第76話 戻る道の値段
1996年8月。
河島産業へ納めた試作5組の返事は、思っていたより早く戻ってきた。
黒瀬精機の電話が鳴ったのは、昼前だった。
美智子が受話器を取る。
「黒瀬精機です」
相手の声を聞いた瞬間、美智子の背筋が少し伸びた。
河島産業の香坂だった。
「はい。……試作の確認ですね。……はい。……ええ、番号はTKD-1996-001」
美智子は机の上の封筒へ手を伸ばした。
封筒の背には、赤い鉛筆で試作5組納入済と書かれている。
隆夫が作業台から顔を上げた。
森川修一も、刃物を止める。
宮田悟はカード箱からTKD-1996-001の記録を取り出した。
直人は、受話器を持つ母の横顔を見ていた。
戻ってきた。
うまくいったのか。
それとも、どこかで外したのか。
美智子は話を聞きながら、鉛筆でメモを取った。
「水逃げ方向。押さえ高さ。片手作業時の引っかかり。……はい。現場確認が必要そうですね」
隆夫の表情が変わった。
美智子はさらに聞く。
「購買の村瀬様も同席。分かりました。では、明日午後、黒瀬精機で。現場写真と、実際の作業順を分かる範囲でお持ちください」
受話器を置くと、工場の音が少しだけ戻った。
森川が待ちきれずに聞いた。
「駄目でした?」
「駄目とは言われてない」
美智子はメモを作業台へ置いた。
「検査現場で使ったら、水の逃げる向きが実際の作業台と合わないらしい。それと、押さえが少し高くて、片手で置く時に部品が浮くことがあるって」
森川は顔をしかめた。
「こっちで試した時は浮きませんでしたよ」
隆夫はすぐに言った。
「うちの作業台とうちの手順では、や」
森川は口を閉じた。
直人は、その一言に頷いた。
試作で一番怖いのは、工場の中ではうまくいくことだ。
作った側の机。
作った側の手。
作った側の想定。
そこでは正しい。
けれど、使う場所では違う。
机の高さが違う。
利き手が違う。
水を拭く布の位置が違う。
検査担当者が忙しい時の動きが違う。
それは失敗ではない。
戻ってきた情報だ。
ただし、戻ってきた情報を無料で飲み込むと、工場は削られる。
「番号は?」
隆夫が聞く。
宮田がカードを見た。
「TKD-1996-001です。試作5組。表面処理保留。量産時再評価。香坂確認、村瀬了承」
「変更番号をつける」
美智子が言った。
宮田が鉛筆を持つ。
「TKD-1996-001-R1、でいいですか」
直人は少し考えた。
「Rは?」
「改訂、revisionのつもりです」
宮田は少し照れたように言った。
「講習で、版を分ける話が出ていたので」
隆夫は頷いた。
「分かりやすい。それでいこう」
宮田は新しいカードに書いた。
TKD-1996-001-R1。
試作使用後変更相談。
水逃げ方向。
押さえ高さ。
片手作業時の引っかかり。
現場確認待ち。
森川がその文字を見て、腕を組んだ。
「戻るって、こういうことなんですね」
「そうや」
隆夫は現物サンプルを見た。
「戻ってきた時に、前の話へ戻れる。何を決めて、何を決めてへんかったか分かる。そこが大事や」
翌日の午後、河島産業の香坂と村瀬が黒瀬精機に来た。
香坂は封筒を持っていた。
村瀬はいつもの鞄に、何枚かの資料を入れている。
最初に口を開いたのは香坂だった。
「試作品自体は、現場の反応は悪くありません。傷はつきにくい。向きも間違えにくい。ただ、実際の検査台に置くと、水の逃げる方向が合いませんでした」
隆夫は写真を受け取った。
白黒写真だった。
検査台。
左側に部品トレー。
右側に拭き取り布。
奥には別の治具。
黒瀬精機で想定した作業台とは、部品の流れが逆だった。
「なるほど」
隆夫は写真を森川へ渡した。
「うちでは奥へ逃がした方がええと思った。でも、向こうの作業台では右へ逃がした方が自然やな」
森川は写真を見て、すぐに顔をしかめた。
「これは、うちだけでは分かりませんね」
香坂は頷いた。
「こちらも、最初に現場写真を出しておくべきでした」
村瀬が資料を開いた。
「そこで、今回の修正ですが、試作の調整範囲として対応いただけますか」
工場の空気が、わずかに固くなった。
美智子が静かに顔を上げる。
「調整範囲、ですか」
「はい。試作品ですので、多少の修正は通常含まれると考えています」
村瀬の口調は丁寧だった。
だが、言っていることは軽くない。
多少の修正。
その言葉で、どれだけの町工場が無料の手直しを飲んできたか。
直人は黙って村瀬を見た。
香坂も、その空気に気づいたようだった。
美智子は、TKD-1996-001の封筒を開いた。
「今回の試作見積には、初期試作5組の製作、使用範囲カード、再問い合わせ先の記録は含めています」
村瀬が頷く。
「はい」
「ただ、現場写真をもとにした水逃げ方向の変更、押さえ高さの再検討、各工場への再連絡、再製作は、当初仕様に入っていません」
「しかし、試作というのはそういうものでは」
「試作は、戻るためのものです」
美智子は言った。
「でも、戻った後に直す作業まで全部ただ、という意味ではありません」
村瀬の表情が少し硬くなった。
森川は何か言いかけたが、隆夫が目で止めた。
ここは感情で押す場面ではない。
記録で話す場面だ。
香坂が、ゆっくり口を開いた。
「村瀬さん。今回は、こちらが現場写真と作業順を最初に出していません」
「それはそうですが」
「なら、変更対応として扱うのが筋です」
村瀬は香坂を見た。
香坂は続けた。
「試作の価値は、失敗を無料で吸収してもらうことではありません。どこが合わなかったかを戻せることです」
美智子の表情が、少しだけ和らいだ。
村瀬は黙った。
しばらくして、資料を閉じる。
「分かりました。では、修正対応分として別項目にしてください。ただし、社内で通すために、理由を明記してください」
「理由は書けます」
美智子はすぐに答えた。
「現場写真追加に伴う使用条件変更。水逃げ方向変更。押さえ高さ再検討。工程再確認。再製作2組」
村瀬はメモを取った。
「2組?」
香坂が聞く。
隆夫が答えた。
「まず2組です。5組全部を直す前に、現場に合うか確認した方がいい」
香坂は笑った。
「正しいですね」
村瀬も、今度は反論しなかった。
宮田が新しいカードを作る。
TKD-1996-001-R1。
変更理由。
河島産業検査台の作業方向確認により、水逃げ方向を変更。
片手作業時の押さえ高さを再検討。
初回は2組再試作。
量産判断前に現場確認。
森川はカードを見て、小さく息を吐いた。
「2組で済むなら、助かりますね」
「5組全部削り直してから違うと言われるよりええ」
隆夫は答えた。
香坂は作業台の上の試作品を手に取った。
「こういう戻し方ができるなら、社内でも説明しやすいです」
村瀬が言った。
「ただ、変更のたびに番号が増えると、管理が大変になります」
宮田が思わず口を開いた。
「増えた方が、後で戻れます」
皆が宮田を見た。
宮田は少し顔を赤くしたが、続けた。
「増えない方が見た目は楽です。でも、どこで何を変えたか残さないと、次に同じ話になった時、前の理由が分からなくなります」
村瀬は宮田を見た。
「あなたは?」
「宮田です。黒瀬精機で記録と測定を見ています」
「若いのに、ずいぶん慎重ですね」
宮田は困ったように笑った。
「上書きして困ったことがあるので」
直人は思わず笑いそうになった。
村瀬には意味が分からなかっただろう。
だが、香坂は少しだけ笑った。
「なるほど。上書きは困りますね」
その一言で、場の空気が軽くなった。
河島の2人が帰った後、黒瀬精機ではすぐに再検討が始まった。
水逃げ方向を右へ変える。
押さえは、部品を止めるためではなく、置く時の跳ねを抑える程度にする。
押さえすぎると、片手作業では逆に引っかかる。
南田板金へ渡す分割票には、押さえ高さの変更だけを書く。
大西樹脂へ渡す票には、水逃げ溝の向きと、受け面2本の位置だけを書く。
吉岡メッキには、表面処理は引き続き保留と伝える。
小池製作所には、今回は穴あけ位置の変更がないため連絡のみ。
田端には、再試作2組の搬送番号。
TKD-1996-001-R1-KS。
TKD-1996-001-R1-MD。
田端は荷札を見て、眉を上げた。
「番号、長なってきましたな」
「長いですか」
宮田が聞く。
「長い。でも、何の枝か分かる」
田端は荷札を指で叩いた。
「最初の試作から戻ってきた1回目の変更。これはこれで、意味がありますわ」
美智子が言った。
「長すぎるなら、後で運用を考えましょう。今は、分かること優先」
「了解です」
田端は荷札を箱に挟んだ。
「今日は、戻ってきた荷物をもう一度出す日ですな」
宮田が南田板金へ行くと、南田は写真を見てすぐに納得した。
「これは押さえの向き、変わるな」
「やっぱりですか」
「実際の台を見たら、こっちや。最初にこれがあったら早かったけど、なかったならしゃあない」
清水が横から言う。
「無料で直すんですか」
宮田は首を横に振った。
「変更対応です。現場写真追加で条件が変わったので」
南田は清水を見た。
「聞いたか」
「はい」
「こういうのを、サービスで飲んだらあかん」
清水は小さく頷いた。
「でも、言いにくいですね」
「だから紙にするんやろ」
南田は分割票を指で叩いた。
「口で言うたら角が立つ。紙に書いてあれば、仕事になる」
宮田は、その言葉を強く覚えた。
紙にするのは、相手を縛るためだけではない。
言いにくいことを、仕事として立てるためでもある。
大西樹脂でも、同じように話は進んだ。
大西は水逃げ方向の変更を見ると、少し考えた。
「右へ逃がすなら、溝の深さを少し浅くした方がいいかもしれません。水が残るより、拭き取りやすさを優先した方がよさそうです」
「深くしないんですか」
宮田が聞く。
「深い方が逃げるように見えます。でも、検査台で水が溝に残ると、かえって拭き取りにくいことがあります」
宮田はメモを取った。
深すぎる溝は不可。
拭き取りやすさ優先。
大西は笑った。
「使う場所を見ると、形が変わりますね」
「はい」
「これが試作の意味です」
黒瀬精機へ戻った宮田は、その言葉を隆夫へ伝えた。
隆夫は黙って頷き、森川へ向いた。
「溝、浅くする」
「深い方が水逃げええんちゃいます?」
「水を逃がすだけやない。拭く人がいる」
森川は一瞬止まり、それから苦笑した。
「そうでした。使う人がいましたね」
直人は、その言葉を聞きながら、作業台の端に立っていた。
使う人がいる。
その当たり前のことが、工場では簡単に抜ける。
図面を見る。
寸法を見る。
材料を見る。
納期を見る。
でも、実際に使う人の手を見ない。
そこを見た時、治具は少し変わる。
そして、その変わった理由を残した時、次の仕事も変わる。
2日後、R1の再試作2組が完成した。
水逃げ方向は右。
溝は浅め。
押さえは低く。
部品の跳ねを抑えるだけにする。
使用範囲カードも差し替えた。
旧カードには、使用禁止ではなく旧版と書いた。
初回試作条件。
R1変更後条件。
どちらも捨てない。
宮田がカードを並べて言った。
「旧版も残すんですね」
美智子は頷いた。
「残す。前の形がなぜ変わったか分からなくなるから」
「間違えて使われませんか」
「だから、旧版と大きく書く」
美智子は赤い印を押した。
旧版。
理由確認済。
宮田は、その音を聞いた。
紙に印が沈む音。
上書きしない音だった。
香坂が再試作品を確認したのは、その翌週だった。
今回は、実際の検査担当者も1人連れてきていた。
若い女性で、河島産業の作業服を着ている。
名前は新谷と言った。
新谷は、黒瀬精機の作業台に置かれた受け台を見て、少し緊張した顔をした。
「私が触ってもいいんですか」
香坂が頷く。
「実際に使う人が触らないと分からない」
隆夫も言った。
「お願いします」
新谷は現物サンプルを手に取り、受け台へ置いた。
右へ水が逃げる。
部品は跳ねない。
押さえに引っかかりすぎない。
新谷は何度か置き直した。
「前より楽です」
香坂の顔が明るくなる。
「どこが?」
「置く時に、少し迷わないです。あと、拭く布が右にあるので、水がこっちへ逃げる方が自然です」
その言葉で、黒瀬精機の作業場に静かな安堵が広がった。
森川は小さく息を吐いた。
宮田はカードに書いた。
新谷確認。
右逃げ方向、作業動線と一致。
押さえ高さ、片手作業可。
香坂はその記録を見て言った。
「作業者の名前まで残すんですね」
美智子が答えた。
「誰の確認か分からないと、後で『誰が言った』になりますから」
新谷は少し驚いた顔をした。
「私の名前、残るんですか」
「嫌なら、確認者名を部署名にします」
美智子がすぐに言った。
新谷は少し考えた。
「いえ。残してもらっていいです。私が使いやすいと言いました」
直人は、新谷の顔を見た。
使う人が、自分の言葉を残す。
それは小さなことではない。
現場の声は、よく消える。
上の資料にまとめられ、誰かの言葉に変えられ、最後には「現場要望」とだけ書かれる。
だが、ここでは違う。
新谷という検査担当者が、使いやすいと言った。
その記録が残る。
香坂は再試作品を見ながら言った。
「これで5組、本製作へ進められます」
村瀬は今回、来ていなかった。
その代わり、香坂は1枚の紙を置いた。
変更対応費承認。
TKD-1996-001-R1。
2組再試作。
現場確認済。
5組本製作へ移行。
美智子は紙を受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
香坂は言った。
「こちらこそ。無料で直してもらうより、こうして理由が残る方が社内で後が楽です」
隆夫が頷いた。
「戻る道にも値段がいる、ということですね」
「ええ」
香坂は少し笑った。
「安くはありませんが、迷子になるより安い」
その言葉に、田端が入口で吹き出した。
「ええ言葉ですな」
香坂は田端を見て、笑った。
「物流の方ですか」
「町の血流です」
「なるほど」
工場に、少しだけ笑いが起きた。
香坂と新谷が帰った後、黒瀬精機では5組本製作の準備が始まった。
森川が材料を確認する。
宮田がR1のカードを用意する。
美智子が変更対応費と本製作費を分けて記録する。
隆夫が、旧版とR1の試作品を並べた。
直人は、その2つを見比べた。
形は少ししか違わない。
水の逃げる向き。
溝の深さ。
押さえの高さ。
けれど、その少しの違いの後ろには、いくつもの判断がある。
無料で飲まなかったこと。
怒鳴り合いにしなかったこと。
使う人の手を見たこと。
旧版を捨てなかったこと。
変更に番号をつけたこと。
その全部が、次の仕事を守る。
森川がぽつりと言った。
「これ、ただの手直しやないですね」
「そうやな」
隆夫は答えた。
「戻ってきた仕事を、仕事として受け直した」
美智子が封筒を閉じる。
TKD-1996-001-R1。
変更対応完了。
5組本製作へ。
封筒は少し厚くなっていた。
番号の中身が増えた分だけ、黒瀬精機と高井田の工場は、次に同じような仕事が来た時の足場を手に入れた。
直人は、作業台に置かれた封筒を見た。
前の人生では、こういう手直しはよく消えた。
サービスで処理され、誰かの残業になり、記録にも残らず、次に同じ失敗が起きる。
今回は違う。
戻る道に、値段がついた。
それは、冷たいことではない。
続けるために必要な線だった。
夕方、田端がR1の荷札を貼った箱を荷台に積んだ。
「直坊」
「何?」
「戻る道にも値段がいる、か」
「うん」
「ええな。迷子になるより安い」
田端は香坂の言葉を気に入ったらしい。
直人は笑った。
「田端さん、それ絶対どこかで使うやろ」
「使う。荷物にも人にも言える」
田端は荷台を閉めた。
「迷子になったら、探す方が高い」
代車が路地を出ていく。
黒瀬精機の中では、森川が5組分の材料へ手を伸ばしていた。
宮田が番号カードを並べる。
美智子が帳面に記録する。
隆夫が旧版の試作品を箱へしまう。
直人は、その音を聞いていた。
日本の未来を変える仕事は、今日も大きくは見えない。
だが、無料で消えるはずだった変更が、仕事として残った。
それは町工場が削られないための、小さくて大事な勝ちだった。
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