第66話 画面に入れないもの
1995年11月。
大阪の町には、妙な熱があった。
テレビでは、大阪で開かれる国際会議のニュースが増えていた。
空港、道路、警備、海外から来る偉い人たち。
大阪が世界とつながる。
そんな言葉が、何度も流れていた。
その一方で、電気店の前には別の熱があった。
Windows 95。
新しいパソコン。
これからは誰でも画面で仕事をする時代。
そんな言葉が、看板にもチラシにも踊っている。
宮田悟は、日本橋の電気店の前で、そのチラシを握ったまま立っていた。
人が多い。
学生。
会社員。
店員に質問する中年の男。
箱を抱えて出てくる若い客。
パソコン売り場は、工場の材料屋とはまるで違う匂いがした。
新しいプラスチック。
紙箱。
説明書。
そして、よく分からない横文字。
「すごいな……」
宮田は思わず呟いた。
黒瀬精機で番号管理や保管対応付き治具の話が出始めてから、宮田はずっと考えていた。
番号を探す。
図面の控えを探す。
どの治具がどこへ行ったか探す。
その全部を、カード箱だけで続けられるのか。
直人は、いずれ画面で探す時代になると言っていた。
なら、パソコンを入れればいいのではないか。
宮田はそう思った。
だが、店頭に並ぶ値札を見て、すぐに息が詰まった。
本体。
モニター。
プリンター。
ソフト。
追加メモリ。
ハードディスク。
何を買えば何ができるのか分からない。
分からないものを買うには、高すぎる。
店員が近づいてきた。
「パソコンお探しですか」
「あ、いや、見るだけで」
「お仕事用ですか」
「町工場で、番号とか図面の控えを探せるようにしたいんですけど」
店員は慣れた口調で説明を始めた。
表計算。
データベース。
ワープロ。
顧客管理。
見積書作成。
言葉は魅力的だった。
だが、宮田には途中から、何を聞いているのか分からなくなった。
できる。
便利。
簡単。
その言葉が多すぎる。
便利すぎる説明は、逆に怖い。
宮田は黒瀬精機の作業台を思い出した。
隆夫が何度も言っていた。
分からないまま触るな。
直人が言っていた。
便利なものほど、持ち方を決めないと怖い。
「すみません。今日はパンフレットだけもらって帰ります」
宮田は頭を下げた。
店員は少し残念そうにしながらも、何枚かのパンフレットを渡してくれた。
帰りの電車で、宮田はそれを膝の上に広げた。
画面の中に、表が並んでいる。
数字が整っている。
検索できる。
並べ替えられる。
印刷できる。
夢のようだった。
だが、宮田の胸には、妙な重さが残った。
この表を誰が作るのか。
壊れたら誰が直すのか。
間違って消したらどうするのか。
正しい番号を入力したか、誰が見るのか。
画面に入れた瞬間、紙より強くなるものもあれば、紙より脆くなるものもある。
黒瀬精機に戻ると、工場では森川が治具の仕上げをしていた。
直人は作業台で番号カードを見ている。
宮田がパンフレットを出すと、森川がすぐに食いついた。
「何や、パソコンか」
「日本橋で見てきました」
「高いやろ」
「高いです」
宮田は正直に答えた。
美智子が奥から出てきた。
「高いって、どれくらい?」
宮田はパンフレットの値札を指した。
美智子は見た瞬間、黙った。
「……機械買えるやん」
「はい」
隆夫も手を拭きながら近づいた。
「これで何ができるんや」
宮田は困った。
「見積もりとか、番号の検索とか、台帳とか……できるらしいです」
「らしい?」
「はい。できるらしいです」
森川が笑った。
「頼りないな」
「すみません。でも、分からないまま買う方が怖いです」
その一言に、隆夫は笑わなかった。
「ええ」
宮田は顔を上げた。
「え?」
「分からんまま買うより、分からんと言える方がええ」
直人はパンフレットを手に取った。
Windows 95。
その文字を見ると、前の人生の記憶が、少しだけ浮かぶ。
ここから、パソコンは一気に身近になる。
工場にも、事務所にも、学校にも入ってくる。
表計算で見積もりを作る。
ワープロで案内文を作る。
図面も、やがて画面で扱うようになる。
インターネットも来る。
メールも来る。
だが、今すぐ黒瀬精機に全部を入れれば勝てるわけではない。
むしろ、危ない。
紙でさえ整い始めたばかりだ。
そこへ画面を入れれば、便利さに負ける。
「おとん」
「なんや」
「すぐ買わん方がええと思う」
森川が驚いた顔をした。
「直坊がそう言うんか」
「うん」
直人はパンフレットを作業台に置いた。
「いずれ要る。でも、今すぐ全部入れたら壊れる」
「パソコンが?」
「仕事の流れが」
工場が静かになった。
直人は番号カードを一枚取った。
紙のカード。
鉛筆とボールペンの文字。
汚れた端。
だが、誰でも手に取れる。
棚がどこにあるか分かる。
間違いがあれば、赤を入れられる。
停電しても読める。
「今、画面に入れてええのは、探すための索引だけやと思う」
美智子が目を細めた。
「全部やなくて?」
「全部やなくて。番号、取引先、名称、図面の場所。そこだけ」
宮田がパンフレットを見ながら言った。
「それなら、表計算でもできるかもしれません」
「でも、図面そのものは入れない」
直人は言った。
「原図も、控えも、しばらく紙で持つ。画面は、どこにあるか探すためだけ」
森川が腕を組む。
「せっかくパソコン買うなら、全部入れたくなりません?」
「なる。だから危ない」
直人は即答した。
「全部入れたら、画面にあるから安心する。紙を見なくなる。消えた時に終わる」
宮田の顔が変わった。
それは、自分が電車の中で感じた怖さと同じだった。
「バックアップ、というのが要るんですよね」
宮田が言った。
直人は頷く。
「要る。けど、その意味を分かって運用せなあかん。コピーしたつもりで壊すこともある。古い方が正しいのか、新しい方が正しいのか分からなくなることもある」
美智子がゆっくり言った。
「帳面が2冊あって、どっちが本物か分からんようになるのと一緒やね」
「そう」
隆夫はパンフレットを眺めた。
「ほな、買わんのか」
「今すぐは買わん。でも、練習はした方がええと思う」
「練習?」
直人は宮田を見た。
「宮田くん、専門校かどこかで、パソコン触れる場所ある?」
宮田は少し考えた。
「商工会の講習で、ワープロと表計算の初級があると聞きました。あと、職業訓練校でも少し」
美智子が即座に反応した。
「いくら?」
「そこまでは……」
「調べて」
「はい」
森川が苦笑した。
「奥さん、早いな」
「買う前に、人が覚えなあかん」
美智子はパンフレットを指で叩いた。
「機械を買うより先に、誰が何に使うか決める。そこが決まらんと、ただの高い箱や」
隆夫は頷いた。
「旋盤と一緒やな。置いただけでは仕事せん」
「パソコンは、たぶんもっと仕事せえへん」
直人が言うと、森川が笑った。
「何やそれ」
「人が入れた通りにしか動かん。間違えて入れたら、間違えたままきれいに出てくる」
宮田が真面目に頷いた。
「それ、怖いですね」
「怖い」
直人は紙の番号カードを見た。
「だから、最初に入れるものを絞る」
その日の午後、黒瀬精機では小さな試験が始まった。
パソコンはない。
画面もない。
作ったのは、紙の表だった。
パソコンに入れるなら、どの項目が必要か。
番号。
取引先。
名称。
納品日。
図面棚。
再製作履歴。
保管対応の有無。
問い合わせ先。
使わない項目も出した。
価格の細部。
加工条件の細かい逃げ。
職人の勘所。
相手に渡さない図面情報。
それらは、索引には入れない。
森川が不思議そうに聞いた。
「入れないものまで決めるんですか」
「決める」
直人は答えた。
「入れるものだけ決めたら、後で何でも入れたくなる。入れないものを先に決めとかんと」
美智子が頷いた。
「帳面も一緒やね。何でも書いたら、かえって見えんようになる」
宮田は鉛筆で表を写した。
彼の字は、以前より落ち着いている。
途中で手を止め、宮田は言った。
「これ、パソコンに入れる前に、紙で運用してみた方がいいと思います」
隆夫が見る。
「理由は」
「紙で使いにくい表は、画面に入れても使いにくいと思います」
工場の中が少し静かになった。
森川が小さく笑う。
「宮田、言うようになったな」
宮田は照れた。
「黒瀬さんとこにいると、変なこと考えるようになります」
直人は笑った。
「ええことやと思う」
その週、宮田は商工会へ行った。
パソコン講習の案内をもらい、費用と日程を聞いてきた。
講習は夜だった。
仕事の後に通うにはきつい。
それでも宮田は言った。
「行ってみたいです」
隆夫はすぐには答えなかった。
「仕事に響くぞ」
「はい」
「眠くなるぞ」
「はい」
「途中で嫌になるかもしれん」
「なるかもしれません」
宮田は正直に答えた。
「でも、黒瀬精機がいずれ使うなら、誰かが先に触っておいた方がいいと思います」
隆夫は腕を組んだ。
「直人やなくて、お前が行くんか」
宮田は直人を見た。
直人は何も言わなかった。
前の人生の知識がある自分が行けば、早いかもしれない。
だが、それでは黒瀬精機の力にならない。
自分だけができる仕組みは、いずれ詰まる。
宮田が覚える。
森川が現場に落とす。
美智子が帳面とつなぐ。
隆夫が仕事の線を決める。
その方が強い。
「宮田くんが行く方がええと思う」
直人は言った。
「何でや」
隆夫が聞く。
「俺が言うより、宮田くんが分からないところから覚えた方が、工場で使う時につまずきが見える」
宮田は驚いた顔をした。
「僕がつまずく前提ですか」
「つまずかへん人間の説明は、たいてい分かりにくい」
森川が笑った。
「それはあるな」
宮田は少し困ったように笑った。
「じゃあ、つまずいてきます」
美智子はすぐに言った。
「講習代は会社で出す。ただし、何を習ったか、次の日に一つだけ教えて」
「一つだけでいいんですか」
「十個聞いても忘れる。一つでええ」
その言葉に、宮田は深く頷いた。
夜、黒瀬精機の作業台には、宮田が持ち帰った講習案内が置かれていた。
パソコンはまだない。
画面もない。
それでも、工場は少しだけ画面の方へ向き始めている。
森川が帰り際に言った。
「パソコン入ったら、俺らの仕事減るんですかね」
隆夫は少し考えた。
「減る仕事もあるやろな」
森川の顔が曇る。
「でも、増える仕事もある」
「何が増えます?」
「間違えんように入れる仕事。壊れた時に戻す仕事。画面にないものを現場で確かめる仕事」
森川は渋い顔をした。
「結局、仕事増えそうですね」
「たぶんな」
隆夫は笑った。
直人は、そのやり取りを聞いていた。
未来の便利は、人を楽にする。
同時に、人を別の場所で忙しくする。
それを知っているからこそ、今は急がない。
黒瀬精機は、まだ画面に仕事を入れない。
まず、画面に入れないものを決める。
それが、未来へ向かう最初の線だった。
翌朝、宮田はいつもより少し早く来た。
手には、商工会の申込用紙。
まだ何も始まっていない。
だが、彼は作業台の前で隆夫に頭を下げた。
「勉強してきます」
隆夫は短く頷いた。
「仕事に戻せ」
「はい」
申込用紙の端に、美智子が会社名を書いた。
黒瀬精機。
その文字の下に、宮田悟の名前が並ぶ。
直人はその紙を見て、胸の奥で小さく息を吐いた。
Windows 95の箱は、まだ黒瀬精機にはない。
それでも、この工場はもう、少しだけ未来へ触れていた。
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