第64話 嫌な顔の値段
1995年8月。
大阪の夏は、朝から容赦がなかった。
田端の代車は、細い路地でゆっくり止まった。
南田板金の前である。
工場の中からは、板を曲げる鈍い音がしていた。
田端は荷台を開け、空箱を降ろす。
汗が首筋を流れた。
「暑いなあ」
奥から清水が出てきた。
額にタオルを巻き、手には新しい荷札を持っている。
MD-018。
南田板金発。
大西樹脂行き。
曲げ板、傷注意。
直人たちと決めた書き方に、南田板金も少しずつ慣れてきた。
「清水くん、今日はきれいに書けてるやん」
「字だけは前からましです」
「そこは否定せんのやな」
田端が笑うと、清水も少し笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
工場の奥から、南田が苦い顔で出てきた。
「田端さん。ちょっとええか」
「はい」
「小池製作所の荷物、今日一緒に乗せられるか」
田端は荷台の中を見た。
「方面は?」
「倉田さんの近くや」
「荷札はあります?」
南田は言いにくそうに口を曲げた。
「それがな。小池さん、荷札やら手数料やら、えらい嫌がっとる」
田端は小さく息を吐いた。
小池製作所。
従業員2人の小さな工場で、簡単な曲げ物や穴あけを請けている。
腕は悪くない。
ただ、昔から何でも「ついで」で済ませたがるところがあった。
「嫌がるのは分かります」
田端は答えた。
「けど、まとめ便に乗せるなら最低限の札は要りますわ」
「俺もそう言うたんやけどな」
南田は頭をかいた。
「『昔は名前書いた紙貼っときゃ届いた』って」
「昔と同じ荷台やないんです」
田端は荷台の中を指した。
黒瀬精機のKS。
大西樹脂のON。
吉岡メッキのYO。
倉田精密のKU-W。
いくつもの札が、箱ごとに違う顔をして並んでいる。
「今は、1台に何社も乗ります。行き先も中身も違う。薬品に近づけたらあかんもんもある。濡らしたらあかんもんもある。頭の紙だけでは怖い」
南田は黙って頷いた。
清水が横から言う。
「僕、小池さんとこへ行ってきましょか」
「お前が?」
南田が驚く。
「はい。荷札の書き方、見せたら早いかもしれません」
田端は清水を見た。
少し前なら、面倒なことから逃げそうな若い職人だった。
今は、荷札を自分の手で持っている。
「ほな、一緒に行こか」
田端が言うと、清水は頷いた。
小池製作所は、南田板金から歩いて数分のところにあった。
工場の前には、小さな段ボール箱が3つ置かれている。
箱の上には、油性ペンで「倉田行き」とだけ書かれていた。
田端はその字を見た瞬間、眉を寄せた。
「小池さん」
中から小池が出てきた。
白髪混じりで、腕の太い男だった。
「おう、田端さん。これ、ついでに乗せといて」
「このままでは乗せられません」
田端は静かに言った。
小池の顔がすぐに険しくなる。
「何でや。倉田行きって書いてるやろ」
「倉田さんのどこです?」
「どこって、いつものとこや」
「いつものでは分かりません」
「田端さんまで黒瀬さんとこみたいなこと言い出すんか」
小池の声に苛立ちが混じった。
清水が一歩引きそうになる。
田端は引かなかった。
「黒瀬さんとこみたい、でええです。間違えて届いたら困るのは小池さんですやろ」
「荷札に手数料やなんやて、そんな細かいことしてたら仕事にならへん」
「間違えた荷物を探す方が仕事になりません」
田端の声は柔らかかったが、硬い芯があった。
小池は腕を組んだ。
「ほな、何を書いたらええんや」
清水が荷札を差し出した。
「小池さん、これ見てください。南田で使ってるやつです」
札には、発工場、行き先、部署、品名、数量、注意が分かれていた。
小池はそれを見て、鼻を鳴らした。
「こんなん毎回書くんか」
「まとめ便に乗せる分だけです」
清水は答えた。
「うちも最初は面倒やと思いました。でも書く場所が決まってる方が、かえって迷いません」
「若いのにえらい真面目やな」
「間違えた時に怒られるのも、だいたい若い方なんで」
清水の言葉に、小池は少し黙った。
田端は、箱の1つを指した。
「これ、中身は何です?」
「穴あけした小板や」
「数量は」
「20」
「倉田さんのどの部署へ?」
「ええと……検査やったかな」
「検査なら、KU-Kですね」
「何やそれ」
「倉田さんの中でも行き先を分け始めてます。洗浄区画と検査で、荷物を混ぜんように」
小池は面倒くさそうに頭をかいた。
「そんなもん、向こうで分けたらええやん」
「向こうで分ける人の時間は、ただやありません」
田端は言った。
「小池さんが書かんかった分、誰かが向こうで探します。その時間、誰が払うんですか」
工場の中が静かになった。
小池は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
清水は、田端を横目で見た。
普段の軽い材料屋の顔ではない。
荷物の先にいる人間の時間まで見ている顔だった。
小池はしぶしぶ奥へ戻り、古い伝票を出してきた。
「検査や。倉田の検査」
「ほな、KU-K」
「品名は?」
「確認用小板。20枚。傷注意」
清水が代わりに札へ書いた。
小池はそれを見ていた。
「字、うまいな」
「字だけはましなんです」
南田の工場で言ったのと同じ言葉を、清水はもう一度言った。
小池は少しだけ笑った。
だが、3つ目の箱の前で清水の手が止まった。
「これ、同じですか」
「同じや」
小池は即答した。
清水は蓋を少し開け、中を見た。
小さな金具が入っている。
だが、先の2箱と形が違った。
「田端さん」
「何や」
「これ、違います」
小池が顔をしかめる。
「何が違うねん」
「先の2箱は穴あけ小板です。これは曲げ金具です」
「……あ」
小池の顔が変わった。
奥から、もう1人の職人が慌てて出てきた。
「社長、それ、吉岡さん行きのやつです」
「何やて」
「昨日、置き場が足りんで一緒に置いたんです」
小池は箱を見下ろした。
段ボールには確かに「倉田行き」としか書いていない。
もし田端がそのまま積んでいれば、吉岡メッキへ行くはずの曲げ金具が倉田精密へ届いていた。
さらに悪ければ、倉田側で違う荷物として受けられていたかもしれない。
田端は何も言わなかった。
言わないことが、かえって重かった。
小池は額の汗を拭いた。
「……荷札、いるな」
「要ります」
田端は短く答えた。
「手数料もか」
「まとめ便に乗せるなら、少しだけいただきます。単独で走らせるよりは安いです。でも、ただではできません」
小池はしばらく黙った。
そして、曲げ金具の箱を自分で奥へ戻した。
「分かった。今日から書く」
清水が、ほっと息を吐いた。
田端は札を1枚、小池へ渡した。
「最初は面倒です。けど慣れたら、探すより早いです」
「ほんまかいな」
「たぶん」
「そこは言い切れや」
小池が苦笑し、空気が少し緩んだ。
田端は2箱だけを荷台へ載せた。
曲げ金具の箱は残した。
間違いが、荷台に乗る前に止まった。
それだけで、田端の背中は少し軽くなった。
昼前、倉田精密の荷受け場に着いた。
若い購買担当が、前より慎重な顔で出てくる。
「田端さん、今日は小池さんの荷物もあるんですね」
「ああ。KU-K。検査行き。確認用小板20枚、傷注意」
田端は声に出して読んだ。
担当も同じように札を見た。
「KU-K。検査行き。確認用小板20枚」
箱を受け取る手が、前より遅い。
だが、その遅さが田端にはありがたかった。
速く受けて、後で探すよりずっといい。
杉本が通りかかり、箱を見た。
「部署印、入ってますね」
「小池さんとこにも書いてもらいましたわ」
「すごい」
「すごいというか、さっき違う荷物が混ざりかけまして」
杉本の顔が引き締まる。
「止まったんですね」
「止まりました」
田端は少しだけ笑った。
「止まる便に、名前変えましょか」
杉本は真面目に考え込んだ。
「少し、いい名前かもしれません」
「冗談ですて」
「でも、止まれるのは大事です」
その言葉に、田端は返事をしなかった。
冗談のつもりで言ったことが、思ったより深く返ってきたからだ。
帰り道、清水は助手席で黙っていた。
南田板金まで送る約束になっている。
田端は信号待ちで横を見た。
「清水くん、疲れたか」
「少し」
「小池さん、怖かったか」
「最初は」
「でも、よう言うたな。違うって」
清水は膝の上の荷札を見ていた。
「前なら、たぶん黙ってました」
「何で今日は言えたんや」
「荷札があったからです」
清水は小さく言った。
「何が正しいか、書く場所があったから。違うって言いやすかったです」
田端は黙ってハンドルを握り直した。
荷札は、荷物のためだけではない。
若い職人が、違うものを違うと言うための足場にもなる。
そんなことまで、今朝は考えていなかった。
南田板金に戻ると、南田が待っていた。
「どうやった」
清水が答える前に、田端が言った。
「小池さんとこ、違う荷物が混ざりかけてました。清水くんが止めました」
南田は清水を見た。
「お前が?」
「はい」
「よう見たな」
清水は少しだけ背筋を伸ばした。
「荷札のおかげです」
南田は荷札を受け取り、しばらく見た。
「面倒やけど、いるな」
「いると思います」
清水ははっきり答えた。
その声に、南田は少し驚いた顔をした。
田端はそれを見て、何も言わずに笑った。
黒瀬精機へ戻ったのは、夕方近くだった。
美智子は帳面ではなく、田端の顔を見た。
「どうでした?」
「嫌な顔はされました」
「でしょうね」
「でも、途中で違う荷物が見つかりました。荷台に乗せる前に止まりました」
美智子の表情が少し変わった。
隆夫も奥から出てくる。
「どこで?」
「小池さんとこです。倉田行きの箱に、吉岡さん行きの曲げ金具が混ざってました」
「危なかったですね」
「はい」
田端は少し間を置いて言った。
「まとめ便の手数料、ちゃんと取ります」
美智子は頷いた。
「それでええと思います」
「嫌がられますわ」
「嫌がられても、今日止まったなら説明できます」
田端は、胸のあたりに手を当てた。
「そうなんです。今日は説明できるんです」
ただの手間ではない。
ただの紙ではない。
今日、違う荷物が止まった。
清水が言えた。
小池が納得した。
その事実が、田端の背中を支えている。
直人は、工場の入口で2人の会話を聞いていた。
未来の物流では、番号もバーコードも当たり前になる。
荷物を追う仕組みも、問い合わせる番号も、画面の中に入っていく。
だが、その前に必要なのは、もっと小さなことだ。
間違いを見つけた時に止めること。
止めた人間を責めないこと。
止める手間をただにしないこと。
その日の夜、田端は自分の事務所で、初めて新しい項目を書いた。
まとめ便管理手数料。
字にすると、少し大げさに見えた。
田端は苦笑した。
「荷札代、でええか」
そう呟いてから、首を横へ振った。
違う。
ただの荷札代ではない。
荷物が間違ったまま走り出す前に、止まるための金だ。
田端はもう一度、伝票に書き直した。
まとめ便確認料。
小さな字だった。
大きな金額でもない。
だが、消してはいけない欄だった。
田端は判を押した。
その音が、狭い事務所に乾いて響いた。
荷物を運ぶ仕事に、止まるための値段がついた日だった。
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