第72話 町をひとつの台帳にするな
1996年5月。
高井田の町は、少しずつ震災後のざらつきを別の形へ変えていた。
戻らない便は、戻らないまま新しい流れを作り始めている。
田端のまとめ便は、最初の頃より荷物が増えた。
黒瀬精機の荷札だけではなく、南田板金、大西樹脂、吉岡メッキ、小池製作所の荷札にも、工場印と行き先が入るようになった。
村井健太は、土曜の午前だけ黒瀬精機へ顔を出している。
まだ機械は触らない。
だが、切粉を手で拾わないこと、荷札を最後まで読むこと、測定器棚へ勝手に手を出さないことは覚えた。
宮田悟は、商工会のパソコン講習を続けていた。
覚えてくることは派手ではない。
保存。
別名保存。
入力欄。
印刷。
それでも黒瀬精機では、その一つ一つが仕事の流れに戻されていく。
黒瀬精機は、以前より少し忙しくなっていた。
ただし、機械の回る時間が増えただけではない。
問い合わせが増えた。
番号で聞かれる仕事が増えた。
保管対応付きにしてほしいという治具が増えた。
そして、少し面倒な客も増えた。
その日、黒瀬精機に来たのは、部品を持った取引先ではなかった。
高井田信用金庫の支店長代理、白井だった。
黒い鞄を持ち、少し汗をかきながら工場へ入ってきた。
隣には、東大阪の商工会から来た中年の職員、藤野がいる。
2人とも、作業着ではない。
それだけで工場の空気が少し変わった。
「黒瀬さん、お忙しいところすみません」
白井が頭を下げる。
隆夫は手を拭き、作業台の前へ出た。
「今日はどういう話ですか」
白井は鞄から資料を出した。
美智子の目が、その紙の束へすぐ向いた。
田端がちょうど荷物を降ろしに来ていて、入口で足を止める。
「何や、今日は堅い話ですか」
「田端さんにも関係あるかもしれません」
白井が言った。
「ほな、逃げられませんな」
田端は苦笑しながら、荷台の扉を閉めた。
白井が資料を広げる。
そこには、いくつもの町工場の名前が並んでいた。
黒瀬精機。
南田板金。
大西樹脂。
吉岡メッキ。
小池製作所。
ほかにも、見覚えのある名前がある。
藤野が口を開いた。
「黒瀬さんの番号管理や荷札の仕組みを、他の工場でも使えないかという話が出ています」
森川修一が、作業台の向こうで小さく眉を寄せた。
宮田も手を止める。
隆夫はすぐには答えなかった。
「使う、というのは」
白井が紙を指した。
「高井田の小さな工場を、1つの台帳でつなげないかと考えています」
「1つの台帳」
美智子の声が低くなった。
「はい。どの工場が何をできるか。どの仕事がどこに流れているか。どの荷物がどこへ行くか。そういう情報を整理できれば、仕事の紹介もしやすい。金融機関としても、設備投資の相談に乗りやすくなります」
藤野も続けた。
「商工会としても、町工場同士の連携を進めたいんです。1社では受けられない仕事でも、町全体で受けられるかもしれない」
言葉だけ聞けば、良い話だった。
町工場同士がつながる。
仕事を紹介し合う。
小口物流が整う。
設備投資の相談もできる。
だが、直人は胸の奥で嫌なものを感じていた。
1つの台帳。
それは便利だ。
便利すぎる。
町の工場が何を作れるか。
どの取引先とつながっているか。
どんな治具を持っているか。
どの工程を外へ出しているか。
その情報が1つの場所に集まれば、町は強くなるかもしれない。
同時に、町は丸裸になる。
前の人生で見た。
便利な管理表。
協力会社一覧。
工程能力表。
単価比較表。
最初は連携のためだった。
いつの間にか、値下げのための表になる。
どこが安いか。
どこが代替できるか。
どこを飛ばして直接発注できるか。
表ができた瞬間、町工場の勘所は数字へ変えられた。
数字へ変えられたものは、値切られる。
「直人」
隆夫が静かに呼んだ。
直人は、父がこちらを見ていることに気づいた。
「どう思う」
白井と藤野が、少し驚いた顔をした。
まだ若い直人に意見を求めると思っていなかったのだろう。
直人は、作業台の上の資料を見た。
「全部を1つにするのは危ないと思います」
工場の空気が少し止まった。
白井が聞き返す。
「危ない、ですか」
「はい」
直人は言葉を選んだ。
「町工場同士でつながるのは大事です。でも、どの工場が何をできるか、どの取引先とつながっているか、どの工程をどこへ出しているかを、全部1つの台帳にしたら、便利すぎます」
藤野が少し困った顔をした。
「便利なのは、悪いことではないと思いますが」
「悪くないです。でも、便利な台帳は、見る人によって使い方が変わります」
美智子が黙って頷いた。
隆夫は何も言わない。
直人は続けた。
「町工場のための台帳ならいい。でも、発注側が見たら、どこを直接叩けばいいか分かる台帳になります。銀行が見たら、どこに借入がありそうか分かる台帳になります。大きな会社が見たら、町の仕事の流れを抜き取れる台帳になります」
白井の顔が少し硬くなった。
「信用金庫がそうするという意味ですか」
「そう言ってるんやないです」
直人はすぐに首を横へ振った。
「でも、今の人が善意でも、台帳は残ります。あとから違う人が見るかもしれません。目的が変わるかもしれません」
田端が腕を組んだ。
「それ、荷物と一緒やな」
藤野が見る。
「荷物?」
田端は荷札を1枚取り出した。
「荷札も、書けば便利です。でも何でも書いたらあかん。中身を細かく書きすぎたら、途中で見た人に何を運んでるか丸見えになる。かと言って、書かなさすぎたら届かん」
白井は、その荷札をじっと見た。
KS。
行き先。
部署。
注意。
だが、詳細な図面や単価は書いていない。
田端は言った。
「黒瀬さんとこの荷札は、戻るための情報はある。でも、丸裸にはしてへん」
隆夫が、ようやく口を開いた。
「台帳も同じにせなあかん、ということか」
直人は頷いた。
「うん。共有する情報と、各工場が守る情報を分ける」
美智子が紙を引き寄せた。
「例えば?」
直人は作業台の端に、鉛筆で線を引いた。
左に、共有してよい情報。
右に、共有してはいけない情報。
「共有していいのは、工場名、連絡先、対応できる大まかな工程、荷物の受け渡し方法、問い合わせ番号くらい」
森川が聞く。
「大まかな工程って?」
「旋盤できます、板金できます、メッキできます、樹脂できます、くらい。細かい加工条件や、どの取引先のどの部品を作ってるかは入れない」
「図面は?」
「入れない」
「単価は?」
「入れない」
美智子が続けた。
「仕入先は?」
「入れない」
田端が言った。
「運ぶ順番は?」
「共有するのは、荷物番号と行き先まで。どこの工場同士がどんな細かい条件でつながってるかは、田端さんと当事者だけが持つ方がいいと思う」
白井は、じっと聞いていた。
藤野も、腕を組んだまま黙っている。
直人は少し息を整えた。
「1つの台帳にするんやなくて、共通の入り口だけ作るんです」
「共通の入り口」
藤野が繰り返す。
「はい。町全体の秘密を集めるんやなくて、必要な時に必要な工場へたどり着ける入口です」
宮田が小さく言った。
「図書館の検索みたいですね」
皆が宮田を見る。
宮田は少し慌てた。
「すみません。講習で、データベースの例に図書館の蔵書検索が出たので」
直人は頷いた。
「近いと思う。本を探す画面には、本の場所は出る。でも、全部の本を画面の中に入れてるわけじゃない。棚に正しく戻す人がいるから、検索が使える」
白井が感心したように宮田を見た。
「なるほど」
宮田は赤くなった。
森川が小声で言う。
「宮田、また賢そうなこと言うたな」
「やめてください」
工場に少しだけ笑いが起きたが、白井と藤野の表情は真剣なままだった。
白井は言った。
「では、黒瀬さんとしては、町全体の台帳化には反対ですか」
隆夫は直人を一度見た。
それから、白井へ向き直る。
「全部を1つにするなら反対です」
藤野が眉を上げる。
隆夫は続けた。
「ただ、入口を作る話なら、考える価値はあります」
美智子が資料の上に鉛筆を置いた。
「黒瀬精機が協力するなら、条件があります」
「条件ですか」
「はい。図面、単価、取引先別の仕事量、加工の勘所は入れない。各工場が守る情報を勝手に出さない。共有する項目は先に決める。使う目的も決める。目的が変わる時は、もう一度同意を取る」
白井は、銀行員らしくすぐにメモを取った。
「同意、ですか」
「勝手に広げたらあかんということです」
美智子の声は静かだった。
「町工場は、情報を出すのが下手です。出さんでええものまで出してしまうことがある。逆に、出した方がええものを出さずに揉めることもある」
藤野が頷いた。
「そこを整理する仕組みがいるわけですね」
「そうです」
直人は言った。
「でも、それは発注側が町工場を管理する仕組みではなくて、町工場側が自分たちを守る仕組みでないと駄目です」
白井は、しばらく黙った。
工場の外では、田端の代車のエンジンが小さく鳴っている。
路地の向こうから、別の工場の機械音が聞こえる。
この町には、数えきれないほどの小さな仕事がある。
だが、その流れは見えにくい。
見えるようにすれば強くなる。
見せすぎれば奪われる。
白井は、ゆっくり資料を閉じた。
「正直に言うと、私は簡単に考えていました」
隆夫は黙って聞いた。
「黒瀬さんの番号管理を、他の工場にも広げればいい。台帳にすれば仕事を紹介しやすい。そう考えていました」
「普通はそう考えると思います」
隆夫が言った。
白井は苦笑した。
「ですが、丸裸になるというのは、確かにそうです」
藤野も頷いた。
「商工会で預かる情報の範囲も、慎重に考えないといけませんね」
田端がぼそりと言った。
「慎重に考えんと、町の宝の地図になりますわ」
美智子が田端を見る。
「宝の地図?」
「ええ。どこに何があって、どこを掘ればええか分かる地図です。悪い人が見たら、そら掘りますやろ」
藤野は、その言葉に深く頷いた。
「分かりやすいですね」
「分かりやすいけど、洒落になりません」
田端は苦く笑った。
その日の話し合いは、すぐ結論にはならなかった。
ただ、白井と藤野は、最初に持ってきた資料をそのまま持ち帰らなかった。
美智子が、共有項目の候補だけを書き出した紙を渡した。
そこには、余計な情報は入っていない。
工場名。
工程の大分類。
問い合わせ番号。
荷物受け渡し方法。
緊急連絡先。
共有不可項目。
共有不可項目の欄には、はっきり書かれていた。
図面。
単価内訳。
加工条件。
仕入先。
取引先別の仕事量。
技術上の勘所。
白井はそれを見て、少し笑った。
「共有しない項目が、こんなにはっきり書かれている資料は珍しいですね」
美智子は言った。
「書いておかないと、便利だから入れましょうと言われます」
「確かに」
藤野が封筒に紙を入れた。
「一度、商工会で検討します。黒瀬さんにも、また相談させてください」
隆夫は頭を下げた。
「こちらこそ」
2人が帰った後、工場にはしばらく静けさが残った。
森川が最初に口を開く。
「社長」
「何や」
「これ、大きい話になりますかね」
「なるかもしれん」
「面倒ですね」
「面倒や」
隆夫は否定しなかった。
宮田が小さく言った。
「でも、もし町全体で使うなら、最初に決めておかないといけないですよね」
直人は頷いた。
「最初に決めないと、後から直す方が難しい」
田端が荷台の方へ戻りかけ、ふと足を止めた。
「直坊」
「何?」
「町を1つの台帳にしたらあかん、いうのは分かった。でも、入口は要るんやな」
「うん」
「ほな、入口の看板みたいなもんを作るんか」
直人は少し考えた。
「看板というより、呼び鈴かな」
「呼び鈴?」
「中を全部見せるんやなくて、必要な時に呼べる仕組み」
田端はにやりと笑った。
「ええやん。町工場の呼び鈴」
美智子がすぐに言った。
「名前にするには軽すぎる」
「奥さん、夢がないなあ」
「夢だけで名前つけたら後で困ります」
いつもの調子に戻りかけた工場の中で、隆夫だけはまだ真剣な顔をしていた。
「黒瀬式」
ぽつりと呟いた。
皆が隆夫を見る。
「何です?」
森川が聞く。
隆夫は、少し照れたように首を振った。
「いや、今の話を、何と呼ぶんやろうと思っただけや」
直人は、作業台の上に残った紙を見た。
黒瀬式。
その言葉は、まだ大げさに聞こえる。
だが、今日の話は確かに、黒瀬精機の中だけでは終わらなくなった。
番号。
荷札。
保管対応。
見習いの入口。
図面を渡さない境目。
それらが、町の外へ少しずつ顔を出し始めている。
このまま広げれば、危ない。
何も広げなければ、消える。
だから、広げ方を決めなければならない。
夕方、田端の代車が黒瀬精機を出る時、荷台にはいつもの箱が積まれていた。
だが田端は、荷札を1枚ずつ見ながら、少し違う顔をしていた。
この小さな札が、町全体の入口になるかもしれない。
そう考えると、ただの紙には見えなかった。
直人は、工場の入口から代車を見送った。
前の人生で、日本の町工場は何度も丸裸にされた。
図面を出し、原価を出し、勘所を出し、最後に値段だけ削られた。
同じ道には進ませない。
共有する。
でも、渡しすぎない。
つながる。
でも、飲み込まれない。
その細い線の上に、黒瀬精機は立ち始めていた。
その日、黒瀬精機は大きな注文を取ったわけではない。
新しい機械を買ったわけでもない。
だが、町工場が自分たちの情報をどう守り、どうつながるかという問いが、初めて外から持ち込まれた。
黒瀬精機の仕事は、もう治具だけでは済まなくなり始めていた。
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