第67話 上書きするな
1995年12月。
宮田悟は、商工会の小さな講習室で、灰色の画面を前に固まっていた。
机の上には、乳白色の横置き本体が置かれていた。
その上に、奥行きのあるCRTモニタ。
手元には分厚いキーボードと、底に重い玉の入ったマウス。
画面の中には、表計算ソフトの升目が並んでいる。机の上には、分厚いキーボード。
講師は明るい声で言った。
「では、先ほど作った表を保存しましょう。名前をつけて保存、です」
宮田は、言われた通りにマウスを動かした。
まだ慣れない。
思った場所へ矢印が行かない。
少し動かしたつもりが行きすぎる。
隣の席の人は、何でもない顔で操作している。
宮田は汗をかいた。
旋盤の前では、こんな汗はかかない。
測定器を持つ時の緊張とも違う。
画面の中のものは、手応えがない。
削った音もしない。
金属の匂いもしない。
それなのに、操作を1つ間違えただけで、何かが消えるような気がした。
「名前は何でも構いません。練習一、と入れてください」
講師の声に従って、宮田は入力した。
練習一。
画面の中に文字が出る。
少しだけ嬉しかった。
だが、次の練習で問題が起きた。
「では、先ほどの表を開いて、数字を少し変えてみましょう」
宮田は表を開いた。
数字を変える。
保存する。
すると、さっきの表は消えた。
いや、消えたのではない。
変わった表で上書きされた。
「あれ」
宮田は小さく声を出した。
講師が気づく。
「どうしました?」
「前の数字、戻せますか」
「上書き保存した場合は、基本的に前の状態には戻せませんね。残したい場合は、別名で保存してください」
別名で保存。
宮田は、その言葉をノートに書いた。
元の表を残す。
作業用を別にする。
上書きするな。
自分でも、なぜそこまで強く引っかかったのか分からなかった。
ただ、黒瀬精機の図面棚が頭に浮かんだ。
古い図面。
改訂された図面。
現物合わせのメモ。
番号カード。
もし、それらを新しい紙で何となく置き換えてしまったら。
元が何だったか、分からなくなる。
講習が終わると、宮田は夜の道を急いだ。
高井田へ戻る頃には、息が白くなり始めていた。
黒瀬精機では、まだ工場の中に人の気配があった。
森川修一が工具を片づけている。
隆夫は作業台で図面を見ていた。
直人は横で、番号カードを並べている。
「戻りました」
宮田が声をかけると、美智子が奥から顔を出した。
「おかえり。今日は何を覚えたん?」
講習へ行く前に言われていた。
十個はいらない。
一つでいい。
それを工場へ持って帰る。
宮田は鞄からノートを出した。
「上書き保存は、油断したら元に戻せない、です」
森川が吹き出した。
「何やそれ。もっとすごいこと覚えてこいよ」
「でも、前の表が残っているつもりで、新しい数字に置き換わったのが引っかかったんです」
宮田は真面目に言った。
「残したいなら、別の名前で保存しないと駄目なんです」
隆夫は笑わなかった。
図面から顔を上げる。
「それ、図面でも同じやな」
「はい」
宮田は頷いた。
「元の図面を残したまま、作業用を別にしないと、後で何が元だったのか分からなくなると思いました」
直人は、宮田を見た。
いいところに引っかかった。
パソコンの便利さではなく、元に戻せない時の重さを持って帰ってきた。
それは、黒瀬精機に必要な感覚だった。
その翌日、宮田の言葉がそのまま試されることになった。
午前中、倉田精密からファックスが届いた。
保管対応付き治具の再製作に関する図面だった。
番号は、KS-1995-KU-017。
倉田精密の洗浄後確認具。
図面の右下には、小さく改訂欄がある。
改訂A。
直人はファックスを受け取り、美智子へ渡した。
「倉田さんから」
美智子は日付を書き込み、隆夫へ回す。
隆夫は図面を見て言った。
「これ、今朝の仕事に入れられるか」
森川が覗き込む。
「材料はあります。昼から段取りできます」
宮田も横から見ていた。
改訂A。
ファックスの線は少し粗い。
細かい寸法が読みづらい部分がある。
「元図、黒瀬の控えありますか」
宮田が聞いた。
美智子がカード箱を見る。
「あったよ。番号は同じ」
宮田は昨日の講習を思い出した。
上書き保存。
元の表がなくなる。
「このファックス、元図に重ねない方がいいと思います」
森川が顔を上げる。
「誰も重ねへんやろ」
「いえ、作業台に並べるなら、元図と改訂図を分けた方がいいです。どっちを見て作業してるか分からなくなるかもしれません」
隆夫は少し考えた。
「宮田、分けて置け」
「はい」
宮田は、元図とファックスを別々の透明袋に入れた。
元図。
改訂A。
大きく紙を挟む。
その時、もう一枚ファックスが届いた。
美智子が受け取り、眉を寄せた。
「また倉田さん」
紙には、こう書かれていた。
先ほどの図面は差し替え願います。
改訂B。
寸法欄の1つに、太い手書きの丸がついている。
宮田の背中に、ぞわりとしたものが走った。
もし、最初のファックスを作業台に置いたまま加工を始めていたら。
もし、改訂Aの上に改訂Bを重ねていたら。
もし、誰かが古い方を見て寸法を拾っていたら。
「止めます」
宮田は思わず声を出した。
全員が宮田を見た。
宮田は、ファックスを持ったまま言った。
「この仕事、まだ削らない方がいいです」
森川の手が止まった。
「何でや」
「差し替えが来ています。改訂AとBがあります。どこが変わったか、倉田さんに確認するまで、どっちを使うか決められません」
森川は図面を見た。
「丸ついてるから、ここだけやろ」
「そうかもしれません。でも、そうじゃないかもしれません」
宮田の声は震えていた。
だが、引かなかった。
「僕、昨日の講習で、上書き保存したら元が消えるのを見ました。紙でも同じだと思います。新しい図面が来たからといって、古い方をただ重ねたら、何が変わったのか分からなくなります」
工場が静かになった。
直人は、宮田の横顔を見ていた。
自分が言うより、ずっと良かった。
これは未来知識の説明ではない。
宮田が、自分の失敗で掴んできた言葉だった。
隆夫は図面を2枚並べた。
改訂A。
改訂B。
確かに太い丸は1か所だ。
だが、よく見ると別の寸法線も少し違っていた。
ファックスの潰れか。
実際の変更か。
すぐには分からない。
「森川」
「はい」
「削るな」
森川はすぐに返事をした。
「はい」
隆夫は受話器を取った。
倉田精密へ電話する。
片岡が出た。
「黒瀬です。図面の件です。改訂AとBが来ました。どこが変わったか、正式に確認させてください」
片岡の声が少し慌てた。
電話の向こうで紙をめくる音がする。
しばらくして、片岡が戻った。
隆夫の顔が険しくなる。
「分かりました。では、改訂Bが正式。変更箇所は丸のところだけではなく、段差の逃げ寸法も変更。はい。ファックスでは読みづらいので、原紙を持ってきてください。こちらは加工を止めます」
受話器を置くと、森川が息を吐いた。
「止めて正解でしたか」
「正解や」
隆夫は短く言った。
「丸のところだけと思って進めてたら、逃げ寸法を間違えてた」
宮田は肩の力が抜けた。
膝まで力が抜けそうだった。
美智子が、改訂Aの袋に赤い紙を挟んだ。
使用禁止。
改訂B確認中。
そして、日付と時刻を書いた。
「これは残す」
美智子が言った。
「Aが来て、Bが来た。どの時点で止めたか。全部残す」
森川は宮田を見た。
「宮田、お前よう止めたな」
宮田は慌てた。
「たまたまです。昨日、上書きで失敗したから」
「失敗を持って帰ってきたんやろ。それが役に立ったんや」
森川の言葉は少し乱暴だったが、温かかった。
昼過ぎ、片岡と杉本が黒瀬精機へ来た。
原紙を持っている。
片岡は作業台の前で頭を下げた。
「申し訳ありません。こちらの内部で改訂Aのファックスが先に流れてしまいました」
隆夫は責めなかった。
「止まったのでよかったです」
「もし加工に入っていたら」
「作り直しでした」
片岡の顔が青くなる。
杉本は、宮田に向かって頭を下げた。
「止めてくださって、ありがとうございます」
宮田は困ったように手を振った。
「いえ、僕は」
直人が横から言った。
「宮田くんが止めました」
宮田が直人を見る。
直人は少しだけ笑った。
ここは譲ってはいけない。
止めた人間の名前を残す。
そうしないと、次に止める人間がいなくなる。
美智子は帳面に書いた。
KS-1995-KU-017。
改訂A受信。
改訂B受信。
加工前停止。
確認者、宮田。
宮田はその文字を見て、妙な気持ちになった。
自分の名前が、帳面に残る。
失敗した名前ではない。
止めた名前として残る。
片岡は原紙を広げた。
改訂B。
原紙を見ると、ファックスで太く見えた丸は赤鉛筆でつけられていた。
その赤丸の箇所以外にも、確かに段差の逃げ寸法が変わっている。
ファックスでは潰れて見えにくい場所だった。
杉本が言った。
「うちでも、改訂図の扱いを決めます。古い図面を回収せずに新しいものを流すのは危険です」
美智子が頷いた。
「回収できないなら、旧版使用禁止の印が要りますね」
「はい」
片岡は大きく息を吐いた。
「紙も、画面も、同じですね。新しいものが来たから安心ではない」
直人は静かに頷いた。
画面の時代は来る。
だが、紙の時代でさえ、同じ間違いは起きる。
新しいものに上書きされ、古い理由が消える。
その重さを知らないまま電子化すれば、間違いはもっと速く広がる。
その日の夕方、宮田は作業台の端で、古いファックスに赤い印を押していた。
旧版。
使用禁止。
確認済。
印を押すたび、紙が少し沈む。
画面の中の保存とは違い、手に力が残る。
森川が横に立った。
「宮田」
「はい」
「パソコン、難しいか」
「難しいです」
「続けるか」
「続けます」
「何でや」
宮田は、赤い印を見た。
「分からないまま使いたくないからです」
森川は眉を上げた。
「分からんから、続けるんか」
「はい。分からないところを残したまま使う方が、後で困ると思います」
森川はしばらく黙った。
そして、小さく笑った。
「それ、社長に言うたら喜ぶで」
宮田は照れたように笑った。
「言わないでください」
「言うわ」
「やめてください」
2人のやり取りを、隆夫は聞いていた。
聞こえていたが、何も言わなかった。
ただ、作業台に置かれた改訂Bの原紙を見て、宮田の押した旧版印に目をやった。
止める人間が育っている。
それは、機械を1台買うより大きいことかもしれない。
夜、宮田は講習のノートに1行足した。
別名で保存。
その横に、もう1行。
旧版を消すな。止めて残す。
パソコンの勉強なのか、工場の勉強なのか、自分でも分からなかった。
だが、その境目はもうどうでもよかった。
黒瀬精機では、画面に入れる前から、未来の失敗をひとつ止めたのだから。
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