第63話 荷札の行き先

 1995年7月の終わり。


 田端は朝から、代車の荷台を前にして顔をしかめていた。


 高井田の路地はまだ湿っている。


 黒瀬精機の前には、小さな箱が5つ並んでいた。


 黒瀬精機の治具箱。


 南田板金の曲げ部品。


 大西樹脂の樹脂板。


 吉岡メッキへ向かう小物。


 倉田精密へ届ける確認具。


 震災前なら、それぞれが別々に動いていた荷物だ。


 今は、田端の便に少しずつ乗る。


 その代わり、田端の荷台は前より難しくなった。


「直坊、これ見てみ」


 田端は腰に手を当てたまま、箱の札を指した。


「南田はMD、大西はON、黒瀬さんとこはKS。ここまではええ。けど、吉岡さんとこがYOで、倉田さんがKUやろ」


「うん」


「目ぇ離したら、KSとKUを見間違えそうになるわ」


 直人は荷札を見た。


 確かに似ている。


 ローマ字の頭文字を振れば済む、というほど簡単ではなかった。


 黒瀬精機はKS。


 倉田精密はKU。


 どちらもKから始まる。


 焦っていれば、読み飛ばす。


「荷札の色も分けた方がええかもしれん」


「色だけやと怖いで。汚れたら分からん」


「ほな、形も?」


「行き先の枠を変えるとか。黒瀬発は四角、倉田行きは丸印、薬品近くは斜線とか」


 田端は渋い顔をした。


「だんだん荷札屋みたいになってきたな」


「田端さん、荷物運んでるだけやなくて、行き先も運んでるんやから」


「うまいこと言うなあ」


 田端は笑ったが、すぐに真顔に戻った。


「けどな、こういう手間を運賃に入れるいうたら、嫌な顔する人もおるんや」


「もう言われた?」


「言われた」


 田端は荷台の扉を開けた。


「南田さんは分かってくれた。吉岡さんも、薬品絡むからむしろ厳しめにしてくれ言うてた。せやけど、他の小さいとこは『荷札に金取るんか』って顔する」


 直人は黙った。


 見えない仕事に値段をつける。


 それは黒瀬精機だけの問題ではなかった。


 田端の便にも同じことが起きている。


 積む。


 運ぶ。


 降ろす。


 それだけなら、値段は見えやすい。


 だが、間違えないように分ける。


 急ぎと急ぎでないものを見分ける。


 混ぜてはいけない荷物を離す。


 届け先で探せるようにしておく。


 そこには時間も気も使う。


 しかし、荷物が無事に届いている間は、その手間は見えない。


 田端は、荷台に箱を積みながら言った。


「今日は直坊も乗るか」


「ええの?」


「黒瀬さんとこから倉田さんまでや。帰りは森川さん乗せる予定やから、途中まで」


 工場の奥から美智子が出てきた。


「直人、行くならメモだけ持って行き」


「メモ?」


「荷物がどこで詰まるか。誰が嫌な顔したか。どの札が見にくいか。見てき」


 田端が肩をすくめた。


「奥さん、俺の便を研究材料にしてません?」


「してます」


「はっきり言いますなあ」


「田端さんが潰れたら、うちも困りますから」


 その一言で、田端は笑うのをやめた。


「ほな、見てもろた方がええですわ」


 直人は助手席に乗った。


 運転は田端だ。


 路地を抜ける時、田端はいつもよりゆっくり走った。


 震災から半年。


 道はもう普通に見える。


 だが、物流はまだ普通には戻っていない。


 戻らない便。


 変わった出荷元。


 細った荷台。


 町の小口をまとめることで、ようやく埋まる隙間。


 田端の代車は、その隙間を縫うように走っていた。


 最初の納品先は吉岡メッキだった。


 吉岡は荷札を見るなり、箱を受け取らずに田端を見た。


「これは薬品棚近くに置かんでええやつか」


「吉岡さんとこ向けはYOの斜線入りです。こっちは黒瀬さんとこのKSで、倉田さん行き」


「危ないな。箱の大きさが似とる」


 吉岡は若い作業者を呼んだ。


「おい、荷札見る時は頭の文字だけ見るな。行き先と中身を声に出せ」


 若い作業者は、少し緊張した顔で読み上げた。


「YO-007。吉岡メッキ。薬品棚札差し用。大西樹脂発」


「よし。それだけ受けろ」


 直人はその様子を見ていた。


 荷札が仕事をしている。


 ただ貼ってあるのではない。


 人を止め、声を出させ、確認させている。


 田端が小声で言った。


「吉岡さんとこは助かるわ。あの人、怖がるのが早い」


「怖がるのが早い?」


「事故る前に怖がれる人は強いんや」


 田端らしい言い方だった。


 次は大西樹脂。


 大西は樹脂板を受け取ると、荷札の端を見て眉を寄せた。


「この紙、濡れたら剥がれますね」


 田端が苦笑した。


「そこまで来たか」


「うちの樹脂板、濡れたら困るものもありますし、荷札が剥がれたら意味がないです」


 直人は荷札の糊を見た。


 確かに安い紙札だ。


 梅雨時の荷台では心もとない。


「大西さん、透明の薄いカバー作れます?」


「作れますけど、そこまでする荷物と、しない荷物を分けた方がいいですね」


「全部やったら高いですもんね」


「そうです。必要なものだけ」


 大西は当然のように言った。


 直人は少し笑った。


 皆が同じことを言うようになっている。


 全部ではない。


 必要なものだけ。


 ただし、必要なものには手間をかける。


 田端は伝票に何か書き込んだ。


「荷札カバー、要検討」


「田端さん、それも手間賃やで」


「直坊まで奥さんみたいなこと言うようになったな」


「染まってきた」


「怖いなあ、黒瀬さんとこは」


 笑いながらも、田端は伝票をしまった。


 昼前、倉田精密に着いた。


 荷受け場では、いつもの担当ではなく、若い購買担当が待っていた。


 田端が箱を下ろそうとした時、その担当が先に手を伸ばした。


「倉田行き、これですね」


 彼が取ろうとしたのは、KSの箱だった。


 直人の背中に冷たいものが走る。


 田端がすぐ止めた。


「それ、黒瀬さんとこ発の箱や。KSは黒瀬発、KUは倉田管理品。行き先は番号の頭やなくて、下の納品先と経由先まで読まなあかん」


 若い担当は手を止めた。


 箱を見る。


 KS-012。


 黒瀬精機発。


 納品先は倉田精密。


 その横に、もう1つ箱がある。


 KU-012。


 倉田精密管理品。


 行き先は吉岡メッキ経由。


 担当の顔が青くなった。


「すみません。倉田行きって見えたので」


「分かる。だから怖いんや」


 田端は怒らなかった。


 ただ、箱を2つ並べて見せた。


「同じ012でも、頭が違う。発と行き先も違う。中身も違う。ここ見んとあかん」


 直人は2つの箱を見た。


 この場で止まったからいい。


 だが、もし流れていたら。


 別の場所で開けられ、別の棚に置かれ、誰かが探すことになっていた。


 若い担当は深く頭を下げた。


「申し訳ありません」


 田端は首を横に振った。


「謝るより、今の間違いを残した方がええ。次も同じこと起きる」


 その言葉に、直人は田端を見た。


 田端は前からこういう言い方をする人間ではなかった。


 荷物を届ける人から、荷物の流れを見る人へ変わっている。


 そこへ杉本が来た。


 彼女は事情を聞くと、すぐに箱を見比べた。


「これ、倉田の中でも間違えます」


 若い担当が顔を上げる。


「やっぱり?」


「はい。発番号と管理番号が混ざっています。倉田側の管理番号には、頭に部署印を入れた方がいいと思います」


 直人は頷いた。


「KUだけやと広すぎるんですね」


「そうです。洗浄区画ならKU-W、検査ならKU-Kみたいに分けないと、社内で迷います」


 購買担当は小さく息を吐いた。


「増えますね、番号」


 杉本は静かに返した。


「増やすためではなく、迷わないためです」


 その一言で、担当は黙った。


 田端は少しだけ嬉しそうに笑った。


「ええこと言いますな」


 杉本は照れたように俯いた。


 帰りの車内で、田端はハンドルを握りながら言った。


「今日のあれ、昔なら見逃してたかもしれん」


「箱?」


「ああ。倉田行きってだけで渡してた。向こうも受けてた。後で違うとなって、誰が悪いって揉める」


「番号と荷札で止まった」


「せや。止まったんや」


 田端は前を見たまま、少しだけ声を低くした。


「止まる荷札にも、値段つけなあかんな」


 直人は笑わなかった。


「うん。つけなあかんと思う」


「嫌がられるで」


「でも、間違えて探す時間より安い」


「ほんま、奥さんみたいなこと言うな」


 田端はそう言って笑った。


 けれど、その笑いには諦めではなく、どこか腹をくくった響きがあった。


 黒瀬精機へ戻ると、美智子がすぐに聞いた。


「どうやった?」


 田端は荷台の後ろに回り、空になった場所を叩いた。


「止まりました」


「何が?」


「間違いが」


 田端は、倉田の荷受け場で起きたことを話した。


 KSとKU。


 同じ012。


 発番号と行き先。


 若い担当が取り違えかけたこと。


 杉本が部署印を提案したこと。


 美智子は最後まで黙って聞いた。


「それで?」


「田端の便でも、荷札の書式を決めます。全部やなくて、まとめ便に乗る荷物だけ。工場印、行き先、発番号、中身、注意。あと、濡れて困るものはカバー」


 田端は少し照れたように続けた。


「その分、まとめ便の手数料を少し見直します」


 美智子は頷いた。


「それでええと思います」


「嫌がられますわ」


「嫌がられるやろね」


「奥さん、もうちょい励ましてくれてもええんちゃいます?」


「嫌がられても、やるんでしょう?」


 田端は一瞬黙り、それから笑った。


「やります」


 隆夫が工場の奥から出てきた。


「田端さんがそこまでやってくれるなら、うちも荷札の書き方を揃えます」


 森川が言う。


「また決まりごと増えますね」


 田端がすぐ返した。


「森川さん、決まりごと増えるんやなくて、迷う時間を減らすんですわ」


 森川は目を丸くした。


 それから、にやりと笑った。


「言うようになりましたね」


「黒瀬さんとこに出入りしてたら、こうなりますわ」


 工場に少しだけ笑いが起きた。


 その日の夕方、南田板金の清水が黒瀬精機に顔を出した。


 田端の便で戻ってきた空箱を取りに来たのだ。


 清水は新しい荷札を見て、眉をひそめた。


「これ、うちも書くんですか」


 田端は答えた。


「まとめ便に乗せる分だけな」


「面倒ですね」


「面倒や」


 田端は否定しなかった。


「でも、間違えて違うとこ行ったら、もっと面倒や」


 清水は黙った。


 少し前なら、そこで不満を言ったかもしれない。


 だが彼は、荷札を手に取ってじっと見た。


「……これ、書く場所が決まってる方が楽かもしれませんね」


「せやろ」


「毎回、どこに何書くか迷わんでええ」


 直人は清水を見た。


 清水という若い職人が、少しずつ「迷わない形」の価値を掴んできているのは分かった。


 清水は荷札をポケットに入れた。


「南田さんに見せます」


「頼むわ」


 田端が言った。


 夜になる前、田端の代車が黒瀬精機の前を出た。


 荷台は軽い。


 だが、今日の便で分かったことは重かった。


 番号が似ているだけで、人は間違える。


 行き先が書いてあるだけでは足りない。


 荷物は、届いた時だけでなく、途中で止まれる形にしなければならない。


 直人は路地に立ち、田端の車を見送った。


 尾灯は角を曲がる前に、一度だけブレーキで赤く光った。


 止まるための赤だった。


 走るためだけではない。


 止まれるから、また走れる。


 その日、田端の荷台には、新しい仕事が1つ増えた。


 荷物を運ぶ仕事ではない。


 間違いが運ばれる前に、止める仕事だった。


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