第73話 入口だけを渡す
1996年6月。
東大阪の商工会議室は、工場より静かだった。
静かすぎて、椅子の脚が床をこする音まで大きく聞こえる。
机の上には、町工場の名前が並んだ薄い資料が置かれていた。
黒瀬精機。
南田板金。
大西樹脂。
吉岡メッキ。
小池製作所。
田端商会。
ほかに数社。
だが、その資料には図面も単価も載っていない。
加工条件も、取引先別の仕事量も載っていない。
載っているのは、工程の大まかな分類、問い合わせ窓口、荷物の受け渡し方法、緊急連絡先。
それだけだった。
商工会の藤野は、資料を見ながら苦い顔をした。
「黒瀬さん、これで仕事の紹介までできますか」
隆夫は、すぐには答えなかった。
横には美智子。
少し離れて直人。
そして、なぜか田端もいた。
本人は「荷物の話になるなら逃げられん」と言っていた。
南田板金の南田、大西樹脂の大西、吉岡メッキの吉岡も来ている。
小池製作所の小池は、椅子に浅く座り、腕を組んでいた。
「紹介はできると思います」
隆夫は言った。
「ただし、これだけで発注はできません」
藤野が眉を寄せる。
「そこが難しいんです。発注側からすれば、もう少し詳しい情報が欲しいと言われます」
「欲しいでしょうね」
美智子が静かに返した。
「でも、欲しいものを全部出したら、町工場側が危ない」
高井田信用金庫の白井も同席していた。
前より少し慎重な顔をしている。
「こちらとしても、黒瀬さんたちの言うことは分かります。ただ、今回相談が来ている相手は、かなり大きな会社です」
「どこですか」
南田が聞く。
白井は資料をめくった。
「河島産業です。医療機器そのものではなく、周辺装置や検査設備の部品を扱っている会社です」
部屋の空気が変わった。
医療機器。
検査設備。
黒瀬精機や倉田精密が、少しずつ近づいている領域だった。
大西が腕を組む。
「樹脂も絡みますね」
吉岡が言う。
「洗浄や表面処理の条件も出そうやな」
小池は目を細めた。
「大きい会社なら、仕事も大きいんちゃいますか」
その声には期待が混じっていた。
無理もない。
小さな工場にとって、大きな会社からの仕事は魅力だ。
設備も買える。
人も増やせるかもしれない。
支払いがしっかりしていれば、町工場にとって大きな支えになる。
だが、直人の胸には別の重さがあった。
大きな会社ほど、最初はきれいな顔で来る。
協力会社を探している。
地域の技術を活かしたい。
品質を高めたい。
そう言いながら、気づけば資料を求める。
工程表。
単価。
図面。
設備一覧。
人員構成。
外注先。
最後には、その情報を持って別の安いところへ回る。
もちろん、すべての大企業がそうではない。
だが、仕組みがそうさせる。
発注側の担当が変われば、前の約束は簡単に薄くなる。
藤野が言った。
「河島産業としては、まず高井田で対応できる工程を把握したいそうです。場合によっては、複数の工場で分担できないかと」
「具体的な部品は?」
隆夫が聞く。
「まだ正式図面は出ていません。相談段階です。ただ、向こうは協力候補の一覧が欲しいと言っています」
美智子が即座に聞いた。
「一覧の内容は?」
白井が紙を見た。
「工場名、設備、対応可能寸法、主要取引先、月間対応可能数量、概算単価、外注先」
南田が眉をしかめた。
大西は小さく息を吐いた。
吉岡は黙った。
小池だけが、少し身を乗り出した。
「それくらい出さんと、仕事取れへんのとちゃいますか」
田端が横目で小池を見る。
「小池さん、外注先まで出したら、自分とこの仕事の流れ見せることになりますよ」
「せやけど、隠して仕事逃したら何にもならんやろ」
小池の言葉は乱暴だったが、完全には間違っていない。
出さなければ仕事は来ない。
出しすぎれば奪われる。
その間で、町工場はいつも迷う。
直人は机の上の資料を見た。
入口だけを渡す。
その考えが、いきなり試されている。
「河島産業さんには、まず代表窓口だけ渡す形にできませんか」
直人が言うと、藤野が顔を上げた。
「代表窓口?」
「はい。工場の中身を全部見せる一覧ではなく、まず商工会か信用金庫、もしくは窓口工場を通して問い合わせてもらう形です」
白井が考え込む。
「会社でいう代表番号のようなものですか」
「そうです」
直人は頷いた。
「代表番号だけ外に出す。そこから先は、用件に応じて必要なところへつなぐ。内線番号や直接の机の番号を全部外へ出さないのと同じです」
美智子が静かに続けた。
「町工場も同じです。外へ出すのは入口まで。そこから先は、用件を聞いて、出していい情報だけ出す」
藤野はメモを取った。
「なるほど。高井田側の代表窓口を作る」
「ただし」
隆夫が言った。
「その窓口が、勝手に中の情報を出したら意味がありません」
田端が苦笑する。
「代表番号が勝手に金庫の暗証番号まで教えたら終わりですわ」
小池が少し笑いそうになったが、笑えなかった。
たとえ話は軽いが、意味は重い。
白井は資料を閉じた。
「では、河島産業には、まず工程大分類と代表窓口だけを渡す」
「それなら考えられます」
隆夫は答えた。
小池が不満そうに言った。
「それで相手が逃げたら?」
部屋が少し静かになった。
小池は続ける。
「向こうは急いでるかもしれん。よそなら、もっと詳しい一覧をすぐ出すかもしれん。こっちが守ってる間に、仕事が逃げるかもしれんやろ」
南田が苦い顔で頷く。
「それはある」
大西も言った。
「仕事が欲しい時ほど、出しすぎてしまうんですよね」
吉岡は低い声で言った。
「薬品の条件まで簡単に出せと言われたら、うちは断る」
「うちは断れても、小さいところは断りにくい」
南田が返す。
その言葉で、また部屋が重くなった。
直人は、小池を見た。
小池の焦りは本物だ。
小さい工場ほど、目の前の仕事を逃したくない。
守れと言われても、守るものより先に明日の売上が要る。
そこを無視して「情報を守れ」と言っても、ただのきれいごとになる。
「小池さん」
「何や、直坊」
「出す情報を絞る代わりに、返事を速くした方がいいと思います」
「返事?」
「はい。代表窓口で止めるだけやと、向こうは遅いと思う。でも、入口から返事までを速くする。例えば、問い合わせが来たら、その日のうちに対応できる工程候補だけ返す」
白井が反応した。
「詳細ではなく、候補だけ?」
「はい。旋盤、板金、樹脂、メッキ、物流。どの工程が必要かを聞いて、候補を出す。具体図面が来たら、各工場が出していい範囲で判断する。単価や勘所はその後」
美智子が言った。
「最初に渡すのは、名簿やなくて返事の速さやね」
「うん」
直人は頷いた。
「相手が欲しいのは、全部の情報ではなくて、対応できるかどうかを早く知ることかもしれない。そこを間違えると、何でも出してしまう」
田端が顎に手を当てる。
「荷物と一緒やな。中身を全部見せんでも、届くかどうかは答えられる」
小池は黙った。
納得したわけではない。
しかし、ただ隠す話ではないと分かり始めた顔だった。
藤野が言った。
「では、試しに河島産業へは、高井田側の代表窓口と工程候補の返信方式を提案しましょう」
「窓口は誰が持つんですか」
南田が聞いた。
全員の視線が、自然と黒瀬精機側へ向いた。
隆夫は眉を寄せた。
「うちだけで持つのは無理です」
美智子も頷く。
「黒瀬精機が全部の窓口になったら、それはそれで危ないです。仕事も情報も、うちに寄りすぎます」
直人は、その言葉にほっとした。
母は分かっている。
黒瀬精機が中心になりすぎると、町を守る仕組みが、黒瀬精機の囲い込みに見える。
それでは続かない。
「窓口は3つに分けた方がいいと思います」
直人は言った。
「3つ?」
藤野が聞く。
「商工会が外からの受付。信用金庫が設備や資金の相談。実際の工程確認は町工場側の当番」
田端が顔をしかめた。
「当番制か」
「全部黒瀬に来るよりましです」
南田が小さく笑った。
「直坊、うまいこと面倒を分けたな」
「面倒を分けないと続かないです」
大西が頷いた。
「それは正しいですね」
吉岡が言った。
「ただ、薬品や洗浄が絡む話は、当番が勝手に答えないようにしてほしい」
「それもルールに入れましょう」
宮田が横から言った。
皆が見る。
宮田は慌てて、手元のメモを見た。
「えっと、工程ごとに、答えていい人を決めるんです。例えば、表面処理や薬品は吉岡さん確認。樹脂は大西さん確認。荷物は田端さん確認。黒瀬が全部答えない」
森川がいない場だったら、以前の宮田はもっと小さくなっていたかもしれない。
だが今は、言い切った。
隆夫が頷く。
「それでええ」
白井は、メモを見ながら言った。
「つまり、共通の入口、工程別の確認者、出さない情報の線引き。この3つですね」
美智子がすぐに訂正した。
「もう1つ。記録です」
「記録?」
「どの問い合わせに、誰が、何を答えたか。そこを残さないと、後で話が変わります」
田端が苦笑する。
「奥さん、やっぱり最後はそこへ行きますな」
「記録がなかったら、守れません」
小池がぼそりと言った。
「また面倒が増える」
美智子は小池を見た。
「面倒は増えます。でも、奪われるよりはましです」
その一言で、小池は黙った。
会議は夕方まで続いた。
大きな結論は出なかった。
だが、河島産業へ返す最初の文面だけは決まった。
高井田地域の町工場群として、工程大分類での相談受付は可能。
詳細な図面、単価、加工条件、仕入先、取引先別の実績は、初期資料としては提出しない。
具体案件ごとに、必要な範囲で各工場が確認する。
窓口は商工会。
資金・設備相談は信用金庫。
工程確認は町工場側の当番制。
資料を読んだ藤野が、苦笑した。
「ずいぶん慎重な返事ですね」
隆夫は言った。
「慎重でも、返事は今日中に出せます」
白井が顔を上げた。
「それは強いですね」
直人は、その言葉を聞いて少しだけ息を吐いた。
そうだ。
守るだけでは遅い。
遅ければ仕事は逃げる。
だから、守りながら速く返す。
それが町工場側の武器になる。
黒瀬精機に戻ったのは、日が傾いた頃だった。
工場では森川が作業を続けていた。
村井も土曜ではないが、学校帰りに少しだけ顔を出し、荷札の整理を手伝わずに見ていた。
美智子が工場へ入るなり言った。
「疲れた」
森川が珍しそうに見る。
「奥さんがそれ言うの、初めて聞いた気がします」
「疲れるわ。守る情報を決めるのは、作るより気を使う」
隆夫が作業台に資料を置いた。
「ただ、逃げんで済んだ」
「何からですか」
宮田が聞く。
「大きい会社からの相談」
隆夫は答えた。
「受けるとも断るとも決めてへん。でも、丸裸にはならん返事を出した」
村井が、小さく呟いた。
「丸裸?」
森川が説明しかけて、言葉に詰まった。
直人が言った。
「全部見せすぎること」
「全部見せたら、あかんのですか」
「相手による。目的による。でも、見せなくていいものまで見せたら、後で守れなくなる」
村井は考え込んだ。
そして、荷札を見た。
「荷札と同じですか」
田端がちょうど入ってきて、それを聞いた。
「お、村井くん。分かってきたやん」
村井は少し照れた。
直人は、その顔を見て思った。
この仕組みは、若い手にも伝わる。
難しい言葉でなくてもいい。
全部見せない。
でも、届くようにする。
その感覚が残れば、黒瀬式はただの帳面ではなくなる。
夜、黒瀬精機の作業台には、会議で決まった最初の文面が置かれていた。
美智子が最後に確認する。
隆夫が横で見る。
直人は、少し離れてその紙を眺めた。
河島産業がこの返事をどう受け取るかは分からない。
面倒だと思うかもしれない。
他へ行くかもしれない。
それでも、黒瀬精機たちは初めて、町工場側から条件を出した。
お願いします。
何でも出します。
安くします。
そうではなく。
相談は受けます。
入口は開けます。
でも、中身を丸ごと渡すことはしません。
その返事だった。
隆夫が静かに言った。
「これが通るかどうかやな」
美智子は封筒を閉じた。
「通らんかったら?」
「その時は、その時や」
隆夫は少しだけ笑った。
「でも、最初から全部渡して取る仕事なら、たぶん長くは続かん」
直人は父を見た。
その言葉には、昔よりずっと太い芯があった。
黒瀬精機は、大きな会社になったわけではない。
町工場のままだ。
けれど、その町工場が、初めて町の代表番号を鳴らす側になろうとしていた。
入口だけを渡す。
中身は、守る。
その小さな線引きが、高井田の外へ向かって送られた。
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