第68話 消える手を残す

 1996年1月の終わり。


 日曜の夜、黒瀬家の茶の間にテレビの音が流れていた。


 町工場の職人技が消えていく。


 画面の中で、そんな言葉が何度も繰り返される。


 小さな工場。


 古い旋盤。


 年配の職人。


 手だけでわずかなずれを感じ取り、音で刃物の当たりを聞き分ける人たち。


 そこに、後継者がいない。


 仕事はある。


 技もある。


 けれど、それを受け取る若い手が少ない。


 番組の中で語られる町工場は、遠い場所の話ではなかった。


 高井田の路地を少し歩けば、似たような工場がいくつもある。


 黒瀬精機も、その中の1つだった。


 隆夫は黙ってテレビを見ていた。


 美智子も、湯呑みを持つ手を止めている。


 直人は畳に座り、画面ではなく、父の横顔を見ていた。


 前の人生で見た風景が重なる。


 腕のある職人が年を取る。


 若い人間が来ない。


 来ても続かない。


 仕事はあるのに、できる人がいない。


 いざ教えようとしても、教える側は「見て覚えろ」としか言えない。


 覚える側は、どこを見ればいいのか分からない。


 その間に、仕事は海外へ流れ、安い外注へ流れ、最後には「もう作れるところがない」と言われる。


 テレビの中で、白髪の職人が言った。


 指が覚えていることを、言葉にするのは難しい、と。


 隆夫は、小さく息を吐いた。


「難しいやろな」


 直人は父を見た。


「おとんも?」


「俺もや」


 隆夫は画面を見たまま答えた。


「この音はあかん、この当たりは軽い、この削り肌はまだ甘い。そういうのは言える。けど、それを初めて触る人間に分かるように言えと言われたら、簡単やない」


 美智子が言った。


「でも、言えんままやと残らんね」


「せやな」


 隆夫は湯呑みを置いた。


「残らん」


 その言葉が、茶の間に静かに沈んだ。


 翌朝。


 黒瀬精機には、いつもより少し早く宮田悟が来ていた。


 手には、商工会のパソコン講習で使ったノートと、もう1枚の紙がある。


「おはようございます」


「早いな」


 森川修一が工具箱を開けながら言った。


「昨日の番組、見ました?」


「見た」


「僕、ちょっと思ったことがあって」


 宮田は紙を作業台に置いた。


 そこには、簡単な表が書かれていた。


 作業名。


 見て覚えるところ。


 言葉にするところ。


 触らせる前に確認するところ。


 やらせてはいけないところ。


 森川が眉を寄せた。


「また表か」


「表というか、教える順番です」


 宮田は少し遠慮しながら言った。


「僕が最初にここへ来た時、どこを見ればいいか分からなかったので。何を触ってよくて、何を触ったら駄目なのかも、全部聞かないと分かりませんでした」


 森川は、工具を持つ手を止めた。


「それは、まあ、そうやろな」


「でも、聞きにくいんです」


 宮田の声は小さかったが、はっきりしていた。


「忙しそうにしている時に、これは何ですか、これは触っていいですか、って何回も聞くのは」


 森川は何も言えなかった。


 直人は作業台の端で、そのやり取りを聞いていた。


 宮田は、昨日のテレビを自分のこととして受け取っている。


 それが嬉しかった。


 ただ感動したのではない。


 自分が教わる側だった時の引っかかりを、工場の中へ持ち帰ってきた。


 隆夫が工場へ入ってきた。


「何の話や」


 宮田が紙を差し出す。


「昨日の番組を見て、思ったんです。職人技を残すなら、いきなり難しい加工を教えるより、最初に見てもらうところを決めた方がいいんじゃないかって」


 隆夫は紙を見た。


 そこには、最初の作業としてこう書かれていた。


 測定器を出す。


 拭く。


 戻す。


 荷札を読む。


 図面番号を声に出す。


 材料の向きを確認する。


 森川が少し苦い顔をした。


「地味やな」


「地味です」


 宮田は即答した。


「でも、僕はそこからでした」


 隆夫は、紙から顔を上げた。


「森川」


「はい」


「地味なもんを地味やと言うのはええ。でも、飛ばす理由にはならん」


 森川は少しだけ背筋を伸ばした。


「はい」


 その時、田端の声が外から聞こえた。


「黒瀬さーん、朝からえらい真面目な空気ですねえ」


 田端は荷台から小さな箱を降ろしながら、工場へ顔を出した。


 その後ろに、見慣れない若い男が立っていた。


 まだ20歳になるかならないか。


 作業着は着ているが、どこか着慣れていない。


 田端が親指で後ろを指した。


「うちの知り合いの子で、村井言います。工場の仕事を見たい言うてましてな」


 若い男、村井は慌てて頭を下げた。


「村井健太です。すみません、急に」


 美智子が奥から出てくる。


「田端さん、また突然連れてきましたね」


「いや、ほんまは南田さんとこへ行く予定やったんですけど、朝から忙しい言われまして」


「それでうちへ?」


「黒瀬さんとこなら、怒りながらでも見せてくれるかなと」


 隆夫が苦笑した。


「怒る前提ですか」


 村井は緊張で固まっていた。


 直人は彼を見た。


 作業着の袖が少しきれいすぎる。


 手もまだ柔らかい。


 けれど、目は逃げていない。


 工場の音に驚きながらも、ちゃんと見ている。


 隆夫は少し考え、宮田の紙をもう一度見た。


「ちょうどええ」


 森川が嫌な予感を顔に出した。


「社長」


「村井くん、今日は機械は触らんでええ」


 隆夫は言った。


「その代わり、宮田の横について、測定器の出し方と戻し方、荷札の読み方だけ見ていき」


 村井は拍子抜けしたような顔をした。


「加工は見なくていいんですか」


「見るのはええ。でも触るのはそこからやない」


 隆夫は測定器棚を指した。


「うちは、測る道具を雑に触る人間に、削る仕事は任せん」


 村井は真剣な顔になった。


「はい」


 宮田の方が少し慌てた。


「僕が教えるんですか」


「お前が一番近い」


 隆夫は短く言った。


「分からんところから覚えた人間の方が、最初に引っかかる場所を知ってる」


 宮田は言葉に詰まった。


 直人は、その顔を見て少し笑いそうになった。


 昨日まで教わる側だった人間が、今日は見せる側になる。


 それは、工場にとってかなり大きな変化だった。


 宮田は村井を測定器棚へ連れて行った。


「まず、棚を開ける前に手を拭いてください」


「はい」


「ノギスとマイクロメータは置き場所が違います。使った後はここへ戻します」


「はい」


「落としたら、黙って戻さないでください。使えるように見えても、測る道具はずれることがあります」


 村井は思わず棚の中を見つめた。


「そんなに大事なんですか」


 宮田は少しだけ考えてから答えた。


「大事です。ここがずれたら、作ったもの全部がずれます」


 その言葉に、森川がちらりと宮田を見た。


 何も言わなかったが、口元が少しだけ緩んでいる。


 次に宮田は、荷札のついた箱を持ってきた。


「これを声に出して読んでください」


 村井は箱を見た。


「KS-1995-KU-019。黒瀬精機発。倉田精密、検査行き。確認具。傷注意」


「いいです。次は、どこを見れば間違えそうですか」


「え?」


「間違えそうなところを先に見ます」


 村井は戸惑いながら、もう一度札を見た。


「KSとKUが似てます」


「そうです。そこを飛ばすと、違う荷物を受け取るかもしれません」


 田端が入口で腕を組んで見ていた。


「宮田くん、えらい先生みたいになったな」


「やめてください」


 宮田は赤くなった。


 しかし、説明を止めなかった。


 昼前、村井は黒瀬精機の作業台の端で、古い治具を見ていた。


 森川が仕上げをしている。


 刃物の当たり。


 音。


 手の動き。


 それは確かに、見てすぐ分かるものではなかった。


 村井は小さく言った。


「すごいですね」


 森川が顔を上げる。


「どこが?」


「手が、迷ってないです」


 森川は少し驚いた。


「そら、毎日やってるからな」


「でも、さっきの宮田さんの説明がなかったら、何がすごいのか分からなかったと思います」


 森川は何も言わなかった。


 その代わり、削った治具を布で拭き、村井の前に置いた。


「ここ、触ってみ」


 隆夫がすぐに見る。


 森川は言った。


「刃物は触らせません。仕上げた角だけです」


 隆夫は黙って頷いた。


 村井は、恐る恐る指で角を撫でた。


「引っかからない」


「そうや。図面に書いてある寸法だけやなくて、持った時に引っかからんようにすることもある」


「それは図面に書いてないんですか」


「書いてへんことも多い」


「じゃあ、どうやって残すんですか」


 その問いに、森川は答えられなかった。


 今までなら、そこで笑って終わっていたかもしれない。


 見て覚えろ。


 触って覚えろ。


 何年もやれば分かる。


 だが、昨日のテレビの映像が、まだ頭のどこかに残っていた。


 職人技が消えていく。


 その言葉が、森川の背中を少し押した。


「……残し方を、今考えてる」


 森川は正直に言った。


「俺らも、まだちゃんとできてへん」


 村井は驚いたように顔を上げた。


「職人さんでも?」


「職人でもや」


 森川は小さく笑った。


「手は動く。でも、それを人に渡すのは別の仕事や」


 宮田が、その言葉を紙に書いた。


 森川が見とがめる。


「何書いてんねん」


「今の言葉、残した方がいいと思って」


「やめろ。恥ずかしい」


「残します」


「お前、最近強なったな」


 作業場に笑いが起きた。


 夕方、村井は帰る前に隆夫へ頭を下げた。


「今日はありがとうございました」


「お疲れさん」


 隆夫は言った。


「思ってた町工場と違いました」


 村井の言葉に、工場の空気が少し止まった。


 隆夫は聞いた。


「どう違った?」


「もっと、見て覚えろって怒鳴られるだけかと思ってました」


 田端が小さく吹き出した。


 森川が睨む。


 村井は慌てて続けた。


「でも、何を見ればいいかを先に教えてもらえたので、分かりやすかったです。加工は全然分かりませんでしたけど、何が大事かは少し分かりました」


 隆夫はしばらく黙った。


 そして、宮田の方を見た。


「今日の最初の教え方、残せ」


 宮田が頷く。


「はい」


「ただし、紙に書くだけではあかん。次に誰か来た時、もう一回やる」


「はい」


 村井は、田端と一緒に帰っていった。


 路地に代車の音が消えると、工場にはいつもの音が戻った。


 だが、少しだけ違って聞こえた。


 美智子が作業台の上の紙を見た。


 宮田が書いた表。


 村井が読んだ荷札。


 森川の言葉。


 そこに、新しい項目が1つ増えていた。


 最初に触らせるもの。


 触らせないもの。


 見る場所。


 声に出す場所。


 隆夫はそれを見て言った。


「これは、手順書やないな」


「違うの?」


 直人が聞く。


「入り口や」


 隆夫は紙の端を押さえた。


「工場へ入ってきた人間が、最初にどこを見ればええかの入り口や」


 直人は頷いた。


 未来では、教育マニュアルや技能継承という言葉がいくらでも出てくる。


 動画で残す。


 データで残す。


 標準化する。


 だが、それだけでは足りない。


 最初に何を見ればいいか。


 何を触ってはいけないか。


 誰に聞けばいいか。


 それを知らない若い手は、工場の中で立ち尽くす。


 そして、居場所をなくして去っていく。


 黒瀬精機が残すべきなのは、職人技そのものだけではない。


 職人技へ近づく入口だった。


 その夜、森川は測定器棚の前で宮田に言った。


「明日、村井くんがまた来たら、今度は材料の向きを見せる」


「来ますかね」


「来るかどうかは分からん」


 森川は棚の戸を閉めた。


「でも、来た時に見せるものがない工場にはしたくない」


 宮田は静かに頷いた。


 直人は、工場の入口から2人を見ていた。


 消える手を、無理に引き止めることはできない。


 けれど、次の手が伸びてきた時、掴める場所を作っておくことはできる。


 黒瀬精機はその日、まだ誰も雇っていない。


 新しい機械も買っていない。


 大きな仕事を取ったわけでもない。


 それでも、工場の未来に必要なものが1つ増えた。


 技を見せるための入口。


 そこに立った最初の案内役は、少し前まで自分が迷っていた宮田だった。


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