の話が見えへんかもしれんな」
「はい。製品に触れる面だけ、柔らかい当たりを作りたいです」
「ゴムか樹脂か」
「まず樹脂で見たいです。ゴムは汚れや薬品残りの話が出るので、いきなり使うと別の確認が増えます」
隆夫は、少しだけ笑った。
「直人、だいぶ現場の嫌がることを先に言うようになったな」
「後で嫌がるより先の方がましです」
森川が、にやりとした。
「直坊、それはほんまや」
宮田は、直人の言葉を追いながら書いていた。
試作目的。
傷確認。
濡れ時の持ちやすさ。
洗浄前後の使い分け。
正式材料は未定。
端材による形状確認。
樹脂当たり面は大西樹脂へ相談。
そこで美智子が、鉛筆を止めた。
「お金の話を先にするよ」
工場の空気が少し変わった。
森川が冗談めかして言う。
「出ましたな、本丸」
「本丸やから先に言うんや」
美智子は、片岡の依頼書を机に置いた。
「初期試作提案を正式にお願いします、と書いてある。でも、試作費については何も書いていない」
隆夫の表情が引き締まった。
「ただで提案だけくれ、になるか」
「その可能性がある」
美智子ははっきり言った。
「図面を描いて、形を考えて、端材で作って、現場確認のための説明まで付ける。それを無料相談にしたら、次からも無料になる」
直人は黙って頷いた。
これも、前の人生で何度も見た。
見積もりだけだから。
提案だけだから。
簡単な絵でいいから。
その言葉で、町工場の時間は簡単に削られる。だが、削られた時間は誰の請求書にも載らない。現場の夜や休日に吸い込まれて消える。
だからこそ、今回は違う形にしなければならない。
「試作費は分けて出した方がいいです」
直人が言うと、美智子が顔を上げた。
「どう分ける」
「単純な加工費だけなら、時間チャージと刃物代で見られます。材料支給で、図面通り削るだけなら、それでいいと思います」
森川が頷いた。
「そこはそうやな。段取り時間と削る時間、刃物がどれくらい食うか。それなら幅は見える」
「でも今回は、それだけじゃないです。使い方の確認、傷の当たり、洗浄前後の分け方、搬送時の混載。そこを確認する時間があります。だから、加工費と確認費を分けます」
宮田の鉛筆が止まった。
「確認費、ですか」
「うん。名前はもう少し考えた方がええけど、要するに、ただ削る時間とは別の時間です」
美智子がすぐに言った。
「初期確認費」
その言葉は、事務所の中にすっと収まった。
隆夫が口の中で繰り返す。
「初期確認費……」
森川は少し渋い顔をした。
「そんなもん、向こうが払いますかね」
「払ってもらわなあかん」
美智子は迷わなかった。
「ただし、高く見せるためやない。後で揉めんための確認時間やと説明する」
直人は、紙の上に線を引いた。
初期試作費。
内訳。
形状確認加工。
樹脂当たり面の検討。
洗浄前後の使い分け確認。
傷確認。
搬送条件確認。
記録作成。
正式見積もりは別。
宮田がそれを写しながら言った。
「記録作成も、費用に入れるんですか」
「入れる」
美智子が即答した。
「記録を残さへん試作は、次に戻られへん。戻られへんものを作ったら、また同じことで時間を使う」
森川が、少しだけ困ったように笑った。
「奥さん、最近ほんまに現場の嫌なところを突いてきますな」
「嫌なところを避けてたら、赤字になるからね」
隆夫が椅子に腰を下ろした。
「ほな、片岡さんには、初期試作提案の前に試作費の了承が要ると返すか」
「はい」
直人は言った。
「ただし、金額だけ先に出すんじゃなくて、何を確認する試作かを一緒に出します」
隆夫が頷いた。
「仕事にするための線やな」
「はい」
そこから、黒瀬精機は一気に動いた。
森川は端材置き場から、使えそうなアルミの小片と古い樹脂板を出してきた。大西樹脂へ相談する前に、形だけ確認するための仮材だった。
宮田は、机の上に「初期試作費確認票」と書いた紙を作った。
美智子は、片岡へ返す文面を整える。
隆夫は、現場に戻って端材を手に取り、重さを確かめた。
「これやと軽すぎるな」
森川が答える。
「形見るだけならええですけど、濡れた時の持ちやすさはわかりにくいですね」
「重さを見る試作と、当たりを見る試作を分けるか」
直人が言った。
「はい。1個で全部を見ようとすると、試作が高くなります。最初は2種類作る方が安全です」
森川が少し驚いた顔をする。
「2種類作るんか」
「はい。1つは作業者が持つ形を見るもの。もう1つは製品に当たる面を見るものです。どっちも本番品じゃありません」
「なるほどな。確認する場所を分けるんやな」
「はい」
森川は端材を置き直した。
「直坊、だいぶ嫌らしい試作の分け方するようになったな」
「褒めてます?」
「褒めてる。1個に何でも背負わせたら、作る方が泣く」
その言葉に、直人は少し笑った。
森川の言う通りだった。
万能に見える道具ほど、現場では中途半端になることがある。持ちにくい。洗いにくい。置きにくい。傷がつく。誰も悪気はないのに、最後は現場の手が無理をする。
それを避けるための試作だった。
午後、片岡へ電話を入れたのは隆夫だった。
ただし、横には直人が座っている。
美智子は文面を指で押さえ、宮田は控えを用意していた。
「片岡さん、黒瀬です。初期試作提案の件ですけど、先に確認があります」
受話器の向こうで片岡が何か言った。
隆夫は続ける。
「はい。提案はできます。ただ、これは無料の概算提案ではなく、初期試作費をいただく形にしたいんです」
森川が、少し離れたところで工具を拭く手を止めた。
隆夫の声は落ち着いている。
「理由は、単純な材料支給加工ではないからです。図面通り削るだけなら、時間と刃物代で幅を見られます。でも今回は、洗浄前後、濡れ、傷、触る面、搬送条件の確認が入ります。そこを確認せずに数字だけ出すと、後で双方に無理が出ます」
直人は、父の横顔を見た。
言葉が、父のものになっている。
それが嬉しかった。
自分が考えた線を、父が社長として外へ出している。
前に出たのは直人だった。
だが、仕事にするのは黒瀬精機だった。
「はい。内訳は、形状確認加工、当たり面の確認、洗浄前後の使い分け、搬送条件、記録作成です。正式な量産見積もりは、その後です」
隆夫は少し黙った。
片岡が、受話器の向こうで何かを確認しているらしい。
事務所の中が静かになる。
扇風機の音が、やけに大きく聞こえた。
やがて隆夫が、短く言った。
「ありがとうございます。では、初期試作相談として進めます」
電話を置いた瞬間、森川が息を吐いた。
「通ったんですか」
隆夫は、少しだけ笑った。
「通った」
美智子がすぐに確認する。
「口約束だけ?」
「いや。片岡さんから、今日中に依頼書を差し替えて送るそうや。初期試作費ありで」
宮田の顔が明るくなった。
「ファイル、更新します」
美智子は赤鉛筆で、依頼書の上に大きく書いた。
試作費了承待ち。
その横に、さらに書き足す。
口頭了承。
書面待ち。
「書面が来るまで、加工は始めません」
森川が笑った。
「出た。本丸」
「ここを曖昧にしたら、今日の話が全部崩れる」
美智子は厳しい顔で言った。
直人も頷いた。
動きたい気持ちはあった。
すぐに端材を削り、形を見たい。片岡が前向きになった今、勢いのまま進めたい。
だが、ここで加工を始めれば、また昔と同じになる。
言った。
聞いた。
たぶん通る。
それで現場だけが先に動く。
今回は、それをしないために線を引いている。
夕方、田端が荷物を届けに来た時、黒瀬精機の空気が少し違うことに気づいた。
「何ですの。みんな、顔が仕事取った時の顔してますやん」
森川が答える。
「仕事はまだや。紙待ちや」
「紙待ち?」
田端は笑った。
「また紙ですか」
直人が言った。
「今度は、紙が来るまで動かないための紙です」
「ややこしいなあ」
田端は笑いながらも、すぐに真顔になった。
「でも、それ大事ですわ。運ぶ方も、電話だけで先に動いたら揉めますから」
美智子が頷く。
「田端さんにも、試作品の搬送条件を確認してもらうことになります」
「ほら来た」
田端は苦笑した。
「また巻き込まれた」
「嫌ですか」
「嫌なら来てません」
田端は、机の上の必要情報一覧を見た。
「濡れ、傷、混載。これは先に聞いてくれる方が助かります。試作品やから適当に運んでええ、とはなりませんから」
その言葉を、宮田がすぐに書き足す。
試作品でも搬送条件を確認。
田端がそれを見て、感心したように言った。
「宮田くん、最近ほんまに逃さんな」
「戻れなくなるので」
「ええ返しや」
森川が横で笑う。
「宮田も、だいぶ黒瀬の紙に染まってきたな」
宮田は少しだけ困った顔をしたが、手は止めなかった。
その日の終業前、河島産業からファックスが届いた。
紙がゆっくり吐き出される間、事務所の全員がその音を聞いていた。
美智子が紙を取り、内容を確認する。
TKD-1996-002。
初期試作相談。
初期試作費あり。
目的。
洗浄前後の使い分け確認。
濡れ状態での持ちやすさ確認。
傷防止確認。
搬送条件確認。
正式見積もりは試作確認後。
美智子は、最後まで読んでから、静かに言った。
「始められるね」
隆夫が頷いた。
「始めよう」
森川は、端材置き場へ向かった。
「ほな、直坊。まず持つ方から見るか」
「はい。持つ方と当たり面は分けます」
「わかってる。万能道具にしたら、作る方が泣くんやろ」
直人は笑った。
「はい」
その夜、黒瀬精機の作業台には、2つの小さな試作品が並んだ。
1つは、手で持った時の位置を確認するための仮形状。
もう1つは、製品に当たる面だけを確認するための当たり見本。
どちらも完成品ではない。
売れる品物でもない。
だが、黒瀬精機にとっては大きな一歩だった。
無料の相談ではなく、条件を決めるための有償試作。
ただの見積もりではなく、仕事の入口。
直人は、作業台の上の試作品を見つめた。
派手な機械を入れたわけではない。
大きな契約が決まったわけでもない。
けれど、前の人生で何度も失った時間を、今日は少し取り戻せた気がした。
削る前に決める。
作る前に確認する。
ただで考えない。
現場の手間を、見えないまま消さない。
美智子が、試作品の横に小さな札を置いた。
TKD-1996-002-A。
持ち位置確認用。
TKD-1996-002-B。
当たり面確認用。
宮田が、それを控えに写す。
森川が、腕を組んで言った。
「これ、まだ商品でも何でもないのに、えらい重たいな」
隆夫が答える。
「重たいで。黒瀬が、ただで考えるのをやめた最初の試作や」
直人は、その言葉を聞いて、胸の奥で静かに息を吸った。
町工場の仕事は、削った金属だけではできていない。
考える時間。
試す時間。
戻るための記録。
守るための線。
それも全部、仕事だった。
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