第75話 戻れる試作
1996年7月。
河島産業から届いた封筒は、思っていたより薄かった。
黒瀬精機の作業台に置かれたそれを、美智子が慎重に開ける。
中に入っていたのは、正式な製作図面ではない。
要求仕様書。
部品の簡単な外形図。
洗浄後の小型部品を置いた時の注意点。
そして、現物サンプルが2つ。
金属の小さな部品は、指先ほどの大きさだった。
洗浄後に検査台へ運ばれ、検査担当者が片手で置く。
部品を傷つけてはいけない。
水気が少し残っていても、滑ってはいけない。
置く向きが逆になりにくいこと。
必要なら5組の試作を行うこと。
正式量産は未定。
要求仕様書の右上には、黒瀬精機側で付けた番号が書かれていた。
TKD-1996-001。
高井田共同相談番号。
隆夫はその番号を見てから、現物サンプルを指でつまんだ。
「小さいな」
森川修一が横から覗き込む。
「これを置く受け台ですか」
「そうや」
「削るだけなら難しくなさそうですけど」
直人は、すぐには頷かなかった。
削るだけなら。
その言葉は、いつも危ない。
簡単そうに見える仕事ほど、あとから条件が出てくる。
水気。
傷。
向き。
片手作業。
洗浄後。
検査担当者。
図面だけではなく、使われる場所まで見ないと外す。
宮田悟が、要求仕様書を見ながら言った。
「これ、黒瀬精機だけで全部見るんですか」
「全部は見ない」
隆夫は答えた。
「見る範囲を分ける」
美智子は、すでに白い紙を3枚並べていた。
1枚目。
高井田側共有用。
2枚目。
黒瀬精機内部用。
3枚目。
各工場へ渡す分割票。
森川が苦い顔をした。
「また分けるところからですか」
「そこを飛ばしたら、丸裸になる」
美智子は短く言った。
「それに、間違える」
隆夫は現物サンプルを作業台の上に置いた。
「黒瀬で見るのは、全体の置き方と番号管理。南田さんには金属押さえの形。大西さんには樹脂受け台。吉岡さんには表面処理や洗浄残りの相談。小池さんには簡単な穴あけや小物曲げの候補。田端さんには工程間の荷物」
宮田が紙に書いていく。
森川は、現物を見たまま言った。
「小池さんにどこまで見せます?」
隆夫は少し考えた。
「穴位置と数量の候補まで。装置全体の使われ方は出さない」
「小池さん、また食いつきませんかね」
「食いつくやろな」
直人が言うと、森川が笑った。
「直坊、言い切るな」
「でも、悪気じゃないと思う。大きい仕事の匂いがしたら、誰でも前に出たくなる」
美智子が頷いた。
「だから、前に出る線を作る」
その時、電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「黒瀬精機です」
相手は河島産業の購買担当、村瀬だった。
美智子の表情が、少しだけ固くなる。
「はい。要求仕様書は届いています。……はい。……詳細な工程別単価ですか」
隆夫が顔を上げた。
森川も手を止める。
直人は、やっぱり来たかと思った。
美智子は受話器を持ったまま、静かに答える。
「試作段階では、一式見積と工程別の概算幅まででお願いします。各工場の単価内訳、外注先、加工条件は初期資料としては出しません」
電話の向こうの声が、少し強くなったらしい。
美智子の目が細くなる。
「比較が必要なのは分かります。ただ、今回の高井田側の提案は、単価内訳を集める方式ではありません。必要な工程を分けて、責任範囲と問い合わせ先を残す方式です」
しばらく沈黙。
そして、美智子は言った。
「技術の香坂様にも確認をお願いします。はい。こちらは作業を進める前に、見積区分を明記します」
受話器を置く。
森川がすぐに聞いた。
「また内訳ですか」
「うん」
美智子は短く答えた。
「向こうの購買としては欲しいんやろね」
隆夫は現物を見たまま言った。
「欲しいものを全部渡したら、この仕組みは初日で終わる」
「分かってます」
美智子は、見積用の紙を1枚取り出した。
「今回は、試作一式価格。保管対応費。工程別概算幅。責任範囲。そこまで」
宮田が鉛筆を止めた。
「工程別概算幅、というのは」
「南田さんの金属押さえはこの幅、大西さんの樹脂受け台はこの幅、という大まかな範囲やね。細かい原価や単価内訳は出さない」
「それなら購買も通せるんですか」
「通せるかは向こう次第」
美智子は即答した。
「でも、こっちが最初に折れたら、次も出せと言われる」
隆夫は頷いた。
「まず、試作を作れるところまで持っていく」
田端は、昼前に来た。
荷台からいつもの箱を降ろしながら、作業台の上の分割票を見て口笛を吹いた。
「今度は紙が多いですな」
「田端さんにもこれ」
直人は、田端用の紙を渡した。
TKD-1996-001。
搬送対象。
黒瀬精機、南田板金、大西樹脂、吉岡メッキ、小池製作所。
荷物ごとに、外側へ書いてよい情報。
書いてはいけない情報。
田端は紙を読んだ。
「中身の詳細は書かず、TKD番号と工程名まで」
「はい」
「でも、間違えたら困るから、工程名は要る」
「要ります」
「ほな、黒瀬発の全体箱はTKD-1996-001-KS。南田さんの金属押さえはTKD-1996-001-MD。大西さんはON。吉岡さんはYO。小池さんはKIでええか」
直人は頷いた。
「小池さんはKIですね」
「KOやと、どこかで被りそうやしな」
田端は荷札の端に試し書きした。
TKD-1996-001-MD。
高井田共同相談番号。
南田板金向け。
金属押さえ候補。
中身の詳細は、紙の内側。
「これは、また手間料もらわなあきませんな」
田端が言うと、美智子が即答した。
「もらってください」
「最近、奥さんに言われる前に言えるようになりましたわ」
「いいことです」
田端は笑い、すぐに表情を戻した。
「ほな、回ってきます。直坊、乗るか?」
直人は行きたいと思った。
だが、今回は首を横に振った。
「今日は宮田くんが行った方がええと思う」
宮田が驚く。
「僕ですか」
「分割票を見て、各工場が何に引っかかるか見た方がいい。パソコンに入れる前に、紙のどこが使いにくいか見てきて」
宮田は少し緊張した顔になった。
隆夫が頷く。
「行ってこい」
「はい」
田端は宮田を見て、にやりと笑った。
「先生、今日は外回りですな」
「やめてください」
最初は南田板金だった。
南田は分割票を読み、すぐに現物の一部を見た。
「押さえだけなら、薄板を曲げて逃がす形やな。ただ、樹脂に当たる部分の寸法が要る」
宮田はメモを取る。
「樹脂側との当たり寸法要確認」
「それと、端を尖らせたらあかん。検査の人が片手で置くなら、手に当たるところは丸める」
清水が横から覗いた。
「これ、全体図はないんですか」
宮田は分割票を見せた。
「南田さんには、金属押さえに必要な範囲だけです」
清水は少し不満そうだった。
「全体が見えた方が作りやすくないですか」
南田が言った。
「見えた方が楽な時もある。でも、見えんでも答えられるようにするのが今回の仕事や」
宮田は、その言葉をメモした。
見えない範囲でも答えられる条件を書く。
次は大西樹脂。
大西は現物サンプルを見て、樹脂板を何枚か出した。
「傷をつけないなら、硬すぎる材は避けたいです。でも、柔らかすぎると水気で貼りつくかもしれません」
「貼りつく?」
宮田が聞く。
「洗浄後の部品は、薄い水膜でぺたりとくっつくことがあります。検査担当が片手で置いて片手で取るなら、底面全体で受けない方がいいかもしれません」
宮田は急いで書いた。
全面受け不可の可能性。
点または線で受ける検討。
排水逃げ要確認。
大西は微笑した。
「大げさに聞こえるでしょう」
「いえ。黒瀬で見ていたら、気づかなかったかもしれません」
「だから分ける意味があるんです」
その言葉は、宮田の中に残った。
分けるとは、隠すことだけではない。
それぞれが見るべき場所を見ることでもある。
吉岡メッキでは、さらに話が変わった。
吉岡は現物サンプルを見て、すぐに首を横へ振った。
「表面処理は、今はせん方がええかもしれん」
田端が驚く。
「仕事、断るんですか」
「断るんやない。処理しない方が部品にええかもしれんと言うてる」
吉岡は、現物サンプルを光にかざした。
「洗浄後に水気が残るなら、受け台側で水を逃がす形を考えた方が先や。メッキで解決しようとすると、かえって滑りや傷の原因になるかもしれん」
宮田は、はっとした。
吉岡は、仕事を取りにいっていない。
必要ならやる。
不要ならしない。
それを言えることが、技術なのだ。
「返事はどう書きますか」
宮田が聞くと、吉岡は短く言った。
「表面処理は現時点では保留。先に樹脂受け台と排水形状を確認。処理が必要な場合のみ再相談」
田端が頷いた。
「これは強い返事ですな」
「強いんやなくて、余計なことをせんだけや」
吉岡はぶっきらぼうに答えた。
最後は小池製作所だった。
小池は、宮田から分割票を受け取ると、じっと見た。
「うち、ほんまにこの範囲だけでええんか」
「はい。今回は簡易穴あけと小物曲げの候補です」
「全体が見えんと、何作ってる気がせんな」
小池は不満そうだった。
しかし、以前のように勝手に単価や設備の話を出そうとはしなかった。
「穴あけはできます。ただ、材質と板厚が決まってから。数量5なら手でいける。量産になったら別の段取りが要ります」
宮田は書いた。
試作5組は対応可。量産時は段取り再検討。
小池がその文字を見て、ふっと笑った。
「量産時は再検討、か。えらい慎重やな」
「でも、小池さんが今言いました」
「言うたけど、書かれると逃げられへんな」
「逃げるためじゃなくて、戻るためです」
小池はしばらく宮田を見た。
「宮田くんも、黒瀬さんとこに染まってきたな」
「そうかもしれません」
宮田は少しだけ笑った。
夕方、宮田と田端が黒瀬精機へ戻った。
宮田のメモは、細かい字で埋まっていた。
森川が覗き込み、目を丸くする。
「よう書いたな」
「全部は使いません。でも、何を渡すか決めるために必要だと思って」
美智子が受け取り、読みながら頷いた。
「いい」
宮田はほっとした。
「本当ですか」
「うん。出す情報と、黒瀬側で持つ情報が分かれてる」
隆夫は、要求仕様書と宮田のメモを並べた。
「形が見えてきたな」
森川が腕を組む。
「結局、黒瀬でどう作るんです?」
隆夫は現物サンプルを置いた。
「大西さんの言う通り、樹脂は全面で受けない。部品の当たりは2本の線で支える。水が逃げる溝を入れる。南田さんの押さえは、片手で置いた時に部品が跳ねない程度。吉岡さんの処理は今は保留。小池さんの穴あけは試作範囲だけ」
「黒瀬は?」
「全体の形と、戻れる番号」
隆夫は、作業台に置いた紙を指した。
「それと、使い方のカードや」
美智子がすぐに書いた。
TKD-1996-001 使用範囲カード。
洗浄後小型部品用。
片手作業想定。
対応試作5組。
表面処理は初期試作では保留。
水逃げ形状確認。
量産時は再評価。
森川はそのカードを見て、少しだけ笑った。
「まだ作ってへんのに、使い方が先に決まってる」
「今回はそれでええ」
隆夫は言った。
「使い方が見えんまま作る方が危ない」
翌日から、試作が始まった。
黒瀬精機では、まず樹脂受け台の簡単な形を作るための確認具を削った。
森川が荒取りし、隆夫が当たり面を見た。
宮田は、測定と番号カードの記入を担当する。
直人は作業台の端で、現物サンプルを置いては取り、置いては取りを繰り返した。
片手で置けるか。
逆向きになりにくいか。
水が逃げるか。
部品の角が当たらないか。
単純な作業に見える。
だが、そこに使う人の動きがある。
「おとん」
「何や」
「これ、奥側にほんの少し傾けた方がええかもしれん」
「何でや」
「手前に水が戻ると、検査の人が手を濡らす。奥へ逃がした方が拭きやすい」
森川が実際に部品を置いた。
「確かに、手前に水が来ると嫌やな」
隆夫はうなずき、形を少し変えた。
大西樹脂へ渡す形状案にも、その情報だけを書いた。
水逃げ方向。
当たり面2本。
全面受け不可。
部品名や河島産業の詳細は書かない。
必要な情報だけを渡す。
それを何度も繰り返した。
3日後、最初の試作品が形になった。
樹脂の受け台。
小さな金属押さえ。
水が逃げる溝。
荷札番号。
使用範囲カード。
そして、問い合わせ先。
TKD-1996-001-KS。
その番号が、箱の内側に入っている。
田端は納品箱を見て言った。
「外へ出る番号にしては、小さい箱ですな」
直人は答えた。
「最初はこれくらいでええと思う」
「ほんまにこれが大きくなるんか?」
「分からん」
「またそれや」
田端は笑った。
「でも、今日の箱は軽いのに重いわ」
河島産業の香坂が黒瀬精機へ来たのは、その翌日だった。
今回は村瀬も一緒だった。
試作品を作業台に置き、香坂が現物サンプルを受け台に置く。
片手で置く。
少し水をつけたサンプルを置く。
逆向きに置こうとして、自然に引っかかる。
持ち上げる。
香坂の表情が変わった。
「なるほど」
村瀬も覗き込む。
「これ、表面処理はしていないんですか」
隆夫が答えた。
「初期試作では保留にしました。吉岡メッキさんの判断で、先に樹脂形状と水逃げを見るべきだと」
香坂は頷いた。
「正しいと思います。処理で解決しようとすると、こちらの洗浄条件によっては逆効果になる」
村瀬は少し意外そうにした。
「処理をしない判断も、工程に入るんですね」
美智子が答えた。
「入ります。やらない方がいいと判断する時間も、仕事です」
村瀬は何も言わなかった。
だが、前ほど不満そうではなかった。
香坂は使用範囲カードを手に取った。
「量産時は再評価、とありますね」
「はい」
隆夫が答える。
「試作5組で確認した形を、そのまま量産に流すとは限りません。数量が増えれば材料、穴あけ、搬送、検査の流れが変わります」
香坂は笑った。
「そこまで書いてあるなら、社内で説明しやすい」
村瀬が見積書を見た。
試作一式価格。
保管対応費。
工程別概算幅。
再製作時問い合わせ先。
単価内訳はない。
村瀬はしばらく黙っていた。
「購買としては、細かい比較ができないのは困ります」
空気が少し緊張する。
村瀬は続けた。
「ただ、今回の試作については、責任範囲と再問い合わせ先がある分、管理しやすい。社内で通す理由にはなります」
美智子は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
香坂は試作品をもう一度見た。
「5組、進めてください」
隆夫が頭を下げる。
「承知しました」
香坂は続けた。
「それと、このTKD番号の運用も、試作結果と一緒に確認したい。部品そのものだけでなく、変更が出た時にどう戻るかも見たいです」
直人は、その言葉を聞いて胸の奥が熱くなるのを感じた。
変化が起きた。
ただの加工依頼ではない。
河島産業は、治具だけではなく、戻る仕組みを見ようとしている。
まだ小さい。
試作5組。
それだけだ。
けれど、外へ出た番号は、確かに相手に届いた。
香坂たちが帰った後、黒瀬精機では誰もすぐには声を出さなかった。
森川が、最初にぽつりと言った。
「通りましたね」
「まだ試作5組や」
隆夫は言った。
だが、その声にはわずかな笑みが混じっていた。
美智子は封筒に新しい紙を入れた。
TKD-1996-001。
試作承認。
5組製作。
表面処理保留。
量産時再評価。
香坂確認。
村瀬了承。
その文字を見て、宮田が言った。
「番号の中身が増えていきますね」
「そうやね」
美智子は封筒を閉じた。
「だから、番号は重い」
直人は、作業台に置かれた試作品を見た。
小さな受け台。
金属と樹脂の組み合わせ。
どこにでもありそうな検査補助具。
だが、その後ろには、南田、大西、吉岡、小池、田端、黒瀬精機の判断がつながっている。
全部は見せない。
でも、必要なところへ必要な情報は渡す。
やらない判断も残す。
戻れる番号を付ける。
それが、初めて外の会社に認められた。
田端が帰り際に言った。
「直坊、これ、町の外へ出たな」
「うん」
「まだ小さいけどな」
「小さい方がええと思う」
「何でや」
「小さいうちに、失敗できるから」
田端は一瞬黙り、それから笑った。
「ほんま、直坊らしいこと言うな」
直人は返事をしなかった。
前の人生で、大きくなってから壊れた仕組みをいくつも見た。
だから今は、小さいうちに失敗し、小さいうちに直す。
それが未来を変える一番確かな道かもしれない。
夕方、黒瀬精機の作業台には、5組分の材料が並んだ。
森川が刃物を確認する。
宮田が番号カードを用意する。
美智子が見積と記録を揃える。
隆夫が現物サンプルをもう一度受け台に置く。
直人は、その一つ一つを見ていた。
日本の未来を変えるような仕事には見えない。
ただの小さな受け台だ。
けれど、その受け台は、町工場が自分たちの情報を守りながら外の仕事を受けた最初の形だった。
ものづくりは、金属を削るところから始まるとは限らない。
何を渡さないかを決めるところから始まることもある。
黒瀬精機と高井田の工場たちは、その日、ようやく外へ向けて1つ目の形を作り始めた。
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