第71話 触らない仕事
それから一週間後の土曜日。
村井健太は、約束の時間より20分早く高井田へ着いた。
黒瀬精機の前には、まだ田端の代車も来ていない。
シャッターは半分開いている。
中からは、掃除の音がした。
機械の音ではない。
箒で床を掃く音。
布で作業台を拭く音。
棚の戸が静かに閉まる音。
健太は、工場の入口で足を止めた。
父は今日は来ていない。
家を出る時、こう言われた。
「面白いだけで帰ってくるな。何をさせてもらえなかったかも見てこい」
何をさせてもらえなかったか。
最初は変な言い方だと思った。
でも、黒瀬精機の入口に立つと、その意味が少しだけ分かる。
何でも触らせる工場ではない。
触らせない理由がある工場だ。
「おはようございます」
健太が声を出すと、奥から宮田悟が顔を上げた。
「おはよう。早いね」
「すみません、早すぎましたか」
「大丈夫。でも、工場の中に入るのは9時からにしよう。まだ準備中だから」
健太は一瞬だけ戸惑った。
来たのだから入っていいと思っていた。
だが、宮田は入口の線を指した。
「今日は見学の日やから、始まりの時間も決める。何となく入って、何となく手伝うのはやめようってことになってる」
「はい」
健太は入口の外で待った。
中では森川修一が工具箱を開けている。
隆夫は材料棚の前で何かを確認している。
直人は荷札の束を揃えていた。
美智子は事務机で、今日の時間を書いている。
その全部が、健太には仕事に見えた。
機械を動かしていなくても、工場はもう動き始めている。
9時になると、宮田が入口へ来た。
「入っていいよ。まず手を洗って」
「はい」
「その後、今日見る場所を確認する」
健太は手を洗い、作業台の端に立った。
宮田は小さな紙を1枚持っていた。
大げさなものではない。
今日見るもの。
測定器棚。
荷札。
材料置き場。
切粉の掃除。
触ってはいけないもの。
動いている機械。
刃物。
測定器の測定面。
図面の原紙。
健太はそれを見て、少しだけ肩に力が入った。
「今日は、本当に機械は触らないんですね」
「触らない」
宮田ははっきり言った。
「退屈かもしれないけど」
「いえ」
「退屈なら退屈でいいよ。ただ、退屈なところを飛ばすと、後で危ないから」
森川が横から言った。
「宮田、先生みたいになってきたな」
「やめてください」
「ええやん。俺が言うより柔らかい」
「森川さんが言うと、だいたい脅しに聞こえます」
「お前、言うようになったな」
工場に少しだけ笑いが起きた。
健太もつられて笑いそうになったが、すぐに表情を戻した。
見学とはいえ、遊びではない。
最初に宮田が見せたのは、測定器棚だった。
「この棚は、勝手に開けない。開ける時は、誰かに声をかける」
「はい」
「ノギスはここ。マイクロメータはここ。使った後は拭いて戻す」
「はい」
「ただし、今日は持たない。見るだけ」
健太は、ケースに入ったマイクロメータを見た。
金属の冷たい光が、布の中に収まっている。
道具というより、何か大事なものをしまっているように見えた。
「これ、落としたらどうなるんですか」
「落としたら、黙って戻さない」
宮田は答えた。
「見た目に壊れてなくても、測る道具はずれることがあるから」
「落としたら怒られますか」
「怒られるかもしれない。でも、黙って戻した方がもっと問題になる」
健太は頷いた。
それは父にも言われたことがある。
失敗そのものより、隠す方が悪い。
けれど工場では、その重さが違うのだと思った。
次は荷札だった。
田端の代車が来る時間に合わせて、健太は入口の横に立った。
田端は荷台を開けるなり、健太を見て笑った。
「お、来たな。今日は荷物読めるか?」
「読めます」
「ほんまかいな。ほな、これ」
田端は小さな箱を指した。
健太は荷札を声に出して読んだ。
「KS-1996-KU-004。黒瀬精機発。倉田精密、検査行き。治具。傷注意」
「ええやん。次、間違えそうなところ」
「KSとKUです」
「そればっかりやと半分正解やな。ほかは?」
健太はもう一度札を見た。
発工場。
行き先。
中身。
注意。
どれも書いてある。
だが、何かが引っかかった。
「検査行き、ってところですか」
「何で?」
「倉田精密に着いても、検査に行かなかったら違う場所へ置かれるから」
田端は少しだけ目を細めた。
「ええな」
宮田も頷いた。
「行き先は会社名だけじゃ足りないことがある」
健太はほっとした。
ただ読むだけではなく、どこで迷うかを探す。
それだけで、荷札の見え方が変わった。
田端は別の箱を持ち上げた。
「これは今日は読むだけ。持たんでええ」
「持ったら駄目ですか」
「重さが分からん荷物を、いきなり持つな。中身が傾くやつもある。腰もやる」
健太は素直に手を引っ込めた。
見学の日は、触らない。
その約束が、思っていたより何度も出てくる。
午前の半ば、森川が作業を止めた。
旋盤のそばに、細い切粉が落ちている。
光を受けて、銀色に曲がっていた。
健太はそれを見た。
床に落ちた細い金属くず。
つい拾いたくなる。
家なら、落ちているものを手で取る。
健太の指が少し動いた。
「手で行くな」
森川の声が飛んだ。
健太はびくりとして手を止めた。
森川は怒鳴ったわけではない。
だが、声は鋭かった。
「切粉は手で触らん。細いやつでも刺さる。曲がってるやつは、皮膚に入ることもある」
「すみません」
「謝る前に、何で止められたか覚えとけ」
宮田が、刷毛と小さなちり取りを持ってきた。
「こうやって取る」
健太は刷毛を受け取りそうになった。
宮田は首を横へ振った。
「今日は見て」
「あ、はい」
宮田は、切粉を刷毛で集めた。
手で触らない。
吹き飛ばさない。
足で踏まない。
集めて、決まった入れ物へ入れる。
たったそれだけの動作が、健太には妙に大事に見えた。
森川は、健太の顔を見て言った。
「退屈やろ」
「いえ」
「ほんまか?」
「退屈というか……何も知らなかったんだなと思いました」
森川は少しだけ黙った。
「それが分かったら十分や」
昼前、美智子が入口から声をかけた。
「健太くん、今日はここまでやね」
「もうですか」
「見学は午前だけ。最初から長くせん」
健太は時計を見た。
まだもっと見たい気がした。
だが、約束の時間は午前中だけだ。
ここでずるずる残ると、約束が曖昧になる。
「はい」
健太は頭を下げた。
「ありがとうございました」
美智子は事務机に戻り、紙に時間を書いた。
9時から12時。
見学。
作業なし。
賃金なし。
ただし、次回から手伝いが入る場合は別扱い。
健太はその文字を見た。
何もしていない。
だから賃金はない。
でも、見学した時間は残っている。
それが不思議だった。
「これ、家に見せてもいいですか」
健太が聞くと、美智子は頷いた。
「もちろん。お父さんにも見せて」
「はい」
田端が荷台の扉を閉めながら言った。
「村井くん、今日の仕事は何やったと思う?」
健太は少し考えた。
「触らないこと、ですか」
田端は笑った。
「ええ答えやけど、もう一声」
宮田が横から助け舟を出す。
「止まること、かな」
健太は頷いた。
「触りたくなった時に、止まること」
森川が、作業台の向こうから言った。
「それができたら、次に進める」
健太は、胸の中に何かが残るのを感じた。
機械を触れなかった。
加工もできなかった。
荷物も持たせてもらえなかった。
切粉も自分で掃除できなかった。
けれど、何もしていないわけではない。
工場の中で、触らない仕事をした。
それは父に説明できるかもしれない。
帰り際、健太は黒瀬精機の入口で振り返った。
森川はもう機械の前に戻っている。
宮田は測定器棚を確認している。
直人は荷札を束ね直している。
隆夫は材料を見て、美智子は時間を書き込んでいる。
それぞれが違うことをしているのに、工場全体が1つの仕事のように見えた。
「また来週、来てもいいですか」
健太が言うと、隆夫は顔を上げた。
「来るなら、時間通りにな」
「はい」
「次も、たぶん地味やで」
「はい」
健太は笑わずに頷いた。
「それでいいです」
その返事に、森川が少しだけ口元を緩めた。
午後、黒瀬精機の作業はいつも通りに戻った。
だが、宮田は測定器棚の前で少し考えていた。
隆夫が声をかける。
「どうした」
「健太くんに見せる順番、もう少し直した方がいいかもしれません」
「どこを」
「切粉です。手で触りそうになったので、最初に言っておいた方がいいと思います」
森川が頷いた。
「それは入れとけ。俺も先に言うべきやった」
宮田は驚いた顔をした。
「森川さんが?」
「何や」
「いえ」
「俺かて、たまには反省する」
工場に少し笑いが起きた。
直人は、そのやり取りを聞きながら思った。
見習いは、教わる側だけを変えるわけではない。
教える側も変える。
何を先に言うか。
何を見せるか。
どこで止めるか。
それを考えなければ、次の手は育たない。
この日、村井健太は何も作らなかった。
黒瀬精機も新しい機械を買ったわけではない。
大きな注文が決まったわけでもない。
けれど、工場は1つだけ前へ進んだ。
若い手に、触らない仕事を教えた。
それを見て、教える側も自分たちの言葉を1つ増やした。
夕方、田端が帰り際に直人へ言った。
「直坊、あの子、続くと思うか?」
「分からん」
「冷たいなあ」
「分からんけど、今日の顔は悪くなかった」
「せやな」
田端は代車に乗り込んだ。
「触らん仕事で帰ってきたのに、ええ顔しとったわ」
代車が路地を出ていく。
直人はその背中を見送った。
工場の中では、森川が宮田へ言っている。
「次は材料の向きやな」
「はい」
「その次は?」
「持っていい材料と、持ってはいけない材料です」
「ええやん」
その声を聞きながら、直人は作業台の端に置かれた見学記録を見た。
村井健太。
見学1回目。
触らないこと。
切粉は手で触らない。
荷札は行き先まで読む。
短い文字だった。
だが、それは黒瀬精機にとって、初めての見習い記録だった。
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