第70話 父が見た工場
その翌週の土曜日。
村井健太は、父の少し後ろを歩いていた。
高井田の路地は、朝から機械の音で満ちている。
鉄を削る音。
荷物を降ろす音。
自転車のブレーキの音。
工場のシャッターが半分開いたまま、奥で人が動いている。
村井の父、村井正則は、その音を聞きながら眉を寄せていた。
スーツではない。
作業着でもない。
少しくたびれたジャンパーに、黒い革靴。
勤め先へ行く前に無理に時間を作って来たのだと、健太にも分かった。
「ここか」
「うん」
健太は小さく頷いた。
黒瀬精機。
看板は大きくない。
工場も広くない。
中では、森川修一が作業台の前に立っていた。
宮田悟は測定器の棚を開け、布でケースを拭いている。
奥では隆夫が、材料を見ながら何かを確認していた。
直人は、工場の入口近くで荷札の束を揃えている。
健太は、前に来た時より緊張していた。
自分だけなら、面白い、もう一度見たい、で済んだ。
だが今日は違う。
父が見る。
父が聞く。
父が納得しなければ、たぶんここへ続けて来ることは難しい。
「おはようございます」
健太が頭を下げると、隆夫が手を止めた。
「おはよう。今日はお父さんも一緒やね」
正則は深く頭を下げた。
「村井健太の父です。突然すみません」
「黒瀬隆夫です。来ていただいてありがとうございます」
隆夫も頭を下げた。
その後ろから、美智子が出てきた。
「おはようございます。黒瀬美智子です」
「お世話になります」
正則は丁寧に挨拶したが、目は工場の奥を見ていた。
狭い。
油の匂いがする。
刃物がある。
材料がある。
動いている機械がある。
その全部を見ている。
田端も、ちょうど荷物を降ろしに来ていた。
村井親子を見ると、邪魔にならないよう荷台の脇へ寄った。
「今日は大事な日みたいやな、直坊」
小声で言われ、直人は頷いた。
「うん。たぶん、ここで雑にしたらあかん日や」
「せやな」
田端は笑わなかった。
隆夫は正則を作業台の前へ案内した。
「先に、こちらから言わせてもらいます」
「はい」
「うちは、健太くんをすぐ雇うと決めたわけではありません」
健太の肩が少し落ちた。
だが正則は、逆に顔を上げた。
「それは、正直ですね」
「はい。今の黒瀬精機に、1人をすぐ正社員として抱える余裕はありません」
隆夫の言葉は重かった。
夢のある話ではない。
だが、嘘ではなかった。
「ただ、工場の仕事を見せることはできます。決めた範囲で手伝ってもらうこともできます。その場合は、時間と内容を決めて、賃金を払います」
正則は眉を動かした。
「見学と手伝いを分ける、ということですか」
「はい」
美智子が続けた。
「見学の日は、触らせません。工場の中で見る場所を決めて見てもらいます。手伝いの日は、掃除や荷物の整理など、危なくない範囲に限ります。その分は時給を出します」
正則は、少しだけ黙った。
「失礼ですが、そこまで決めておられるとは思っていませんでした」
森川が工具を置いた。
「俺らも、最近決め始めたところです」
正則は森川を見る。
「最近?」
「はい。前は、正直、見て覚えろに近かったと思います」
森川は少し言いにくそうにしながらも、逃げなかった。
「でも、それやと来た人間がどこを見てええか分からん。俺らも、何を教えたか分からん。そういう話になりまして」
宮田が一歩前へ出た。
「僕がここへ来た時も、最初は分かりませんでした」
正則の目が宮田へ向く。
「あなたは、こちらの従業員さんですか」
「はい。宮田悟です」
「何年目ですか」
「まだ長くありません。だから、最初に引っかかったところを覚えています」
宮田は、測定器のケースを作業台に置いた。
「健太くんに最初に見てもらうなら、ここからです」
正則はケースを見た。
「機械ではなく?」
「はい。測る道具です」
宮田はケースを開けた。
ノギス。
マイクロメータ。
それぞれ決まった場所に収まっている。
「これを雑に扱う人は、まだ削る仕事には入れません。測る道具がずれたら、作ったもの全部がずれます」
正則は真剣な顔で聞いていた。
健太も、父の横顔を見ていた。
父は、ただ反対しに来たわけではない。
本当に確かめに来ている。
宮田は続けた。
「次に荷札です」
直人が荷札のついた小箱を持ってきた。
KS-1996-KU-003。
黒瀬精機発。
倉田精密、検査行き。
確認具。
傷注意。
宮田が健太に言った。
「読んでみて」
健太は少し緊張しながら声に出した。
「KS-1996-KU-003。黒瀬精機発。倉田精密、検査行き。確認具。傷注意」
「いいです。次に、間違えそうなところは?」
「KSとKUです」
「そう。黒瀬と倉田。そこを飛ばすと、荷物が違うところへ行きます」
田端が横から口を挟んだ。
「ほんまに行きかけたことありますからね」
正則が田端を見る。
「あなたは?」
「田端です。材料と小口の荷物を運んでます」
「運送屋さんですか」
「運送屋と言うほど大きくはないです。町の血流みたいなもんですわ」
田端は軽く言ったが、すぐに表情を戻した。
「荷物が間違って走ったら、後で誰かが探します。その時間もただやない。最近、ようやくそれを言えるようになりました」
正則は、ゆっくり頷いた。
「なるほど」
隆夫は、作業中の機械へ正則を近づけすぎないように案内した。
「ここから先は、今日は入らないでください」
「はい」
「動いている機械の横に、慣れていない人を立たせることはしません」
正則は、その線引きに少し安心したようだった。
森川が治具を1つ作業台に置いた。
「健太くん、これは触ってええ。ただし、ここだけや」
森川は仕上げた角を指した。
健太は父を一度見た。
正則は黙って頷いた。
健太は指でそっと触れた。
「引っかからない」
「そこは前に来た時も触ったな」
「はい」
森川は正則へ向いた。
「こういう手触りは、すぐには教えられません。でも、最初に測る場所や触っていい場所を決めることはできます」
正則は治具を見た。
「職人の感覚、というものですか」
「感覚だけにしたら残りません」
森川は少し照れたように言った。
「俺も、そこを考え始めたところです」
その正直さに、正則の表情が少し変わった。
美智子が、お茶ではなく、1枚の紙を出した。
見習い条件。
見るだけの日。
手伝う日。
触らせない作業。
賃金。
保険や怪我の扱いは、正式に手伝う前に確認。
親へ説明済み。
正則はその紙を受け取った。
目で追う。
途中で、指が止まった。
「機械作業は、当面させない」
「はい」
美智子が答える。
「それでは、息子は邪魔になりませんか」
「邪魔になる時間もあります」
美智子はごまかさなかった。
健太が息を飲む。
だが美智子は続けた。
「だから、来る曜日と時間を決めます。忙しい時に急に来られても見られません。こちらが見られる時間だけ来てもらいます」
正則は紙を見たまま言った。
「なるほど」
「それから、見学だけの日に、ただ働きのようなことはさせません。手伝ってもらうなら、手伝いとして扱います」
正則は顔を上げた。
「それは、ありがたいです」
隆夫が言った。
「ただ、金額は大きくありません」
「分かっています」
「うちは、大きな会社ではありません。福利厚生も、大企業のようにはできません。将来を約束することもできません」
健太の顔が曇った。
隆夫はそのまま続けた。
「だからこそ、できないことは最初に言います」
工場の音が、一瞬遠くなったように感じた。
正則は、長く黙った。
そして、ゆっくり言った。
「私は、そこを一番聞きたかったのかもしれません」
隆夫は黙って聞いた。
「息子は、面白かったと言いました。工場が思っていたより分かりやすかったとも言いました。私は、それを悪いとは思いませんでした。ただ、面白いだけで入って、怪我をしたり、安く使われたり、先が見えずに辞めたりするのが心配でした」
「当然です」
「正直、町工場という言葉に、いい印象ばかりはありません。親方の気分で怒鳴られる。給料が曖昧。時間も曖昧。怪我をしても自己責任。そういう話も聞きます」
森川の顔が少し固くなった。
田端も黙った。
その言葉は、町工場に向けられた厳しい目だった。
だが、まったくの誤解とも言えない。
直人は、前の人生で見た工場を思い出していた。
曖昧な給料。
長い残業。
覚えられない若手を責めるだけの現場。
怪我をしても「注意が足りない」で済ませる空気。
それを全部否定することはできない。
隆夫は正則から目を逸らさなかった。
「そういう工場もあります」
正則が見る。
「黒瀬精機が、絶対そうならないと言い切れるほど、うちは立派ではありません」
健太が父と隆夫を交互に見た。
隆夫は続けた。
「でも、そうならないように、決めることはできます。見学と手伝いを分ける。触らせるものを決める。危ないところへ入れない。働いた時間を残す。分からないことを聞ける人を決める」
美智子が頷いた。
「口約束だけにしないことも大事です」
正則は、手元の紙をもう一度見た。
「なぜ、ここまでされるんですか」
隆夫は少し考えた。
すぐには答えなかった。
森川も宮田も直人も、父の言葉を待った。
「手が、消えるからです」
隆夫は静かに言った。
「腕のある職人が年を取る。若い人が来ない。来ても続かない。そういう話を、もう何度も聞きました。うちも他人事ではありません」
正則は黙っていた。
「でも、来た若い人に、根性だけで残れとは言えません。何を覚えるのか。何をしたら危ないのか。どこまでが仕事なのか。それを見せずに、若い人が来ないと言うのは、こちらの甘えやと思います」
森川が少しだけ目を伏せた。
その言葉は、森川にも刺さっていた。
宮田は、静かに測定器のケースを閉めた。
正則は、ようやく紙を畳んだ。
「1か月」
「はい」
「まず、1か月だけ見学させてください。手伝う日は、そちらの条件で。私も、この紙を家内に見せます」
健太の顔が明るくなった。
「父さん」
「まだ決まったわけやない」
正則は息子を見た。
「続けるかどうかは、1か月見てからや。お前が面白いだけで来ているのか、地味なことも続けられるのか、そこを見る」
「うん」
隆夫は頭を下げた。
「分かりました」
美智子も言った。
「初日は、来週の土曜午前でどうでしょう。見学だけ。機械は触りません」
「お願いします」
正則は、深く頭を下げた。
その時、田端が小さく咳払いした。
「ほな、村井くん。来週来るなら、まず俺の荷物の読み間違い探しからやな」
健太が笑った。
「はい」
「笑ってるけど、これ地味やで」
「分かってます」
「分かってへん顔や」
田端が言うと、工場に少しだけ笑いが戻った。
正則も、ほんのわずかに口元を緩めた。
村井親子が帰った後、黒瀬精機にはいつもの音が戻った。
だが、隆夫はしばらく作業台の前に立ったままだった。
森川が声をかける。
「社長」
「何や」
「本当に1か月、面倒見ますか」
「見ると言った」
「森川さんも見るんですよ」
宮田が横から言う。
「分かってる」
森川は苦い顔をした。
「でも、あの父親、厳しいですね」
美智子が言った。
「厳しい方がええよ」
「何でです」
「大事な子を預けるかもしれんのやから」
森川は何も言えなかった。
直人は、工場の入口を見ていた。
村井親子が出ていった路地には、もう誰もいない。
ただ、機械の音と、遠くのトラックの音だけが残っている。
若い人が来ない。
そう嘆くのは簡単だ。
けれど若い人の後ろには、家族がいる。
生活がある。
心配がある。
その心配ごと受け止められない工場には、人は残らない。
黒瀬精機は、今日ひとつ試された。
腕ではない。
納期でもない。
若い手を迎える覚悟を、親に見られた。
そして、ぎりぎりで門前払いにはならなかった。
隆夫は、見習い条件の紙を作業台から取った。
「これは、もう少し直す」
「また紙ですか」
森川が言う。
隆夫は首を横へ振った。
「紙やない。約束や」
その言葉に、美智子が静かに頷いた。
宮田は、測定器棚の前で明日の準備を始めた。
来週、村井が来る。
まだ見習いではない。
まだ従業員でもない。
ただ、工場の入口に立つ若い手だ。
その手が離れるか、少しだけ中へ入るかは、これから決まる。
黒瀬精機の音は、いつも通り続いていた。
だがその音の中に、誰かに聞かせるための余白が、ほんの少しだけ生まれていた。
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