第78話 最初の照会票

 東大阪商工会議所からの封筒は、前より薄かった。


 けれど、黒瀬精機の作業台に置かれた時、その場の空気は前より重くなった。


 1996年8月の終わり。昼前の工場には、旋盤の音と扇風機の羽音が混じっている。外はまだ暑く、路地のアスファルトから熱が返っていた。


 美智子は封筒の表を見て、指で文字をなぞった。


 東大阪商工会議所。


 その名前は、もう曖昧にしない。


「藤野さんからやね」


 美智子が言うと、隆夫は機械を止めて作業台へ来た。森川修一も刃物を置く。宮田悟は、測定器棚の前から戻ってきて、いつものノートを開いた。


 直人は、封筒の厚さを見ていた。


 薄い。


 だが、薄い紙ほど危ないことがある。


 分厚い図面なら、誰でも身構える。だが、薄い問い合わせ票は、つい軽く扱ってしまう。名前、工程、返事の範囲。そこを間違えると、後から中身が勝手に膨らむ。


 美智子が封を切った。


 中に入っていたのは、東大阪商工会議所の照会票だった。


 件名は、河島産業関連の追加相談。


 TKD-1996-002。


 河島産業本体ではない。河島の協力先から、検査設備まわりの小物部品について相談が来ているらしい。


 正式図面なし。


 概略寸法あり。


 材質候補あり。


 数量未定。


 求める回答は、対応可能工程、注意点、初期確認に必要な情報。


 単価回答は不要。


 直人は、そこで少しだけ息を吐いた。


 前より、ましになっている。


 いきなり図面や単価や取引先実績を求めてきていない。藤野が会議所内で、かなり踏ん張ったのだろう。


 だが、油断はできない。


 隆夫が紙を持ち上げた。


「単価回答は不要、か」


「そこは通ったみたいやね」


 美智子は頷いたが、すぐに次の行を見た。


「でも、対応可能工程と注意点は要る。どこまで書くかやね」


 森川が紙を覗き込む。


「材質候補って何や」


「ステンレス、アルミ、樹脂のどれか。まだ決まってへんみたいや」


「決まってへんもんを、どう答えろ言うねん」


 森川の声に、苛立ちが混じった。


 それは正しい。


 材質が決まらなければ、加工条件も変わる。洗浄も変わる。表面処理も、傷の扱いも、強度も変わる。何でもできますと答えれば、後で自分たちの首が締まる。


 宮田がノートに書きながら言った。


「材質未定の場合は、工程候補だけ。判断保留、ですか」


 森川が横目で見る。


「宮田、最近ほんまに紙の人間になってきたな」


「紙の人間ではないです」


「ほな何や」


「戻れるようにする係です」


 森川は一瞬だけ黙り、それから少し笑った。


「ええ返しするようになったやん」


 隆夫も笑いかけたが、すぐに照会票へ視線を戻した。


「これは、うちだけで答えたらあかんな」


 直人は頷いた。


 黒瀬精機だけで返事を出せば早い。だが、それをやると前に決めた線が崩れる。


 表面処理は吉岡確認。


 樹脂は大西確認。


 板金は南田確認。


 搬送は田端確認。


 番号と治具全体は黒瀬確認。


 その線を守るための、高井田町工場連絡会だった。


 美智子はすぐに新しい紙を出した。


「会議の荷札、使うで」


 森川が渋い顔をした。


「またそれか」


「またそれや。何のために集まるか先に書かんと、皆の手を止めるだけになる」


 美智子は、迷わず見出しを書いた。


 TKD-1996-002 初期照会確認。


 目的。


 工程候補を返す。


 持参資料。


 照会票、概略寸法、材質候補。


 決めること。


 誰が、どの範囲で回答するか。


 決めないこと。


 単価、正式納期、取引条件。


 持ち帰ること。


 各工程の確認待ち事項。


 宮田はそれを横から見て、別の紙へ写し始めた。


「宮田くん、写しは2枚」


 美智子が言う。


「1枚は黒瀬控え。もう1枚は田端さんに渡して、各工場へ回してもらう」


「はい」


 宮田の返事は早かった。


 少し前なら、何を書けばいいか迷っていた。今は違う。紙が何のためにあるかを、少しずつ体で覚えている。


 昼過ぎ、田端が荷物を取りに来た。


 黒瀬精機の入口で、照会票の写しを渡されると、眉を上げる。


「もう情報の荷物ですか」


「急ぎです」


 美智子が言った。


「ただし、荷物と同じで、中身を開けすぎんといてください。渡すのはこの紙だけ。口で余計な説明を足さんといて」


 田端は肩をすくめた。


「奥さん、信用ないなあ」


「信用してるから頼んでます」


「そう言われたら断れませんな」


 田端は紙を見た。


「南田さん、大西さん、吉岡さん、小池さん。順番は?」


「荷物の便に合わせてください。全員を今日集める必要はありません。返事は電話でもええです」


 直人が言うと、田端は少し意外そうな顔をした。


「集めへんのか」


「集めるだけで仕事が止まります。今回は、会議するほどの話かどうかも確認する段階です」


「なるほどな」


 田端は紙を軽く振った。


「これが会議の前の荷札いうわけや」


 宮田が小さく頷いた。


「はい。集めるかどうかを決める紙です」


「宮田くんまで、奥さんみたいなこと言うようになったな」


 宮田は困った顔をした。


 森川が奥から声を飛ばす。


「褒め言葉やぞ」


「褒めてます?」


「たぶんや」


 工場に少しだけ笑いが起きた。


 だが、その笑いはすぐに機械音へ戻った。


 まず返ってきたのは、南田板金からだった。


 田端が夕方前に電話を入れてきた。


「南田さん、概略寸法だけなら金属押さえの候補は見られるそうです。ただし、材質と板厚が決まるまで曲げ条件は出さん。数量も未定なら、量産前提の話は保留」


 美智子が復唱し、宮田が書く。


 南田板金。


 金属押さえ候補。


 材質、板厚未定のため曲げ条件回答不可。


 試作数量確認後、再判断。


 次は大西樹脂だった。


「大西さんは、樹脂受け台なら相談可。ただ、薬品残りと傷条件が分からんと材質候補を絞れないそうです」


 宮田が鉛筆を止める。


「薬品残り、ですか」


 隆夫が頷いた。


「樹脂はそこが怖い。何に触れるかで変わる」


 宮田は書いた。


 大西樹脂。


 樹脂受け台候補。


 薬品残り、洗浄条件、傷許容の確認が必要。


 材質提案は保留。


 吉岡メッキからの返事は短かった。


「吉岡さんは、『表面処理は今の情報では答えん』やそうです」


 森川が笑いそうになった。


「吉岡さんらしいわ」


 田端の声が受話器越しに続く。


「ただし、洗浄後に触る部品か、薬品前に触る部品か、それだけ先に聞けとのことです」


 美智子はすぐに紙へ足した。


 吉岡メッキ。


 表面処理は現時点回答不可。


 洗浄前後、薬品接触有無の確認が必要。


 そして、小池製作所。


 返事は少し遅かった。


 夕方、田端が黒瀬精機に戻ってきた時、顔に微妙な疲れが出ていた。


「小池さん、最初はまた文句言うてましたわ」


「何て?」


 隆夫が聞く。


「こんな薄い紙で仕事になるか、です」


 森川が腕を組む。


「まあ、言うやろな」


「でも、最後はこう言うてました。穴あけか小物曲げなら見てもええ。ただし、図面なしでできるとは書くな。材質と数量が決まってから、です」


 直人は、そこで少しだけ口元を緩めた。


 小池は変わっていない。


 会議は嫌いで、紙も面倒がる。だが、線は覚え始めている。できると言い切らず、条件が要ると言うようになっている。


 それは大きい。


 宮田が最後の欄を書いた。


 小池製作所。


 簡易穴あけ・小物曲げ候補。


 正式図面、材質、数量確認後。


 図面なしでの対応可否回答不可。


 田端は作業台の上の紙を眺めた。


「こうして見ると、誰も『できます』とは言うてませんな」


「そこが大事やと思います」


 直人は言った。


「何もできないわけじゃない。でも、何でもできるとは言わない。条件が揃えば、候補になる。そこまでを速く返す」


 隆夫が、照会票と各工場の返事を並べた。


「ほな、黒瀬はどう返す」


 全員の目が、自然と直人ではなく隆夫へ向いた。


 前なら、直人が先に言いかけていたかもしれない。だが、これは黒瀬精機としての返事だ。父が線を引くべきところだった。


 隆夫は少し考えてから言った。


「黒瀬精機は、治具全体の番号管理と、工程分割の整理候補。正式図面が来るまでは設計回答不可。試作なら、戻れる番号を付けることを条件に相談可」


 宮田が書く。


 黒瀬精機。


 治具全体番号管理、工程分割整理候補。


 正式図面確認前の設計回答不可。


 試作時は戻れる番号を付与。


 美智子がその下に、赤鉛筆で一本線を引いた。


「まとめます」


 彼女は新しい紙に、藤野へ返す文面を書いた。


 高井田町工場連絡会として、TKD-1996-002について初期工程候補の照会に回答する。


 現時点で、正式な単価、納期、加工条件は回答しない。


 材質、数量、洗浄条件、薬品接触、傷許容、正式図面の確認後、各工程担当が必要範囲で再回答する。


 初期候補は以下。


 黒瀬精機。


 南田板金。


 大西樹脂。


 吉岡メッキ。


 小池製作所。


 田端商会。


 各社の詳細な取引先、仕入先、単価内訳、加工条件は初期共有しない。


 窓口は東大阪商工会議所。


 資金・設備相談は高井田信用金庫。


 工程確認は案件ごとの当番制。


 美智子は最後に、少しだけ鉛筆を止めた。


「田端さんの分が要る」


 田端が目を丸くする。


「わし?」


「荷物が動くなら必要です。まだ運ぶと決まってへんけど、動かす条件は書いとかな」


「条件?」


「荷札番号なしでは搬送不可。薬品関係と樹脂は混載注意。濡れ、傷、行き先を先に確認」


 田端は頭をかいた。


「奥さん、わしより運送屋みたいなこと言いますな」


「運送屋さんに迷惑かけたくないだけです」


「それ、いちばん怖い返しですわ」


 田端は笑ったが、目は真剣だった。


「でも、助かります。こう書いてくれたら、わしも断りやすい」


 断りやすい。


 その言葉が、直人の胸に残った。


 この仕組みは、仕事を取るためだけのものではない。


 危ない仕事を断るためのものでもある。


 断る理由を、個人の気分や勘にしない。紙に残し、条件にして、町工場同士で同じ線を持つ。そうすれば、小さな工場でも「それはできません」と言いやすくなる。


 夕方、藤野へ送る返答がまとまった。


 封筒に入れる前、美智子が宮田に確認を任せた。


「宮田くん、上書きしてへんね」


「はい」


 宮田は黒瀬控え、会議所返送分、田端控えの3つを並べた。


「元の照会票。各工場の返事。まとめ紙。全部別で残しています」


 森川が感心したように言う。


「ほんまに戻れるようになってるな」


「戻れないと怖いので」


 宮田の声は小さかったが、そこには芯があった。


 隆夫は封筒を閉じた。


「これが、高井田町工場連絡会の最初の返事やな」


 美智子は頷いた。


「まだ仮の集まりやけど、返事は残る」


 直人は封筒を見た。


 薄い紙から始まった1日だった。


 けれど、黒瀬精機の作業台には、薄い紙のままでは終わらないものが残っている。


 南田の線。


 大西の線。


 吉岡の線。


 小池の線。


 田端の線。


 黒瀬精機の線。


 それぞれが全部を見せず、全部を抱えず、それでも一つの返事になる。


 前の人生で、町工場は孤立していた。


 今回は、まだ弱い。


 まだ小さい。


 けれど、1社ずつなら飲み込まれる言葉が、町の返事になろうとしている。


 田端が封筒を荷台へ載せた。


「ほな、情報の荷物、東大阪商工会議所行きで預かります」


 美智子がすぐに言った。


「荷札は?」


「あります」


 田端は封筒の表を指で叩いた。


 TKD-1996-002。


 東大阪商工会議所 藤野様。


 黒瀬精機控えあり。


 田端商会搬送控えあり。


 それを見て、宮田が小さく笑った。


「封筒にも、荷札ですね」


 田端は軽トラックの扉を閉めた。


「当たり前や。中身が紙でも、迷子にしたらあかん荷物やからな」


 軽トラックが路地を出ていく。


 夕方の高井田に、まだ機械の音が残っていた。


 直人はその音を聞きながら、作業台の上に残った控えを見た。


 高井田町工場連絡会。


 最初の照会票。


 そこには、まだ大きな売上も、派手な契約もない。


 だが、町工場が外からの問いに、初めて町として返した線があった。


 全部は見せない。


 でも、逃げない。


 それが、この町の最初の返事だった。

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