第77話 正式な入口

 1996年8月。


 東大阪商工会議所の封筒が、黒瀬精機の机に置かれていた。


 白地の封筒に刷られた文字を、宮田悟がじっと見ている。


「商工会議所、なんですね」


 東大阪商工会議所の職員、藤野は苦笑した。


「町の人には、商工会さんとか会議所さんとか、まとめて呼ばれることもありますけどね。東大阪は市ですから、正式には東大阪商工会議所です」


 美智子は、封筒の文字を指で押さえた。


「ほな、書類には東大阪商工会議所で残します。名前が曖昧やと、後で相談先も制度もずれますから」


 直人は、その言葉に小さく頷いた。


 町工場の情報を整理しようとしているのに、入口の名前を曖昧にしたままではいけない。


 東大阪商工会議所。


 高井田の町工場が外へつながるための、正式な入口のひとつだった。


 藤野が持ってきた封筒の中には、河島産業の試作案件に関する簡単な報告書が入っていた。


 TKD-1996-001。


 試作5組。


 R1変更対応。


 現場確認済。


 5組本製作へ移行。


 そこまでは黒瀬精機でも把握している。


 問題は、その下だった。


 高井田地域での共同相談窓口化について。


 隆夫は眉を寄せた。


「また大きい言葉になってきましたね」


 藤野は困ったように笑った。


「私も少し早いとは思っています。ただ、河島産業さんの件で、会議所内でも関心が出まして」


「関心、ですか」


 美智子の声が低くなる。


「はい。高井田の町工場が、図面や単価を最初から全部出さずに、工程候補と責任範囲を返した。それで試作まで進んだ。そこに意味があるのではないかと」


 田端が入口から顔を出した。


「また堅い話してますな」


「田端さんにも関係あります」


 藤野が言うと、田端は肩をすくめた。


「最近、そればっかりですわ」


 田端は荷物を置き、作業台の脇へ寄った。


 森川修一は機械を止めてはいないが、耳だけこちらへ向けている。


 宮田は、封筒の横でノートを開いた。


 村井健太は土曜ではないため来ていない。


 だが、測定器棚の横には、彼が前回読んだ荷札の控えが残っていた。


 黒瀬精機の仕事は、いつの間にか金属を削るだけではなくなっている。


 藤野は封筒からもう1枚の紙を出した。


「会議所として、いきなり正式な制度にするつもりはありません。ただ、まずは高井田の工場同士で、相談の受け方を決めておけないかと」


「相談の受け方?」


 隆夫が聞き返す。


「はい。東大阪商工会議所が外からの相談を受ける。高井田側では、前に話していた当番制の窓口で、工程候補や問い合わせ先を整理する。河島産業さんの件を、今後も使える形にできないかという話です」


 美智子はすぐに言った。


「会議所が全部の情報を持つわけではないんですね」


「そこは、黒瀬さんたちの考えを尊重したいです」


 藤野は少し真剣な顔になった。


「会議所が受付を持つとしても、図面、単価内訳、加工条件、仕入先、取引先別実績までは預からない。まずは相談の入口と、つなぎ方だけです」


 直人は、藤野の言葉を聞いていた。


 悪くない。


 だが、危ない。


 入口を作るのは必要だ。


 しかし、入口が大きくなりすぎると、そこに情報が集まりすぎる。


 会議所が悪いわけではない。


 信用金庫が悪いわけでもない。


 黒瀬精機が中心になりすぎても、同じ危うさがある。


 善意の入口は、管理の入口にもなる。


「この前の河島さんの相談で、工程確認は町工場側の当番で受ける話にしましたよね」


 直人は、作業台の上に紙を引き寄せた。


「今回は、それをちゃんと呼べる形にする話やと思います。外からの正式な入口は東大阪商工会議所。お金や設備の相談は高井田信用金庫。工程確認は、町工場側の当番が受ける」


 藤野が紙を覗き込んだ。


「その町工場側の当番を、何と呼ぶかですね」


 田端が腕を組む。


「黒瀬さんとこ組、ではあかんやろな」


「それはあかん」


 美智子が即答した。


 隆夫は少し考え、鉛筆で紙の上に書いた。


 高井田町工場連絡会。


「まだ正式な団体やない。ただ、案件ごとに集まる時の呼び名としては、これくらいが分かりやすいんちゃうか」


 田端が覗き込む。


「高井田町工場連絡会。堅いけど、分かりやすいですな」


「黒瀬精機の会、よりはええやろ」


 森川が作業台の向こうから言った。


 隆夫は苦笑した。


「そんな名前にしたら、誰も来ん」


 宮田がノートを見ながら言った。


「工程ごとに、答えていい人を決める。そこは前に決めた通りです」


 彼は鉛筆で紙に書き足した。


 表面処理は吉岡確認。


 樹脂は大西確認。


 板金は南田確認。


 搬送は田端確認。


 番号と治具全体は黒瀬確認。


「今回は、それを高井田町工場連絡会の運用として残す形ですね」


 森川が少し感心したように言った。


「宮田、もうそれ言えるんやな」


「前に決めたので」


「成長したなあ」


「やめてください」


 藤野は、そのやり取りを見ながら少し笑った。


「なるほど。高井田側でも、誰が何を答えるかを決めるわけですね」


 美智子が付け足した。


「それと、答えた内容は残す。誰が、いつ、何を答えたか。そこを残さないと、後で『聞いていない』『そういう意味ではない』になります」


 田端が頷く。


「荷物と一緒ですわ。誰が預かって、どこへ持っていくか。そこが曖昧やと迷子になる」


「今回は情報の荷物ですね」


 藤野が言うと、田端は指を鳴らした。


「ええ言い方ですな。情報の荷物」


 美智子はすぐに紙へ書いた。


 情報の荷物。


 誰が預かるか。


 どこまで運ぶか。


 中身を開けすぎない。


 直人は、その文字を見て少しだけ笑った。


 田端の言葉は軽い。


 だが、時々本質をつく。


 情報も荷物だ。


 宛先を間違えれば届かない。


 中身を書きすぎれば覗かれる。


 責任を曖昧にすれば迷子になる。


 昼前、南田板金の南田と、大西樹脂の大西が黒瀬精機へ来た。


 藤野が来ると聞いて、田端が声をかけていたらしい。


 少し遅れて吉岡メッキの吉岡も来た。


 小池製作所の小池は、最後に入ってきた。


「また会議かいな」


 小池が椅子に座るなり言う。


 南田が笑った。


「小池さん、会議嫌いやな」


「嫌いや。仕事が止まる」


 小池の言葉に、誰も笑い切れなかった。


 それは本音だからだ。


 小さな工場にとって、会議はただではない。


 座っている時間、機械は止まる。


 手が止まる。


 納期が近づく。


 だから「連絡会を作りましょう」と言うのは簡単だが、集まるたびに誰かの仕事が止まる。


 直人は、そこを軽くしたくなかった。


「連絡会は、集まりすぎたら続かないと思います」


 直人が言うと、小池がすぐに頷いた。


「ほら見い」


「だから、普段は紙と電話で回す。集まるのは、外から大きな相談が来た時と、ルールを変える時だけ」


 南田が腕を組む。


「月1回とか決めへんのか」


「決めたら、だんだん形だけになります」


 大西が静かに言った。


「必要な時に集まり、必要ない時は各工場で仕事をする。その方が現実的ですね」


 吉岡も頷いた。


「薬品の話も、毎回全員で聞く必要はない」


 小池は少し安心した顔になった。


「それならええ」


 藤野はメモを取っている。


「では、定例会ではなく、案件ごとの連絡会方式」


 美智子が言った。


「それと、参加してもらう時は、何を聞くか先に紙で出す。集まってから考えましょう、では時間がもったいないです」


 藤野は苦笑した。


「会議所側も気をつけます」


 田端が小さく言った。


「会議の荷札も要りますな」


「それ、いいですね」


 宮田が思わず言う。


 田端が目を丸くする。


「冗談やで」


「でも、何のために集まるか、誰が何を持ってくるか、どこまで決めるか。それを先に書けば、会議の荷札みたいになります」


 美智子は即座に紙へ書いた。


 会議の荷札。


 目的。


 持参資料。


 決めること。


 決めないこと。


 持ち帰ること。


 南田が吹き出した。


「奥さん、ほんまに書くんやな」


「書かないと消えます」


 美智子は真顔だった。


 笑いが少し広がった。


 だが、その紙を見ているうちに、皆の顔は少しずつ真剣になった。


 会議にも荷札がいる。


 それは冗談のようで、町工場には大事な考え方だった。


 何のために集まったのか。


 何を決めたのか。


 何を決めていないのか。


 そこが曖昧な会議は、仕事を止めるだけで終わる。


 昼を過ぎる頃、高井田町工場連絡会という仮の名前の中身が見え始めた。


 正式な法人ではない。


 会則もまだない。


 ただ、外部相談を受けるための任意の連絡会。


 入口は東大阪商工会議所。


 資金・設備相談は高井田信用金庫。


 工程確認は、高井田の町工場側の当番。


 案件番号はTKD。


 情報は、共有可と共有不可に分ける。


 図面、単価内訳、加工条件、仕入先、取引先別実績は初期共有しない。


 問い合わせには、当日または翌営業日に工程候補で返す。


 会議は案件ごと。


 会議にも荷札をつける。


 藤野は、その紙を見て言った。


「これ、かなり独特ですね」


 隆夫は苦笑した。


「独特ですか」


「普通は、もう少し形式から入ります。会長、副会長、会則、会費、定例会」


 小池が露骨に嫌な顔をした。


「それやったら俺は抜ける」


 南田が笑う。


「早いな」


「そんなんしてる暇ない」


 大西が言った。


「でも、いつかは必要になるかもしれません」


「今はいらん」


 吉岡が短く言った。


「形を先に作ると、形を守る仕事が増える」


 直人は、吉岡の言葉に頷いた。


 その通りだ。


 組織は必要だ。


 だが、組織を先に作ると、組織を維持するための仕事が増える。


 最初は、仕事を守るための連絡会でなければならない。


 藤野は少し考えてから言った。


「では、会議所としては、当面は非公式な連携会合として扱います。外部からの相談窓口として東大阪商工会議所が最初に受け、案件ごとに高井田町工場連絡会へ照会する。名称は、ひとまず仮称ということで」


「それならええと思います」


 隆夫が答えた。


 美智子はすぐに言った。


「照会する時の紙も、先に決めたいです」


 藤野は苦笑した。


「分かりました。会議の荷札ですね」


「はい」


 その日の夕方、藤野が帰る時、封筒は来た時より厚くなっていた。


 中には、河島産業案件の報告だけではなく、高井田町工場連絡会の暫定運用案も入っている。


 藤野は黒瀬精機の入口で頭を下げた。


「今日はありがとうございました。こちらも勉強になりました」


 隆夫も頭を下げる。


「こちらこそ。名前のことも、ちゃんと整理できてよかったです」


 藤野は少し笑った。


「名前は入口ですからね」


 その言葉に、直人は胸の奥で頷いた。


 名前は入口。


 商工会議所も。


 高井田町工場連絡会も。


 TKD番号も。


 どれも、ただの文字ではない。


 どこへつながり、どこまで見せ、どこから先を守るかを決める入口だ。


 藤野が帰った後、工場には少し疲れた空気が残った。


 小池は大きく伸びをした。


「会議は疲れるわ」


 南田が言う。


「でも、今日は仕事止めた分くらいの意味はあったやろ」


「まあな」


 小池は渋々認めた。


「ただし、毎月は嫌や」


「誰も毎月とは言うてへん」


 大西が笑った。


 吉岡はすでに立ち上がっている。


「薬品の相談が来たら呼べ。それ以外は紙でええ」


 田端が荷台の方へ歩きながら言った。


「ほな、俺は情報の荷物も運ぶことになりそうですな」


 美智子がすぐに返す。


「その分の手間料も考えましょう」


 田端は一瞬驚き、それから笑った。


「奥さんに言われる前に言うべきでしたわ」


 黒瀬精機に、いつもの調子が戻ってきた。


 だが、作業台の上には新しい紙が残っている。


 高井田町工場連絡会。


 まだ、ただの仮称だ。


 それでも、町工場が外へつながるための入口が、少しだけ形になった。


 直人はその紙を見ていた。


 前の人生では、町工場はそれぞれ孤立していた。


 困っても、隣が何を抱えているか分からない。


 仕事が減っても、どこへ相談すればいいか分からない。


 大企業から資料を求められれば、断る理由を持たないまま出してしまう。


 今回は違う。


 まだ弱い。


 まだ紙1枚だ。


 でも、入口がある。


 東大阪商工会議所。


 高井田町工場連絡会。


 高井田信用金庫。


 田端の荷台。


 黒瀬精機の番号。


 それぞれが全部を持つのではなく、必要な場所でつながる。


 それが、この町の新しい形になるかもしれない。


 夜、宮田が作業台の端で、会議の荷札を清書していた。


 森川がそれを覗き込む。


「また変な紙が増えたな」


「でも、分かりやすいですよ。目的、持参資料、決めること、決めないこと」


「決めないことまで書くんか」


「決めないことを書かないと、話が広がりすぎます」


 森川は少し黙り、それから笑った。


「宮田、ほんま黒瀬の人間になってきたな」


 宮田は照れた。


「まだまだです」


 直人は、そのやり取りを聞きながら思った。


 黒瀬精機は、今日も大きな製品を作ったわけではない。


 作ったのは、会議の入口。


 情報の荷札。


 町工場同士が外とつながるための、正式な入口。


 日本の未来を変えるには、まだ遠い。


 けれど、未来を変える仕事は、いつも大きな機械音を立てて始まるとは限らない。


 時には、封筒に刷られた正式な名前を確認するところから始まる。


 その名前を間違えないことが、次の相談先を間違えないことにつながる。


 次の相談先を間違えなければ、町工場は迷子になりにくくなる。


 黒瀬精機の作業台には、東大阪商工会議所の封筒と、高井田町工場連絡会の紙が並んでいた。


 その2つの入口を、直人はしばらく黙って見つめていた。




※補足

作中で一部「商工会」としていた箇所について、東大阪市の場合は正式には「東大阪商工会議所」とする方が自然なため、今後は「東大阪商工会議所」表記で整理していきます。

また、高井田側の町工場同士の任意の集まりについては、本話以降、仮称として「高井田町工場連絡会」と呼ぶ形にします。

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