第60話 探せる工場

 1995年5月。


 倉田精密の洗浄区画で、杉本は古い納品箱を前にして立ち尽くしていた。


 箱は無事ではなかった。


 角は潰れ、蓋の片側は割れ、貼られていた送り状も半分剥がれている。


 阪神間の協力先から戻ってきた荷物だった。


 震災で工場そのものは全壊しなかった。


 だが棚が崩れ、保管されていた治具や確認具の一部が使えなくなった。


 その中に、倉田精密が昔から使っていた小さな位置決め治具があった。


「図面は?」


 片岡が聞いた。


 杉本は箱の中を探した。


 油紙。


 古い緩衝材。


 曲がった金具。


 割れた樹脂板。


 だが図面はない。


「ありません」


「向こうには?」


「確認中です。ただ、工場の書庫もかなり崩れたそうで……」


 片岡は目を閉じた。


 その治具がなければ、ある部品の洗浄後確認が止まる。


 完成品そのものではない。


 だが、確認が止まれば出荷が止まる。


 出荷が止まれば、さらに先の組み立ても止まる。


「現物から作り直すしかないですか」


 杉本が言うと、片岡は箱の蓋に残った送り状を見た。


 汚れた紙の端に、かすれた文字があった。


 黒瀬精機。


 その横に、手書きで番号が残っている。


 1989-KU-IR-001


 片岡は指でその文字をなぞった。


「黒瀬さんに電話して」


「図面がないのにですか」


「この番号が残ってる」


 杉本は送り状を見た。


「これだけで分かりますか」


「普通は分からない」


 片岡は少しだけ息を吐いた。


「でも、黒瀬さんなら分かるかもしれない」


 その日の午後、黒瀬精機の電話が鳴った。


 美智子が受話器を取る。


「黒瀬精機です」


 相手の声を聞いた美智子の顔が変わった。


「片岡さん。はい。……番号? もう一回お願いします」


 作業台の向こうで、隆夫が顔を上げた。


 直人も手を止める。


 美智子は鉛筆を取った。


「1989、KU、IR、001……はい。古い納品箱に残ってたんですね」


 受話器を置くと、美智子はその紙を作業台に置いた。


「倉田精密さん。古い治具の再製作」


 森川修一が眉を寄せる。


「図面あります?」


「相手側にはないらしい」


「ほな、現物からですか」


 美智子は首を横に振った。


「番号が残ってる」


 直人はその数字を見て、胸の奥が少し熱くなった。


 1989-KU-IR-001


 西暦4桁。


 取引先。


 用途。


 連番。


 あの頃、まだ周りに笑われながら決めた番号だった。


 2桁の年では後で迷う。


 取引先名だけでは同じ仕事が並ぶ。


 用途を入れなければ、何の治具か分からない。


 直人はそう言った。


 美智子は面倒くさそうな顔をしながらも、番号を帳面に残した。


 隆夫は、治具の端に小さく刻むことを決めた。


 森川は最初、そこまでいるのかと言った。


 だが今、番号だけが残っていた。


「おかん、索引箱」


「もう出してる」


 美智子は作業台の下から、古いカード箱を出した。


 パソコンではない。


 検索画面でもない。


 だが、黒瀬精機には索引箱があった。


 仕事番号ごとに、取引先、納品日、図面控えの場所、材料、関連する治具、再注文時の注意が書かれている。


 直人が高校生の頃に言い出したものだ。


 当時は、まだ早いと皆が思った。


 だが震災の後、図面の控えを分けた時、その価値が少しずつ見え始めた。


 美智子はカードを繰った。


「1989……KU……」


 指が止まる。


「あった」


 カードを作業台に置く。


 そこには、薄い鉛筆とボールペンの字が混じっていた。


 1989-KU-IR-001

 倉田精密

 洗浄後確認用位置決め治具

 材質 S45C 一部樹脂当て

 図面控え 棚B-3

 写し 伊原事務所封筒7

 注意 水気あり。樹脂当て劣化確認。用途外固定禁止。


 森川が小さく息を吐いた。


「残ってるんですか」


 美智子は席を立った。


「棚B-3。森川くん、お願い」


「はい」


 宮田悟が先に動きかけ、森川に止められた。


「焦るな。番号を声に出せ」


「1989-KU-IR-001。倉田精密。洗浄後確認用位置決め治具」


「よし。俺と一緒に探すぞ」


 2人が図面棚へ向かう。


 直人はカードの文字を見つめていた。


 探せる。


 それだけのことが、今はこんなに強い。


 前の人生で何度も見た。


 作れる腕はあるのに、図面がない。


 誰が作ったか分からない。


 材料が分からない。


 仕様変更の理由が分からない。


 結局、一から作り直す。


 時間がかかる。


 金がかかる。


 取引先に切られる。


 腕がなくて負けるのではない。


 探せなくて負ける工場がいくつもあった。


「直人」


 隆夫が声をかけた。


「何や」


「顔、にやけとるぞ」


 直人は慌てて口元を押さえた。


「にやけてへん」


「にやけてる」


 隆夫はカードを指で叩いた。


「お前が昔、やたら番号を残せ言うてた意味、ちょっと分かった」


 直人はカードから目を離さなかった。


「作れるのに探せへんかったら、作られへんのと同じやから」


 隆夫は短く頷いた。


「その通りやな」


 しばらくして、森川と宮田が図面を持って戻ってきた。


 古い青焼きではない。


 黒瀬精機の控え用に写した紙だった。


 端に小さく番号が入っている。


 1989-KU-IR-001


 隆夫は図面を広げた。


 森川が横から覗く。


「これ、樹脂当てがありますね」


「大西さんとこに頼んだやつや」


「現物が戻ってくるなら、摩耗を見たいですね」


「見よう」


 美智子が電話を取った。


「片岡さん。図面、こちらに控えがあります。ただし、そのまま再製作できるかは現物確認してからです。樹脂当ての劣化と、使い方の確認が必要です」


 受話器の向こうで、片岡が何かを言った。


 美智子はすぐに答えた。


「急ぎなのは分かります。でも、用途が変わってたら同じものを作っても危ないです」


 その声は強かった。


 片岡もそれ以上押さなかった。


 夕方、倉田精密から片岡と杉本が治具を持って来た。


 箱に入ったそれは、無残というほどではない。


 だが、一部の当て板が割れていた。


 金属部にも擦れがある。


 杉本は申し訳なさそうに箱を置いた。


「これです」


 森川が手袋をして取り出す。


「歪みは少なそうです。ただ、当て板は駄目ですね」


 宮田が図面と見比べる。


「穴位置、1か所だけ図面と違います」


 隆夫が顔を上げた。


「違う?」


「はい。後から広げたように見えます」


 片岡が眉を寄せた。


「現場で直した?」


 杉本は口元を押さえた。


「協力先で、合わない時に少し削ったと聞いたことがあります」


 工場の空気が変わった。


 図面は残っていた。


 だが、現物は変わっている。


 これが怖い。


 図面が正しいとは限らない。


 現物が正しいとも限らない。


 隆夫は治具を置いた。


「このまま同じものは作れません」


 片岡がすぐに頷いた。


「理由は分かります」


「図面通りに戻すのか。現物の広げた穴に合わせるのか。まず倉田さん側で決めてください」


 杉本が小さく言った。


「図面通りに戻した方がいいと思います」


 片岡が彼女を見る。


「理由は」


「現物の穴を広げた理由が残っていません。協力先で合わせるためだったなら、他の現場では逆に危ないです」


 直人は黙って聞いていた。


 杉本も変わっている。


 以前なら、こういう場で言い切れなかったかもしれない。


 だが今は違う。


 分からない変更を、そのまま引き継がない。


 吉岡メッキで下ろした読めない容器と同じだ。


 片岡は深く頷いた。


「図面通りを基本にします。ただ、現物の穴が広げられていたことは記録に残します」


 隆夫は言った。


「それなら作れます」


 美智子が横から言う。


「再製作品の番号はどうする?」


 直人は少し考えた。


「元番号の枝番がええと思う」


「枝番?」


「1989-KU-IR-001-R1。再製作1回目。元の仕事とつながる。でも、新しく作ったことも分かる」


 森川が苦笑した。


「また長い番号やな」


「短くして迷うよりましやろ」


 宮田が控えめに言った。


「僕は、その方が分かりやすいです。元の図面と、再製作が別だと分かるので」


 森川は宮田を見て、肩をすくめた。


「ほな、そうしよか」


 隆夫は直人を見た。


「R1、か」


「うん」


「次にまた作る時も、探せるな」


「探せる」


 隆夫は小さく笑った。


「ええ言葉や」


 翌日から、黒瀬精機は再製作に入った。


 派手な仕事ではない。


 だが、いつもより工場の空気は締まっていた。


 森川は金属部の寸法を追い、宮田は図面と現物の違いを横に並べた。


 大西樹脂には樹脂当ての材質確認を頼んだ。


 倉田精密には使用範囲を書いてもらった。


 水がかかる場所。


 洗浄後の部品のみ。


 固定具として使わない。


 強い力をかけない。


 割れたら使用停止。


 書けば面倒だ。


 だが、書かなければまた誰かが現場で穴を広げる。


 そして、その理由が消える。


 昼過ぎ、倉田精密の購買担当が電話をかけてきた。


 片岡ではない。


 声が少し急いでいた。


「黒瀬さん、今回は前と同じものでいいので、なるべく安く早くできませんか」


 美智子が受話器を持つ手を止めた。


「前と同じものではありません」


「え?」


「再製作品です。元の図面は残っていますが、現物には後加工がありました。今回は使用範囲を確認した上で、図面通りを基本に作ります」


「そこまで必要ですか」


 美智子の目が細くなった。


「必要です」


 声は静かだった。


「安く早く、だけで作るなら、うちは受けません」


 作業場の空気が止まった。


 電話の向こうも黙った。


 美智子は続けた。


「倉田さんの片岡さんと確認済みです。詳しい話は片岡さんにお願いします」


 受話器を置いたあと、森川が小さく言った。


「おかん……いや、奥さん、強いな」


「安く早くで怪我されたら、誰が困るんや」


 美智子は言った。


「相手も困る。うちも困る。現場が一番困る」


 隆夫は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ嬉しそうだった。


 再製作は3日で終わった。


 納品箱には、前よりはっきりした札がついた。


 1989-KU-IR-001-R1


 元番号。


 再製作番号。


 使用範囲。


 注意。


 問い合わせ先。


 そして、箱の内側に小さく書かれた一文。


 番号を伝えてください。

 同じ仕事を探せます。


 納品の日、片岡は箱を受け取ってしばらく黙っていた。


「黒瀬さん」


「はい」


「これは、治具だけではないですね」


 隆夫は首を傾げる。


「どういう意味ですか」


「戻れる道がついてます」


 片岡は箱の番号を指した。


「次に何かあっても、この番号で戻ってこられる。図面がなくても、箱だけ残っていれば探せる」


 直人は、その言葉を聞いて胸の奥が熱くなった。


 戻れる道。


 探せる工場。


 それは、未来の大きなシステムではない。


 まだ、ただのカード箱と図面控えと小さな刻印だ。


 だが、この町工場には十分だった。


 その日の夕方、黒瀬精機に一本の電話が入った。


 倉田精密の別部署からだった。


「古い治具の番号だけ分かるんですが、黒瀬さんで探せますか」


 美智子が受話器を持ったまま、直人を見た。


 直人は思わず笑いそうになった。


 隆夫が作業台の向こうから言う。


「番号を聞け」


 美智子は頷いた。


「はい。番号をお願いします」


 電話の向こうから数字が読み上げられる。


 美智子の鉛筆が、白い紙の上を走った。


 それは新しい注文の音ではなかった。


 消えかけていた仕事が、番号を頼りに戻ってくる音だった。


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