第65話 値段表の罠

 1995年9月。


 大阪の暑さは少しだけ弱まったが、高井田の町工場から熱が消えるわけではなかった。


 旋盤の音。


 材料を下ろす音。


 トラックのバックする警告音。


 昼前の路地には、まだ夏の名残がこもっている。


 黒瀬精機の作業場では、森川修一が小さな治具の角を仕上げていた。


 宮田悟は横で、番号札を確認している。


 KS-1995-KU-014。


 倉田精密向け。


 保管対応付き。


 番号が入った治具は、少しずつ増え始めていた。


 それは良いことだった。


 だが、良いことは必ず次の面倒を連れてくる。


 午前10時を少し過ぎた頃、倉田精密の片岡が黒瀬精機へやって来た。


 いつものように顔は穏やかだったが、手には厚めの封筒を持っている。


「黒瀬さん、今日は少し相談です」


 隆夫が作業台の手を止めた。


「何でしょう」


 片岡は封筒から紙を数枚出した。


 見積依頼書。


 保管対応付き治具の分類案。


 標準料金表作成依頼。


 その文字を見た瞬間、美智子の目が細くなった。


「標準料金表?」


「はい」


 片岡は苦笑した。


「うちの購買としては、黒瀬さんの保管対応付き治具を今後使うなら、毎回個別交渉ではなく、ある程度の料金体系が欲しいそうです」


 森川が小さく唸った。


「ついに値段表ですか」


 宮田は紙を覗き込み、少し困った顔をした。


「標準にできるんですか」


 その問いに、誰もすぐには答えなかった。


 標準にする。


 それは便利だ。


 だが、町工場の仕事には、標準にした瞬間に削られるものがある。


 相手は、一覧表の中で安い項目だけを見る。


 現物合わせの苦労も、使われ方の危なさも、図面を残す手間も、表の中では小さな欄になる。


 片岡は続けた。


「それと、もう1つ。上から、『実用新案登録済』や『標準保証』のような表示をつけられないか、という話も出ています」


 直人は思わず顔を上げた。


 隆夫の眉が動く。


 美智子が即座に言った。


「登録済みでもないものに、登録済みとは書けません」


「もちろんです」


 片岡は慌てて頷いた。


「私もそこは違うと思っています。ただ、黒瀬さんの治具が単なる部品ではなく、管理や再製作まで含めた仕組みになっているなら、分かりやすい呼び方が欲しいという話です」


「標準保証、は危ないですね」


 直人が口を挟んだ。


 片岡が見る。


「なぜ?」


「保証という言葉を使うと、何でも責任を持つみたいに聞こえます。黒瀬ができるのは、使える範囲を決めて、そこから外れたら確認することやと思います」


 美智子が頷いた。


「保証やなくて、対応範囲やね」


「うん。標準保証やなくて、標準対応範囲」


 森川が首を傾げる。


「似てるようで、だいぶ違いますね」


「違う」


 隆夫が静かに言った。


「保証は、何かあった時の責任まで含む。対応範囲は、こっちが何を見るかを決める言葉や」


 片岡は紙にメモを取った。


「標準対応範囲……確かに、その方が現実的です」


 美智子は紙を引き寄せた。


「料金表を作るにしても、細かくしすぎたらあかんと思います」


「細かく、ですか」


「番号登録、図面控え、問い合わせ、再製作確認、現物確認、使用範囲確認。全部1つずつ値段にしたら、保険の約款みたいになる」


 森川が顔をしかめた。


「現場の人間、見ませんね」


「見ない」


 美智子は即答した。


「見ない値段表は、揉めるための紙や」


 直人は、その言葉に内心で頷いた。


 前の人生で何度も見た。


 サービスを細かく分けすぎて、誰も理解できなくなる。


 安いプランを選んだ客が、後から「そこまで含まれていると思った」と言う。


 逆に、高いプランを勧めれば「余計なものを売りつけた」と言われる。


 便利な仕組みは、値段の付け方を間違えると、すぐ不信の種になる。


「3段階くらいでええと思う」


 直人が言った。


 隆夫が見る。


「3段階?」


「製作のみ。番号登録付き。保管対応付き。この3つ」


 宮田が紙に書きながら頷いた。


「分かりやすいです」


 直人は続けた。


「製作のみは、その仕事限り。再問い合わせはしない。番号登録付きは、番号と納品日と簡単な用途だけ残す。保管対応付きは、図面控え、製作履歴、使用範囲、再製作時の確認まで見る」


「現物確認は?」


 森川が聞く。


「それは別途。現物を見な分からんものは、表の中に入れたら危ない」


 片岡は深く頷いた。


「使いやすいですね。購買にも説明しやすい」


 美智子はすぐに言った。


「説明しやすいのはええです。でも、安い方ばかり選ばれたら意味がありません」


 片岡は言葉に詰まった。


 それは十分あり得る。


 購買は価格を見て判断する。


 現場は止まった時に困る。


 その間に挟まるのが片岡の仕事だった。


「対象を選ぶ基準が必要ですね」


 杉本の声がした。


 いつの間にか、片岡の後ろから顔を出していた。


 隆夫が驚く。


「杉本さんも来てたんですか」


「すみません。現場側の意見を聞かれるかと思って」


 彼女は少し緊張していたが、目はしっかりしていた。


「止まったら困るもの。間違えたら危ないもの。再製作の可能性があるもの。この3つに当てはまるなら、保管対応付きにした方がいいと思います」


 美智子は短く頷いた。


「それ、料金表の横に書きましょう」


「横に?」


「どれを選ぶかの目安です。値段だけ見て選ばれたら困る」


 直人は、そこにもう一つ足した。


「それと、『迷ったら上の対応にする』やなくて、『迷ったら現場確認』がいいと思う」


 隆夫が笑う。


「上の対応に誘導せんのか」


「必要ないのに高いの選ばせたら、次から信用されへん」


 美智子が直人を見た。


「商売人らしいこと言うやないの」


「おかんの子やから」


「調子乗らん」


 作業場に少しだけ笑いが起きた。


 だが、話はまだ終わっていない。


 午後、伊原弁理士が黒瀬精機に呼ばれた。


 夏の暑さに負けたような顔で、汗を拭きながら入ってくる。


「黒瀬さん、今度は何を始めるんですか」


 隆夫は苦笑した。


「始める前に止めてもらおうと思いまして」


 伊原は紙を受け取り、目を通した。


 標準対応範囲。


 製作のみ。


 番号登録付き。


 保管対応付き。


 実用新案の表示案。


 伊原は最後の欄で、眼鏡を押し上げた。


「ここは慎重に」


「やっぱり危ないですか」


「登録済みと書けるのは、本当に登録されたものだけです。出願中という表現も、使い方には気をつけた方がいい。相手に誤解させる表示は避けるべきです」


 直人は黙って聞いていた。


 当然の話だ。


 だが、こういう当然が一番危ない。


 営業上は強い言葉が欲しくなる。


 登録済み。


 保証付き。


 標準対応。


 安心。


 言葉が強いほど売りやすい。


 しかし、売りやすい言葉は、後で首を絞めることがある。


 伊原は紙の端を指した。


「黒瀬精機として守るべきなのは、発明そのものだけではありません。表示の正確さです」


「表示の正確さ」


 隆夫が繰り返す。


「はい。できることを大きく見せすぎない。できないことを曖昧にしない。町工場の信用は、そういうところでも削れます」


 美智子が静かに言った。


「ほな、登録済みは使いません」


「登録されたものが出た時だけにしましょう」


 伊原は頷いた。


「それまでは、黒瀬精機番号管理方式、くらいの言い方が安全です」


 森川が吹き出しそうになった。


「堅いなあ」


「堅い方が燃えにくいんです」


 伊原は真顔で返した。


 直人は少し笑った。


 燃えにくい言葉。


 それもこれからの工場に必要なものかもしれない。


 夕方近く、試しに1枚の案内紙ができた。


 派手なものではない。


 カタログというより、説明書に近い。


 黒瀬精機 治具・確認具対応区分


 1 製作のみ

 2 番号登録付き

 3 保管対応付き


 その下に、小さくこう書かれている。


 迷った場合は、現物・使用場所を確認します。


 保証ではなく、対応範囲を決めるための区分です。


 図面控えの有無、再製作対応、問い合わせ対応は区分により異なります。


 森川はそれを見て、少し複雑な顔をした。


「これ、工場というより店みたいですね」


「店でもあるんやろ」


 隆夫が言った。


「うちは腕だけで食うてるつもりやったけど、相手に選んでもらわな仕事にならん」


「職人の仕事がメニューになるんですか」


「全部はならん」


 隆夫は治具を手に取った。


「でも、相手が頼む前に分かってた方がええこともある」


 宮田が小さく言う。


「僕なら、この方が頼みやすいです」


 森川が宮田を見る。


「何でや」


「何を頼んでいいか分からない時、選び方が見えるので」


 森川は少し考えた。


 そして、渋々という顔で頷いた。


「そういうもんか」


「そういうもんです」


 宮田が珍しく言い切った。


 作業場がまた少しだけ笑った。


 その日の終わりに、片岡が試作の案内紙を持ち帰ることになった。


 杉本も一緒に見るという。


 黒瀬精機の玄関先で、片岡は案内紙を封筒に入れた。


「購買は、これを見れば説明しやすくなると思います」


 隆夫は言った。


「安い方ばかり選ばれたら困ります」


「そこは現場側でも言います」


 杉本が答えた。


「止まったら困るものには、保管対応が必要だと」


 直人は彼女を見た。


 以前より、言葉に芯がある。


 誰かが決めたことを受け取るだけではなく、現場から言う人になりつつある。


「お願いします」


 直人が頭を下げると、杉本も少し慌てて頭を下げた。


「こちらこそ」


 片岡たちが帰った後、伊原も鞄を持った。


「黒瀬さん」


「はい」


「これは、伸びるかもしれません」


 隆夫が目を上げる。


「この料金表がですか」


「料金表というより、考え方です」


 伊原は工場の中を見渡した。


「町工場は、どうしても作る物だけで値段を見られます。でも、黒瀬さんは、作った物が後で戻れる仕組みまで売ろうとしている。これは簡単ではありませんが、強いです」


 美智子が言った。


「強い分、真似されますね」


「されます」


 伊原はあっさり答えた。


「だから、表示と言葉と記録を雑にしないでください。真似されても、黒瀬精機の方がきちんとしていると言われるようにするしかない」


 隆夫は深く頷いた。


「分かりました」


 伊原が帰ると、工場の中に少しだけ静けさが戻った。


 直人は試作案内紙の控えを見た。


 未来のネット通販なら、画面に並ぶような選択肢だ。


 標準。


 オプション。


 問い合わせ。


 保証範囲。


 だが、ここにあるのは白黒の紙1枚。


 コピー機で刷れば少し歪む。


 手渡しすれば、油のついた指で端が汚れる。


 それでも、始まりとしては十分だった。


 隆夫が紙を見ながら言った。


「直人」


「何」


「値段表を作ったら、仕事が安く見えると思ってた」


「うん」


「でも、選び方を出さな、相手はもっと安いところへ行くんやな」


 直人は頷いた。


「選ばれ方を決めとかんと、値段だけで選ばれる」


 隆夫はしばらく黙った。


 それから、案内紙を作業台の端に置いた。


「これは、安売りの紙やないな」


「うん」


「黒瀬精機が何を売って、何を売らんかを書いた紙や」


 その言葉に、美智子が頷いた。


「ほな、そこだけは間違えんようにせな」


 夜、森川が最後の治具を箱へ収めた。


 番号札は見やすい位置にある。


 箱の内側には、対応区分が小さく挟まれていた。


 製作のみではない。


 番号登録付きでもない。


 保管対応付き。


 森川は箱の蓋を閉める前に、ぽつりと言った。


「メニューって言われると嫌やけど、これはこれで、職人の仕事守る紙かもしれませんね」


 宮田が隣で頷いた。


「どこまでが仕事か、先に言えますから」


 森川は蓋を閉めた。


 軽い音がした。


 ただの納品箱ではない。


 中には治具がある。


 番号がある。


 戻る道がある。


 そして、黒瀬精機がただでは渡さない境目がある。


 その箱は翌朝、田端の便に乗る。


 行き先は倉田精密。


 だが、運ばれるのは金属だけではなかった。


 黒瀬精機が、自分たちの仕事の値段を自分たちで決めるための、小さな紙も一緒に運ばれていく。


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