第69話 見習いの条件

 それから数日後。


 村井健太は、黒瀬精機の前で足を止めた。


 工場の中から、いつもの金属音が聞こえている。


 前に来た時とは違う音に聞こえた。


 いや、音は同じなのかもしれない。


 変わったのは、自分の耳だった。


 測定器を出す前に手を拭く。


 荷札は頭の文字だけで見ない。


 触っていいものと、触ってはいけないものがある。


 そんなことを少しだけ知っただけで、工場の音が前より細かく聞こえるような気がした。


 だが、村井はなかなか中へ入れなかった。


 前に見学へ来た後、家で父に言われた言葉が残っている。


「町工場は、先が見えへんやろ」


 父は悪く言ったわけではなかった。


 ただ心配していた。


 給料はいくらなのか。


 何年で何を覚えられるのか。


 怪我をしたらどうなるのか。


 続けても、ちゃんと食べていけるのか。


 村井は何も答えられなかった。


 工場は面白かった。


 黒瀬精機の人たちは、ただ怒鳴るだけではなかった。


 でも、それだけでは家族を説得できない。


 自分自身も、不安を消せない。


「何してんねん」


 後ろから声がした。


 田端だった。


 代車から小さな箱を降ろしながら、村井を見ている。


「入らんのか?」


「いや、その」


「怖気づいた?」


「そういうわけやないです」


「ほな、入り」


 田端は箱を抱え直した。


「工場の前で迷ってても、音は止まらんで」


 村井は小さく頭を下げ、田端の後に続いた。


 黒瀬精機の作業場では、森川修一が治具の仕上げをしていた。


 宮田悟は作業台の横で、測定器のケースを拭いている。


 直人は番号カードを見ていた。


 隆夫が顔を上げる。


「村井くんか」


「はい。おはようございます」


「今日はどうした?」


 村井は、用意していた言葉を飲み込んだ。


 言いにくい。


 工場で働きたいかもしれないと言いに来たのに、最初に金や条件の話をするのは失礼な気がした。


 だが、父の言葉が頭に残っている。


 先が見えへんやろ。


「あの」


 村井は手を握った。


「仕事を覚えるとしたら、どれくらいで何ができるようになるんですか」


 森川の手が止まった。


 宮田も顔を上げる。


 村井は慌てて続けた。


「すみません。変な意味やないです。家で聞かれて、答えられなくて」


 隆夫は怒らなかった。


 ただ、真剣な顔になった。


「誰に聞かれた?」


「父です。町工場は先が見えへんやろって。給料とか、覚えることとか、怪我した時とか、そういうのを何も知らんまま行くなと言われました」


 工場の中が少し静かになった。


 田端が箱を置いた。


「そら、親なら聞くわな」


 森川は少し苦い顔をした。


「いきなり金の話かと思ったわ」


 美智子が奥から出てきた。


「金の話でええやん」


 森川が振り向く。


「奥さん」


「働くかもしれん子が、給料も時間も怪我のことも分からんまま来る方が怖いわ」


 村井は目を丸くした。


 美智子は村井を見た。


「よう聞いたと思うよ」


「でも、失礼かなと」


「失礼やない。聞かん方が困る」


 その言葉に、村井の肩から少し力が抜けた。


 直人は黙っていた。


 前の人生の記憶が、胸の奥で動いている。


 若い人が来ないと嘆く工場は多かった。


 来ても続かないと怒る職人も多かった。


 でも、若い側から見れば、工場は分からないことだらけだった。


 何年で何を覚えるのか。


 どこまでできたら給料が上がるのか。


 怪我をしたらどうなるのか。


 怒鳴られた時、誰に聞けばいいのか。


 それが見えないまま、根性だけで残れと言われても、続かない。


 隆夫は腕を組んだ。


「うちは今、すぐ人を1人抱える余裕があるとは言えん」


 村井の顔が少し曇る。


 隆夫は続けた。


「けど、見習いとして何を見せるか、どこまで触らせるかは決められる」


 美智子が言った。


「ただし、仕事として手を動かすなら賃金は出す。見学だけなら、触らせない」


 森川が少し驚いた顔をした。


「そこまで分けますか」


「分ける」


 美智子は即答した。


「見学と言いながら掃除も運搬もさせる。手伝いやからただ。そういうのはあかん」


 田端が小さく笑った。


「奥さん、逃げ道塞ぎますな」


「逃げ道を残したら、若い子から先に逃げる」


 その言葉は重かった。


 村井は顔を上げた。


 隆夫は作業台の上に、昨日使った紙を出した。


 宮田が書いた、最初に見る場所の表だった。


「村井くん」


「はい」


「もし続けて来るなら、最初の1か月は機械を触らせへん」


 村井は少し驚いた。


「全然ですか」


「全然や。測定器、荷札、材料の向き、掃除、道具の戻し方。そこからや」


「はい」


「次の1か月で、材料の受け渡しと、簡単なバリ取り。ただし森川か宮田が横につく」


 森川が口を開きかけたが、隆夫に目で止められた。


「その後、続ける気があって、こっちも任せられると判断したら、初めて簡単な治具の段取りを見る」


 村井は黙って聞いていた。


 思っていたより遅い。


 すぐ機械を触れると思っていたわけではない。


 だが、ここまで段階を切られるとは思わなかった。


 その顔を見て、森川が言った。


「つまらんと思うやろ」


「いえ」


「思ってええ」


 森川は布で手を拭いた。


「俺も若い時は、早く削らせろと思ってた。でも、測る前に削ったら、ただの鉄くず作るだけや」


 宮田が静かに続けた。


「僕も最初は、何を見ればいいか分かりませんでした。でも、測定器や荷札から入ると、工場のどこで間違いが起きるか少し分かるようになりました」


 村井は宮田を見た。


「宮田さんも、最初からできたわけじゃないんですか」


 森川が笑った。


「できてたら、今ごろもっと偉そうにしてるわ」


「森川さん」


 宮田が困った顔をする。


 工場に少し笑いが起きた。


 緊張が解けたところで、美智子が紙を1枚置いた。


「条件もいるね」


 隆夫が頷く。


「そうやな」


 美智子は村井に向き直った。


「まず、来る日と時間を決める。来られる時だけ来る、はあかん。こっちも段取りがあるから」


「はい」


「見学だけの日は、基本触らない。手伝いとして掃除や運搬をする日は、時給を出す。危ない作業はさせない。怪我をした時の扱いも決める」


 村井は緊張した顔で頷いた。


 田端が横から言った。


「親御さんにも見せた方がええんちゃいます?」


 美智子が頷く。


「そうですね。村井くん、親御さんに一度来てもらえる?」


「父ですか」


「お父さんでも、お母さんでも。心配してる人に、工場を見てもらった方がええ」


 村井は戸惑った。


「父が来たら、失礼なことを言うかもしれません」


 隆夫は小さく笑った。


「親が心配で言う言葉なら聞く」


「でも」


「ただ、町工場は全部あかんみたいに言われたら、そこは言い返す」


 その声には、静かな強さがあった。


 村井は思わず背筋を伸ばした。


「はい」


 その日の昼前、南田板金の南田が顔を出した。


 田端が呼んだわけではない。


 小池製作所へ回す荷物の件で来たついでだった。


 村井の話を聞くと、南田は腕を組んだ。


「うちも、若い手は欲しい」


 森川がすぐに言う。


「どこも欲しいですよ」


「せやけど、教える余裕がない」


 南田は正直に言った。


「忙しい時ほど人が欲しいのに、忙しい時に来られても教えられへん」


 田端が頷いた。


「それ、みんな言いますわ」


 直人は、その言葉を聞いていた。


 未来でも同じだった。


 人手不足なのに、育てる余裕がない。


 余裕がないから即戦力だけを求める。


 即戦力は来ない。


 若い人を入れても、放り込むだけになる。


 続かない。


 そしてまた、人手不足になる。


 その輪をどこかで切らなければならない。


「南田さん」


 直人が口を開いた。


「何や、直坊」


「町で1人ずつ見せる場所を分けたらどうですか」


「分ける?」


「黒瀬は測定器と荷札。南田さんとこは板の向きと曲げ前の確認。大西さんとこは材料の違い。吉岡さんとこは薬品棚には近づけない理由。田端さんは荷物の行き先」


 南田は目を細めた。


「町の工場を順番に見せるんか」


「はい。でも、仕事として使うんやなくて、最初は見るだけ。触る時は、その工場が責任を持てるところだけ」


 森川が唸る。


「面白いけど、面倒やな」


「面倒です」


 直人は認めた。


「でも、1社で全部教えようとするより、まだできるかもしれません」


 美智子が静かに言った。


「ただで回したらあかんよ」


 直人は頷いた。


「うん。見学は時間を決める。手伝いになるなら賃金。各工場の仕事を邪魔しない。そこは先に決める」


 南田はしばらく黙った。


「町の見習い巡りか」


 田端が笑う。


「名前だけ聞いたら祭りみたいですな」


「祭りやない。人を育てる話や」


 隆夫はそう言った。


「やるなら軽くせん方がええ」


 南田は頷いた。


「せやな」


 村井は、その話を聞きながら、胸の中が少し熱くなるのを感じていた。


 自分はまだ、何もできない。


 だが、どこを見ればいいかを教えてくれる人たちがいる。


 何を触ってはいけないかを決めてくれる人たちがいる。


 金や時間の話を、失礼だと切り捨てずに聞いてくれる人たちがいる。


 父に説明できるかもしれない。


 そう思えた。


 夕方、村井は帰る前に、隆夫へ頭を下げた。


「父に話してみます」


「うん」


「来てもらえるか分かりませんけど」


「来てもらえたら、ちゃんと話す」


 美智子が続けた。


「条件も、口だけやなくて書いて渡せるようにしとく」


 村井はまた頭を下げた。


「ありがとうございます」


 田端が外で待っていた。


「送ったろか」


「いえ、歩いて帰ります」


「そうか」


 村井は黒瀬精機の前で、もう一度工場の中を見た。


 前に来た時は、音が大きい場所だと思った。


 今日は、入口が少し見えた気がした。


 まだ中へ入ったわけではない。


 仕事を覚えたわけでもない。


 それでも、何も見えない場所ではなくなった。


 村井が帰った後、森川は腕を組んだまま言った。


「社長、本気でやるんですか」


「まだ分からん」


 隆夫は正直に答えた。


「うちだけで抱えられる話やない」


「町で見せるって、また面倒なことになりますよ」


「なるやろな」


 隆夫は宮田の紙を見た。


「でも、何もせんかったら、手が消える」


 森川は黙った。


 その言葉だけは、軽く聞けなかった。


 美智子が紙の端に小さく書いた。


 見習い条件。


 見るだけの日。


 手伝う日。


 触らせない作業。


 親へ説明すること。


 直人はその文字を見ていた。


 未来の工場で、人がいなくなる理由はいくつもある。


 給料。


 時間。


 危険。


 将来。


 教え方。


 その全部を一度に変えることはできない。


 けれど、入口が暗いままでは、誰も入ってこない。


 黒瀬精機が今日作ったのは、仕事ではない。


 見習いが、最初の一歩を踏み外さないための足場だった。


 夜、宮田は測定器棚の前で、村井に見せた順番をもう一度確かめていた。


 森川が横から言う。


「次に来たら、材料の向きも見せる」


「はい」


「でも、いきなり持たせるなよ」


「分かってます」


「ほんまか」


「僕が最初に間違えそうになったところから見せます」


 森川は少しだけ笑った。


「それならええ」


 直人は、2人の背中を見ていた。


 少し前まで迷っていた宮田が、誰かの入口を作ろうとしている。


 それが、黒瀬精機の未来を少し明るくしていた。


 技は、手だけでは残らない。


 条件がいる。


 時間がいる。


 聞ける空気がいる。


 そして、最初の一歩を笑わずに受け止める人がいる。


 そのどれか1つでも欠ければ、若い手は簡単に離れていく。


 黒瀬精機はまだ、小さな工場だ。


 誰かの人生を背負い切れるほど、大きくはない。


 だからこそ、背負える範囲を先に決める。


 村井が次に来るかどうかは分からない。


 それでも、工場の作業台には、見習いの条件を書いた紙が1枚置かれた。


 紙は軽い。


 けれどそれは、若い手をただの根性論で受け入れないための、黒瀬精機なりの重さだった。


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