第79話 見積もりの前に引く線

 東大阪商工会議所から返事が来たのは、3日後だった。


 今度の封筒は、前より少し厚い。


 黒瀬精機の事務所で、美智子が封を切る。その横で隆夫が腕を組み、森川修一は油のついた手を布で拭きながら覗き込んでいた。宮田悟は、前回の控えをすぐ出せるように、棚からTKD-1996-002のファイルを抜いている。


 直人は封筒の厚みを見て、少し嫌な予感がした。


 薄い紙は軽く見えて危ない。


 厚い紙は、もっと危ないことがある。


 中から出てきたのは、藤野の手紙と、河島産業の協力先からの追加資料だった。


 正式図面ではない。


 しかし、前より具体的だった。


 概略寸法。


 想定数量。


 使用環境。


 洗浄後に触れる部品。


 薬品接触は少ないが、濡れた状態で扱う可能性あり。


 傷許容は厳しめ。


 そして、最後に一文があった。


 概算でよいので、工程ごとの費用感を知りたい。


 森川が紙を見た瞬間、苦い顔をした。


「来たなあ、これ」


 隆夫も渋い顔になる。


「概算でよい、か」


 美智子はその一文に赤鉛筆で丸を付けた。


「この言葉が一番怖いね」


 宮田が首を傾げる。


「概算でも、駄目なんですか」


「駄目とは言わん」


 隆夫が答えた。


「けど、何を作るか決まってへんのに数字だけ出したら、その数字が一人歩きする。あとで条件が変わっても、『前はこれくらい言うてたやろ』になる」


 森川が紙の端を見ながら、低く言った。


「工程ごと、いうのも怖いですね。切削はいくら、板金はいくら、メッキはいくら、運送はいくら。そんなふうに分けた数字だけ残ったら、現場の手間が見えんようになりますわ」


 宮田は黙ってノートに書いた。


 概算。


 数字が一人歩きする。


 工程ごとの費用感。


 現場の手間が見えない。


 美智子が宮田のノートを横目で見て、少しだけ頷く。


「悟くん、そこ大事。あとで戻る」


「はい」


 直人は手紙をもう一度読んだ。


 藤野の文章は慎重だった。


 河島側から費用感の問い合わせがあったが、正式見積もりではない。高井田町工場連絡会として、対応できる範囲を確認したい。必要であれば、商工会議所で打ち合わせの場を設ける。


 藤野はわかっている。


 だが、相手は欲しがっている。


 早い返事。


 安い見通し。


 工程ごとの数字。


 それは発注側から見れば普通の要求だった。悪意があるとは限らない。むしろ、予算を通すためには必要なのだろう。


 しかし、町工場側から見ると違う。


 決まっていない条件で数字を出す。


 工程ごとに分けて出す。


 その数字をもとに、あとで別の工場へ当てられる。


 直人は、まだ何も言わなかった。


 ここで余計なことを言うわけにはいかない。けれど、この危なさは現場の人間にも伝わるはずだ。


 美智子が静かに言った。


「集めるしかないね」


「全員か」


 隆夫が聞く。


「全員やなくてええ。でも、これは黒瀬だけで返したらあかん。南田さん、大西さん、吉岡さん、小池さん、田端さん。それに藤野さんと白井さん。今回は、見積もりの前に何を決めるかの話になる」


 森川が布で指先の油を拭きながら、息を吐いた。


「また人集めなあきませんか」


「会議やなくて、守る線を決める場や」


 美智子の声は柔らかいが、逃げがない。


 森川は少しだけ肩をすくめた。


「それなら、先に紙が要りますね。集まってから話が散ったら、余計に時間食いますし」


 宮田が、そっと言った。


「会議の荷札、作ります」


「お願い」


 美智子はすぐに紙を出した。


 TKD-1996-002 概算照会対応。


 目的。


 正式見積もり前に、回答できる範囲を決める。


 決めること。


 費用感を出す条件。


 出さない数字。


 各社で共通する断り方。


 決めないこと。


 単価。


 正式納期。


 工程別の内訳。


 持ち帰ること。


 必要情報の不足分。


 追加確認の窓口。


 宮田は、それを丁寧に写していく。


 森川が横から覗き込み、小さく笑った。


「また札が増えるなあ。まあ、こういう時はあった方が迷わんか」


 直人は思わず笑いそうになった。


 だが、今はその札が必要だった。


 札がなければ、人は話し合いの中で流される。流されると、声の大きい人間や急いでいる人間に場を持っていかれる。


 何を決める場か。


 何を決めない場か。


 それを書いてから集まる。


 それだけで、町工場の会議は少し変わる。


 翌日の夕方、黒瀬精機の事務所と作業場の間に長机が2本出された。


 南田板金の南田は、汗を拭きながら最初に来た。大西樹脂の大西は、サンプルの樹脂片を小さな袋に入れて持ってきた。吉岡メッキの吉岡は、相変わらず表情が読みにくい。小池製作所の小池は、入ってくるなり「暑いな」とだけ言った。


 田端は最後に軽トラックで滑り込んできた。


「すんません、1件回ってました」


「田端さんは荷物が本業やから、それでええです」


 直人が言うと、田端は笑った。


「直坊、最近ええこと言うやないか」


「ほんまのことです」


「ほな、今日は何の荷物ですか」


 美智子が机の上の紙を指した。


「今日は、数字の荷物です」


 田端が顔をしかめた。


「うわ、一番重いやつや」


 少し笑いが起きたところへ、藤野と白井が入ってきた。


 藤野は東大阪商工会議所の職員として、前より少しだけ疲れた顔をしていた。白井は高井田信用金庫の鞄を抱え、会釈をして席に着く。


 隆夫が全員を見回した。


「今日は、河島さんの協力先から来た概算照会についてです。先に言うときます。うちは、工程ごとの数字をそのまま出すつもりはありません」


 小池が、すぐに頷いた。


「そらそうや。そんなもん出したら終わりや」


 南田も腕を組む。


「でも、向こうも予算を見たいんやろ。全く数字なしでは話が進まんのとちゃうか」


 大西が、袋の中の樹脂片を机に置いた。


「樹脂だけでも、材質で全然変わります。濡れる、薬品がある、傷が厳しい。この3つだけで候補が変わる。費用感言うても、幅が大きすぎる」


 吉岡は短く言った。


「表面処理も同じや。条件なしの数字は嘘になる」


 藤野が資料を開いた。


「商工会議所としても、皆さんに不利な形で数字を出していただきたいわけではありません。ただ、発注側からは、社内で検討するための目安が必要だと言われています」


「目安が欲しいのはわかります」


 美智子が言った。


「でも、目安がそのまま約束になることがあります」


 白井が、そこに静かに入った。


「金融機関の立場から見ても、条件のない概算は危険です。設備投資や運転資金の相談でも、根拠の薄い売上見込みは後で問題になります。数字を出すなら、前提条件と有効範囲を一緒に書くべきです」


 森川が白井を見る。


「白井さん、数字を出すにしても、幅を持たせる形ですか」


「はい。しかも、工程ごとの原価内訳ではなく、初期確認段階の費用帯としてです。正式見積もりではないと明記する必要があります」


 小池が顔をしかめた。


「費用帯て、また難しい言い方を」


 田端が笑う。


「安い、高い、めっちゃ高いではあきませんか」


「それで通るなら一番ええんですけど」


 白井が真面目に返すので、場が少し緩んだ。


 直人は、その流れを見てから口を開いた。


「工程ごとの値段を出すんやなくて、初期確認に必要な条件を返す形にした方がええと思います」


 藤野が顔を向ける。


「条件ですか」


「はい。たとえば、材質が決まっていない場合、加工費の概算は出せません。洗浄条件が決まっていない場合、樹脂や表面処理の候補は絞れません。数量が決まっていない場合、試作と量産の費用感は分けられません。そういう不足情報を先に返します」


 南田が頷いた。


「それなら嘘にならんな」


「それと、どうしても目安が要るなら、見積もりやなくて、検討段階の区分にします」


「区分?」


 小池が聞いた。


 直人は紙を引き寄せ、鉛筆で3つの枠を書いた。


 簡易対応。


 要試作。


 要再設計。


「この3つくらいです。簡単に既存の道具や加工で済むのか、一度試作して確認せなあかんのか、そもそも設計から見直しが要るのか。まずそこを返す。値段より先に、どの段階の仕事かを分けるんです」


 吉岡が、初めて少しだけ身を乗り出した。


「表面処理なら、それは使える。前処理で済むのか、処理条件を変えるのか、触る環境から見直すのか。そこを分けられる」


 大西も樹脂片を指で押さえながら言う。


「樹脂も同じです。既製材で削るだけなのか、材質選定から要るのか、相手の洗浄条件を変えないと無理なのか」


 南田が言った。


「板金も、ただの曲げか、治具が要るか、設計変えな曲がらんかで違う」


 小池は少し黙ってから、ぼそりと言った。


「つまり、値段の前に手間の階段を見せるんか」


「はい」


 直人は頷いた。


「でも、階段の中身までは見せすぎない。『この段階です』とだけ返す。工程ごとの原価や段取りは出さない」


 田端が机を軽く叩いた。


「運送もいけるわ。普通便で済むのか、混載注意か、専用で行かなあかんのか。先に区分できる」


 白井がノートに書き込む。


「それなら、金融側でも説明しやすいです。単価ではなく、案件の難度区分ですね」


 藤野は何度も頷いていた。


「商工会議所の照会票にも、その欄を追加できます。簡易対応、要試作、要再設計。あと、情報不足で判定不可という欄も必要ですね」


 美智子がすぐに言った。


「それ要ります。無理に3つへ入れたら、また変な約束になります」


 宮田は新しい紙に見出しを書いた。


 初期確認区分。


 簡易対応。


 要試作。


 要再設計。


 情報不足。


 森川が、それを見て少し考えた。


「現場の言葉やったら、すぐできる、一回やってみなわからん、作り方から考え直し、今の情報では判断できん、くらいですかね」


「森川さん、それええです」


 宮田が思わず言った。


 森川は少し照れたように、布で手を拭き直した。


「いや、わしらが聞いてわかる言葉にしただけや」


「それが大事やと思います」


 直人も頷いた。


「紙の言葉だけやと、現場で使いにくいですから」


 美智子が赤鉛筆で、宮田の紙の横に小さく書いた。


 すぐできる。


 一回やってみなわからん。


 作り方から考え直し。


 今の情報では判断できん。


 小池が、それを見て笑った。


「最後、だいぶ丸いな」


 森川も苦笑する。


「現場やったら、もっと短い言い方しますけどね」


「何や」


「今のままでは無理、ですわ」


 吉岡が、短く言った。


「それで十分や」


 また少し笑いが起きた。


 だが、紙の上に引かれた線は笑いごとではなかった。


 見積もりの前に、何を返すか。


 それが決まり始めている。


 隆夫が藤野に向き直った。


「今回の返事は、この区分で返しましょう。費用感は出しません。ただし、どの段階の仕事になりそうかは示す。追加で必要な情報も書く」


 藤野は少し考えた。


「発注側から、数字がないと言われる可能性はあります」


「その時は、数字を出すために必要な情報を返します」


 美智子が言った。


「情報が足らんまま数字を出すことは、高井田町工場連絡会としてはしません。そう書いてください」


 藤野は、その言葉を聞いて顔を上げた。


「高井田町工場連絡会として、ですね」


「はい」


 美智子はまっすぐ藤野を見た。


「黒瀬精機だけの返事やったら、角が立ちます。でも、この町の複数の工場が同じ線で返すなら、取引の作法にできます」


 その瞬間、直人は胸の奥で何かが動くのを感じた。


 美智子が言ったことは、まさに必要な一歩だった。


 1社だけでは弱い。


 だが、複数の工場が同じ言葉を持てば、それは交渉になる。


 強く押し返すのではない。


 乱暴に断るのでもない。


 ただ、線をそろえる。


 その線が、町工場を守る。


 白井が静かに言った。


「信用金庫としても、その線は支援できます。無理な概算を避けることは、資金繰りの安定にもつながります。受けた後で赤字になる仕事ほど危ないものはありません」


 田端が頷く。


「運ぶ方も同じですわ。安い思うて受けたら、あとで専用便や、濡らすなや、夕方までに届けろや言われる。最初に条件を書いてくれる方が、こっちも助かる」


 南田が、腕をほどいた。


「ほな、今回の返事はどう分ける」


 そこからは早かった。


 黒瀬精機は、治具全体としては「要試作」。


 正式図面と洗浄条件がないため、簡易対応とはしない。


 南田板金は、金属押さえの可能性あり。ただし材質と板厚未定のため「情報不足」。


 大西樹脂は、樹脂受け台としては「要試作」。薬品残り、傷許容、洗浄条件の確認が必要。


 吉岡メッキは、表面処理について「情報不足」。洗浄前後と薬品接触の確認後に再判定。


 小池製作所は、穴あけ・小物曲げの可能性あり。ただし正式図面なしでは「情報不足」。


 田端商会は、搬送について「情報不足」。濡れ、傷、混載可否、梱包条件が必要。


 宮田は、それらを一つずつ紙へ落としていった。


 書きながら、何度も確認する。


「黒瀬精機は、要試作。正式図面、洗浄条件、使用場所の確認が必要」


「南田板金は、情報不足。材質、板厚、曲げ方向の確認が必要」


「大西樹脂は、要試作。薬品残り、傷許容、洗浄条件の確認が必要」


 宮田の声は、最初よりずっと落ち着いていた。


 誰かが早口で言ったことを、そのまま紙に写すのではない。あとで戻れるように、言葉を整えている。


 森川が、宮田の手元を見て小さく言った。


「前より、だいぶ迷わんようになってきたな」


 宮田は少しだけ顔を上げた。


「まだ遅いですけど」


「遅うても、間違わん方がええ。現場も紙も、戻れる方が助かる」


 宮田は小さく頷き、また紙へ目を戻した。


 会議の最後に、藤野が返答文の案を読み上げた。


「高井田町工場連絡会としては、現段階では正式見積もりおよび工程別費用の提示は行わない。理由は、材質、数量、洗浄条件、薬品接触、傷許容、正式図面、梱包搬送条件が未確定であり、条件のない概算は後日の誤解を招くためである」


 小池が、思わず言った。


「硬いな」


 藤野は苦笑した。


「文書ですので」


 美智子が首を振った。


「硬くてええです。残る紙は、少し硬いくらいでちょうどいい」


 藤野は続けた。


「ただし、初期確認区分として、各工程の現段階評価を添付する。今後、必要条件が提示された場合、各工場は必要範囲で再確認を行う。工程別原価、各社の仕入先、加工条件、詳細な段取りは初期照会段階では共有しない」


 吉岡が短く頷いた。


「それでええ」


 南田も言った。


「これなら返せる」


 大西は樹脂片を袋へ戻した。


「変に安いことを言わなくて済みます」


 田端は、返答文の写しを見て笑った。


「わしのところにも、運送条件未定って入れてくれてる。ありがたい話ですわ」


 隆夫は全員を見渡した。


「ほな、これで返します。数字は出さん。けど、逃げたわけでもない。必要な情報を返す。それでいきましょう」


 誰も反対しなかった。


 田端は、封筒ではなく返答文の控えをそれぞれの前に並べた。


 TKD-1996-002。


 初期確認区分回答。


 東大阪商工会議所控え。


 高井田信用金庫控え。


 黒瀬精機控え。


 連絡会共有控え。


 田端商会搬送控え。


 美智子がそれを確認し、ようやく頷いた。


「これでお願いします」


 藤野はその場で返答文を受け取り、しばらく黙って目を通した。


 部屋の中に、紙をめくる音だけが残る。


 やがて藤野は、深く息を吐いた。


「これは、会議所としても使える様式です」


 美智子の手が止まった。


「使える、ですか」


「はい。次から、照会票にこの初期確認区分を入れられるかもしれません。少なくとも、発注側へ条件不足を返す時の形としては、かなり整理されています」


 白井も、隣で控えを見ながら頷いた。


「信用金庫側でも使えます。相談案件を聞く時に、いきなり金額や融資額へ行く前に、仕事の段階を分けられる。これは助かります」


 小池が、少し呆れたように笑った。


「なんや。うちら、また紙を増やしたんか」


 森川が控えを見ながら、苦笑した。


「増えたように見えて、後で揉める紙を減らす方かもしれませんね」


「それ、ほんまに減るんか」


「減ってくれたら助かりますわ。こっちも手は2本しかありませんし」


 田端が控えを手に取り、軽く振った。


「これは運ぶ方にもありがたいですわ。普通便でええのか、混載注意か、専用扱いか。最初に区分があるだけで、あとから揉めにくい」


 藤野は返答文を封筒に戻さず、そのまま鞄の中へ丁寧に入れた。


「この形で、私から先方へ伝えます。数字がないことについては、こちらで説明します」


 隆夫が頷いた。


「お願いします。ただ、そこははっきり言うてください。数字を出さへんのは、逃げてるからやない。条件なしの数字は、あとで双方を傷つけるからです」


「はい」


 藤野の返事は短かったが、強かった。


 白井も控えを鞄へ入れる。


「金融機関としても、そこは同じ考えです。受けた後で赤字になる仕事ほど危ないものはありません。今回の線引きは、資金繰りの面でも意味があります」


 会議が終わると、工場主たちはそれぞれの現場へ戻っていった。


 南田は、帰り際に直人へ言った。


「若いのに、嫌なとこ見てるな」


 直人は少し迷ってから答えた。


「現場で後から困ることは、だいたい最初の紙に出る気がします」


 南田は苦笑した。


「ほんま、嫌なとこ見てるわ」


 大西は、宮田に向かって言った。


「今日の紙、あとで写しもらえますか。うちの事務所でも使いたい」


 宮田は少し驚いたが、すぐに頷いた。


「はい。黒瀬控えとは別に、共有用を作ります」


 小池は「面倒くさいけど、ないよりましやな」と言い、吉岡は何も言わずに会釈だけして帰った。


 田端は最後に残った控えを見て、にやりと笑った。


「数字は入ってへんけど、重たい荷物ですな」


「重たいから、迷子にせんといてください」


 美智子が言うと、田端は軽く手を上げた。


「任せとき。紙の荷物ほど、なくしたら怖いもんはありませんから」


 軽トラックが出ていくと、工場の中にはいつもの音が戻った。


 だが、直人には少し違って聞こえた。


 旋盤の音。


 扇風機の音。


 紙を揃える音。


 そのすべてが、1社だけの音ではなくなっていく。


 美智子は作業台の上に残った控えを見ながら、宮田に言った。


「悟くん、この紙は捨てたらあかんよ」


「はい。TKD-1996-002に綴じます」


「それと、初期確認区分の白紙も作っておいて。次から毎回使うかもしれへん」


 宮田は頷き、すぐに棚へ向かった。


 森川が、隆夫に言った。


「社長、これ、手間は増えますね」


「せやな」


「すぐ銭になる話ではなさそうですし」


 隆夫は少し笑った。


「すぐには儲からんやろ」


「ほな、最初はしんどい方が先に来ますね」


「けど、赤字になる仕事を避けられるかもしれん」


 森川は、少し考えてから頷いた。


「それなら、現場は助かります。安く受けた仕事ほど、最後に手で合わせることになりますから」


 それは、職人にとっても大きい。


 安く受けた仕事ほど、現場に無理が来る。時間が削られ、確認が飛ばされ、最後に誰かが手で合わせる。そういう仕事を減らすことは、工場を守るだけでなく、職人の手を守ることでもあった。


 直人は、窓の外を見た。


 夕方の空は少し赤く、工場の屋根が黒く沈んでいる。


 派手な契約はない。


 大きな注文もまだない。


 けれど、今日決まったことは小さくない。


 見積もりの前に、線を引く。


 数字を出す前に、条件をそろえる。


 断るための言葉を、町工場同士で持つ。


 それは、ずっと欲しかったものだった。


 作業台の上では、美智子が新しい白紙を1枚取り出していた。


 上に、丁寧な字で書く。


 初期確認区分票。


 その下に、4つの欄。


 簡易対応。


 要試作。


 要再設計。


 情報不足。


 直人は、その紙を見ながら思った。


 町工場が守るべきものは、図面だけではない。


 値段だけでもない。


 最初に引く線を、自分たちの手から離さないこと。


 それが、次の仕事を守る。


 そして、まだ見えない未来の工場を守る。


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