第80話 若造の線
藤野から電話が入ったのは、初期確認区分の返答を出した翌々日の朝だった。
黒瀬精機では、森川修一が旋盤の前で刃物を合わせ、宮田悟が測定器棚の横で前日の控えを整理していた。直人は事務所の入口近くで、TKD-1996-002のファイルを開いている。
美智子が受話器を持ったまま、少しだけ眉を寄せた。
「はい。……はい、承知しました。今日の午後ですか」
隆夫が機械を止める。
その音が消えると、工場の中に扇風機の羽音だけが残った。
「藤野さん?」
直人が聞くと、美智子は受話器を肩に挟んだまま頷いた。
「河島産業さんの方で、直接説明を聞きたいそうや」
森川が顔を上げる。
「直接?」
「数字がない理由を、会議所経由ではなく聞きたいらしいわ」
隆夫は、油のついた手を布で拭いた。
「そら来るやろな」
美智子は短く返事をして、受話器を置いた。
「午後2時、東大阪商工会議所。藤野さん、白井さん、河島産業の片岡さん。黒瀬からは、隆夫さんと直人」
「俺もですか」
直人は思わず聞き返した。
美智子はすぐに言った。
「行きなさい」
その声は、いつもの母の声ではあったが、紙を扱う時の強さが混じっていた。
「今回は、あんたが考えた線が問われる。隆夫さんだけが説明したら、黒瀬精機の社長の意見になる。でも、あんたが説明したら、若い現場側の考えとして出せる」
森川が布を腰に挟みながら、少し心配そうに言った。
「奥さん、直坊をいきなり表に出して大丈夫ですか」
「大丈夫やから出すんやないよ」
美智子は、ファイルを閉じた。
「出さなあかん時やから出すんや」
直人は黙った。
胸の奥が、少し重くなる。
前に出たいと思っていなかったわけではない。むしろ、前の人生で後悔したことの多くは、言うべき時に言わなかったことだった。
安く受けた仕事。
条件のない約束。
あとで現場だけが泣いた案件。
若い頃は言えず、社長になってからは言っても遅いことがあった。
今は違う。
けれど、違うからこそ怖かった。
「直人」
隆夫が声をかけた。
「行くぞ。ただし、先走るな。向こうを言い負かしに行くんやない。仕事にするために行く」
「はい」
森川が、少しだけ笑った。
「直坊、難しい言葉はいらんで。現場があとで困るか困らんか、それでええ」
宮田もファイルを抱えながら言った。
「控え、用意します。初期確認区分票と、必要情報一覧。それから前回の回答」
美智子が頷く。
「悟くん、黒瀬控えは置いておいて。持っていくのは提出用と説明用。相手に渡す紙と、こちらが見る紙は分けます」
「はい」
宮田の手が、迷わず動いた。
直人は、その様子を見ながら思った。
この数ヶ月で変わったのは、紙だけではない。
宮田も、森川も、隆夫も、美智子も、少しずつ変わっている。黒瀬精機は、ただ仕事を受ける工場ではなくなりつつあった。
だからこそ、ここで引いてはいけない。
午後2時前、東大阪商工会議所の小会議室に入ると、すでに藤野と白井は席についていた。
河島産業の片岡は、きちんとした半袖シャツ姿で、鞄の横に資料を揃えている。顔には笑みがあるが、目は笑っていない。
机の上には、河島産業の社内メモらしい紙が数枚置かれていた。正式図面ではない。だが、現場から上がってきた困りごとだけは、はっきり書かれている。
洗浄後の仮置き。
洗浄前の一時置きにも使う可能性あり。
濡れた状態での扱いあり。
傷を避けたい。
作業者が複数名。
直人はその文字を見ただけで、胸の奥が少しざわついた。
使い方が、まだ揺れている。
それなのに、数字だけが先に求められている。
直人が部屋に入ると、片岡の目が一瞬だけ止まった。
「今日は、息子さんも同席ですか」
言い方は柔らかい。
だが、その奥にあるものは、はっきりしていた。
若造を連れてきたのか。
直人はそれを感じたが、頭を下げるだけにした。
「黒瀬直人です。現場と管理番号の整理を担当しています」
片岡の眉が、少しだけ動いた。
「管理番号、ですか」
「はい」
隆夫が隣に座り、資料を机に置いた。
「今回の初期確認区分については、直人も実務を見ています。説明に加えます」
藤野が場を整えるように口を開いた。
「本日は、TKD-1996-002について、高井田町工場連絡会からの回答内容を確認する場とさせていただきます。正式見積もりではなく、初期確認段階の整理です」
片岡は頷いた。
「そこは承知しています。ただ、正直に申し上げますと、こちらとしては困っています」
片岡は、机の上の社内メモを軽く指で押さえた。
「社内で検討するにも、現場へ返すにも、数字がまったくないと前に進めにくい。正式見積もりではなくて結構です。ざっくりでいい。高いのか安いのか、それだけでも見たいんです」
その言葉は、丁寧だった。
しかし、圧はある。
白井が何か言いかけたが、隆夫が軽く手で制した。
まずは黒瀬が答える場だ。
隆夫は直人を見た。
行け。
その目だった。
直人は、持ってきた説明用の紙を机の中央へ置いた。
「片岡さん、質問してもいいですか」
「どうぞ」
「この部品は、洗浄後に触れるものですか。それとも洗浄前の工程で触れるものですか」
片岡は、一瞬だけ言葉を止めた。
「基本は洗浄後です。ただ、現場からは洗浄前の一時置きにも使えないかという話が出ています」
「では、洗浄後専用なのか、洗浄前にも使うのかが未確定です」
「そこは、そうですね」
「濡れた状態で扱う可能性あり、と資料にあります。水ですか。洗浄液ですか。薬品残りですか」
片岡は社内メモをめくる。
「そこまでは、まだ現場から返ってきていません」
「傷を避けたい、とあります。どの面の傷ですか。製品に触れる面ですか。作業者が持つ面ですか。見た目の傷ですか。機能上の傷ですか」
片岡の表情から、笑みが少し消えた。
「黒瀬さん」
「はい」
「今は、そこまで詰める段階ではありません。だから概算でいいと言っているんです」
直人は、そこで一呼吸置いた。
ここで言い返しすぎると、若造が生意気を言っているだけになる。
だが、引きすぎると線が消える。
「そこまで詰める前に数字を出すと、後で数字だけ残ります」
直人は、できるだけ静かに言った。
「たとえば、洗浄後専用なら、汚れの持ち込みを避ける作り方になります。洗浄前にも使うなら、汚れが残りにくい形や洗いやすさを見ます。濡れるだけなのか、薬品が残るのかでも、樹脂や表面処理の考え方が変わります。傷がどこの傷かでも、当てる面や逃がす面が変わります」
片岡は、社内メモへ目を落とした。
直人は紙を1枚めくる。
「ここが決まっていない状態で、安いです、高いですと答えたら、たぶん一番安い想定の数字になります。材料が支給されて、単純に削るだけなら、時間と刃物代でだいたいの幅は見られます。でも今回の話は、そこに洗浄後の扱い、濡れ、傷、触る面、搬送が乗っています。加工そのものより、使い方の条件で手間が変わる仕事です。で実際に作る時には、条件が増える。その時に『前の数字と違う』となると、発注側も困りますし、作る側も困ります」
片岡は少し黙った。
藤野も白井も口を挟まない。
隆夫は、直人の横で静かに座っている。
その沈黙が、直人にはありがたかった。
父が前に出れば、この場は父の交渉になる。だが、今は自分が言わなければならない。
片岡が、資料を指で叩いた。
「では、黒瀬さんとしては、数字を出せないということですか」
「現段階では、正式な数字は出せません」
「概算も?」
「工程別の概算は出しません」
片岡の目が細くなる。
直人は続けた。
「その代わり、今の段階がどこかは出せます」
机の上に、初期確認区分票を置く。
簡易対応。
要試作。
要再設計。
情報不足。
「今回の黒瀬精機の判断は、要試作です。ただし、南田板金さん、吉岡メッキさん、小池製作所さん、田端商会さんは情報不足が残っています。大西樹脂さんも、要試作ですが、薬品残りと傷許容の確認が必要です」
片岡が、小さく呟いた。
「情報不足……」
直人はその声を拾った。
「はい。情報不足は、できませんという意味ではありません。今の情報では、責任を持って数字や工程を決められないという意味です」
片岡が腕を組んだ。
「社内では、そういう回答は通りにくいんです」
「わかります」
直人は即答した。
「でも、通りやすい数字を先に出して、あとで現場が通らなくなる方が危ないです」
言った瞬間、部屋の空気が少し硬くなった。
若い。
言い方がまっすぐすぎる。
直人自身も、そう思った。
だが、片岡は怒らなかった。
代わりに、少しだけ背もたれへ体を預けた。
「黒瀬さんは、ずいぶんはっきり言いますね」
それは隆夫に向けた言葉だった。
だが、隆夫は淡々と答えた。
「うちの現場で、何度も見てきた話ですから」
片岡が直人を見る。
「あなたはまだ若いでしょう。そんなに何度も見てきたようには思えませんが」
来た。
直人は、胸の奥でそう思った。
年齢を突かれるのは当然だ。
ここで前の人生を出すわけにはいかない。未来の知識を匂わせるわけにもいかない。
だから、今の自分の言葉で言うしかない。
「僕は、まだ若いです」
直人は認めた。
「だから、全部を経験したとは言いません。でも、黒瀬精機の中で、古い仕事の箱や控えを整理してきました。数字だけ残って条件が残っていない仕事、誰が何を決めたかわからない仕事、現場で何とか合わせた跡がある治具、そういうものを見ています」
宮田が作った控えの写しを、そっと前に出す。
「これは今回の話とは別ですが、黒瀬精機では古い仕事を整理する時に、戻れるかどうかを見ています。戻れない仕事ほど、次に同じような相談が来た時に危ないんです」
片岡は、その紙を見た。
そこには具体的な客先名や単価はない。だが、番号と保管場所、使用範囲、未確認事項だけがきれいに並んでいる。
白井が、静かに補足した。
「信用金庫の立場から見ても、これは重要です。売上だけ見れば仕事に見えても、条件が曖昧なまま受けた仕事は、後から資金繰りを圧迫することがあります」
藤野も頷いた。
「商工会議所としても、今回の様式は、発注側と受注側の誤解を減らすために使えると考えています」
片岡は、まだ納得しきっていない顔だった。
しかし、怒ってはいない。
直人は、片岡の手元の社内メモに視線を落とした。
そこには、現場からの短い言葉が残っている。
仮置きにも使いたい。
傷が怖い。
濡れるかもしれない。
誰が使っても間違えにくくしたい。
これは、片岡だけが数字を欲しがっている話ではない。
片岡もまた、現場から曖昧な問いを受け取り、上から数字を求められている。
挟まれているのだ。
「片岡さん」
「はい」
「現場で実際に触る人は、1人ですか。複数ですか」
「複数です。日によって変わると聞いています」
「では、持つ位置が人によって変わる可能性があります。置き方も変わります。もし洗浄後に使うなら、触っていい場所と触ったらあかん場所を分けた方がいいです」
「色分けですか」
「はい。全部を複雑にする必要はありません。触る場所、置く場所、製品に当てない場所。それだけでも、試作で見られます」
片岡の目が、少し変わった。
数字の話ではなく、現場の動きの話になったからだ。
「つまり、黒瀬さんは、概算ではなく試作提案として出す方がいいと言っているわけですね」
「はい」
直人は、今度は迷わず答えた。
「概算見積もりではなく、初期試作提案です。目的は、価格を決めることではなく、条件を決めることです」
部屋が静かになった。
藤野が、その言葉をメモする。
白井も、鞄から別の紙を出した。
隆夫は、少しだけ口元を緩めた。
直人は自分の手に、うっすら汗が出ていることに気づいた。
片岡は、しばらく考えていた。
やがて、ゆっくりと言った。
「わかりました。工程別の概算を求めるのは、いったん止めます」
藤野が顔を上げる。
白井も、静かに片岡を見た。
「その代わり、黒瀬精機さんから初期試作提案を出してください。必要情報一覧は、こちらで現場に確認して埋めます。社内には、価格検討ではなく条件確定のための試作として通します」
直人は、すぐには返事をしなかった。
ここで簡単に受けると、また線が曖昧になる。
隆夫が横で静かに待っている。
任されたのだと、直人は思った。
「提案は出せます」
直人は言った。
「ただし、条件があります」
片岡の眉が上がった。
「条件?」
「初期試作の目的、使う場所、洗浄後か洗浄前か、触っていい面、傷を避ける面、搬送条件。これを先に紙で確認してください。それがない状態では、試作も受けられません」
片岡は少し苦笑した。
「若いのに、厳しいですね」
「若いので、紙に残さないと負けます」
直人がそう言うと、藤野が思わず顔を上げた。
白井も、片岡も、一瞬黙った。
直人は、言いすぎたかと思った。
だが、隆夫が小さく笑った。
「まあ、うちの息子はこういう考えですわ」
片岡も、今度は少しだけ笑った。
「なるほど。紙に残さないと負ける、ですか」
「すみません。言い方が強かったです」
「いえ。わかりやすい」
片岡は資料を閉じた。
「では、こちらも紙で返します。必要情報を埋めたうえで、初期試作提案を依頼する。工程別概算は求めない。そういう形で進めましょう」
藤野が確認する。
「商工会議所として、照会票の種別を『概算照会』から『初期試作相談』へ変更します」
白井も言った。
「信用金庫としては、試作費用と量産設備投資を分けて整理します。最初から大きな数字にしない方が、双方にとって安全です」
片岡は、直人の必要情報一覧を見ながら言った。
「現場へ持ち帰ります。たぶん、これなら話ができます」
その一言で、直人の肩から少し力が抜けた。
勝ったわけではない。
ただ、流れを変えた。
数字だけを求める話から、条件を決める試作の話へ。
それだけで、現場が潰される危険は少し減る。
打ち合わせが終わり、会議室の外へ出ると、廊下の窓から強い西日が差していた。
藤野は資料を抱えながら、直人に言った。
「黒瀬さん、今日の説明は助かりました」
「言いすぎてませんでしたか」
「少し」
藤野は正直に言った。
「でも、必要でした」
白井も頷く。
「若さで押し切った部分はあります。ただ、相手もそこを見ていました。町工場の若い人間が、安い数字ではなく条件を残せと言った。それは意味があります」
直人は、返事に困った。
若さは弱点だと思っていた。
だが、今日は少しだけ武器にもなった。
帰り道、隆夫はしばらく黙って歩いた。
商工会議所を出ると、東大阪の夕方はまだ暑かった。車の音、トラックのバックブザー、どこかの工場から漏れる金属音が、街の上に重なっている。
「直人」
「はい」
「今日は、よう言うた」
その一言だけで、直人は胸の奥が熱くなった。
父に褒められることは、まだ慣れない。
まして、仕事の場で褒められることは。
「でも、最後の『負けます』は強かった」
「すみません」
「いや」
隆夫は少し笑った。
「たまには、あれくらいでええ。わしらは、今まで負け方にも気づかんまま負けてきた仕事が多すぎた」
直人は黙って父の横を歩いた。
前の人生で失ったものが、ふと胸をかすめる。
父の背中。
工場の音。
言えなかった言葉。
取り返せない時間。
今回は、まだ間に合う。
黒瀬精機へ戻ると、森川が機械を止めてこちらを見た。
「どうでした」
隆夫が答える前に、美智子が事務所から出てくる。
「顔見たら、負けてはなさそうやね」
直人は苦笑した。
「概算照会は、初期試作相談に変わりました」
森川が目を丸くした。
「おお。紙の名前が変わったんか」
「名前だけやない」
隆夫が言った。
「工程別の概算は出さん。必要情報を先にもらって、初期試作提案として出す」
美智子はすぐに机へ向かった。
「ほな、ファイルの表紙を改訂します。TKD-1996-002のまま、R1として『概算照会対応』から『初期試作相談』へ変更。古い表紙は捨てずに、変更履歴として綴じておいて」
宮田が棚からファイルを出す。
「はい。旧表紙を控えに残して、新しい表紙にR1を入れます」
森川は直人の顔を見て、少しだけ笑った。
「直坊、前に出たんやな」
「出されました」
「出された時に立てたなら、それでええんちゃいますか」
その言い方が、直人には妙に嬉しかった。
美智子は新しい紙に、力を込めて見出しを書いた。
TKD-1996-002 初期試作相談。
その下に、必要情報の欄が並ぶ。
使用工程。
洗浄前後。
薬品接触。
濡れ条件。
傷許容。
触ってよい面。
触ってはいけない面。
搬送条件。
試作数量。
確認担当者。
直人は、その紙を見つめた。
また紙が増えた。
けれど、今度の紙は違う。
ただ守るための紙ではない。
仕事を前へ進めるための紙だ。
森川が横で呟いた。
「また忙しなりますね」
隆夫は頷いた。
「せやな」
美智子は顔を上げた。
「でも、今度は黒瀬から提案する番や」
直人は、胸の奥で静かに息を吸った。
初めて、外の大人相手に線を引いた。
その線は、黒瀬精機を守るためだけではない。
南田板金、大西樹脂、吉岡メッキ、小池製作所、田端商会。
それぞれの現場へ、無理な数字を押し込ませないための線でもある。
若造の言葉でも、紙に残れば線になる。
線になれば、次の仕事を変えられる。
直人は、宮田が新しい表紙を差し替えるのを見ながら思った。
町工場の未来は、大きな機械だけで変わるのではない。
最初の問いを、誰がどう受けるかで変わる。
その問いの前に、今日は自分が立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます