第61話 番号は渡す、図面は渡さない

 1995年6月。


 倉田精密の購買課では、黒瀬精機から届いた納品箱が机の上に置かれていた。


 箱そのものは、何の変哲もない。


 丈夫な木箱。


 中には再製作された治具。


 外側には番号。


 内側には使用範囲と注意。


 問い合わせる時は、この番号を伝えてください。


 その一文を、購買課長の大村は何度も見ていた。


「これ、便利ですね」


 横にいた若い担当が言った。


「番号で問い合わせできるなら、うちも管理しやすいです」


 大村は頷いた。


 震災以降、倉田精密の中でも古い治具や確認具の所在確認が続いている。


 どれがどこにあるのか。


 どの図面で作ったのか。


 誰が作ったのか。


 使っていい範囲はどこまでか。


 聞けば聞くほど、現場から曖昧な答えが返ってくる。


 そんな中で、黒瀬精機の納品箱は異質だった。


 番号で戻れる。


 使用範囲が分かる。


 再製作した理由も分かる。


 便利だ。


 便利なら、こちらで持てばいい。


 大村はそう考えた。


「黒瀬さんに連絡して。あの番号台帳、一覧でもらえるか聞いてくれ」


 若い担当が少し戸惑う。


「番号台帳そのものですか」


「ああ。今後の管理に使う。できれば図面控えも一緒に」


「図面も、ですか」


「うちで使う治具やろ。うちの管理資料として持っておくのは当然や」


 若い担当は返事をしたが、顔には迷いが残っていた。


 その電話が黒瀬精機に入ったのは、昼前だった。


 美智子が受話器を取った。


 最初は穏やかに聞いていたが、途中で表情が変わった。


「番号台帳の一覧ですか」


 作業場の音が少し落ちた。


 隆夫が顔を上げる。


 直人も手を止めた。


 美智子は相手の話を最後まで聞いた。


「確認して折り返します」


 短く言って電話を切る。


 その声だけで、森川修一が察した。


「また面倒な話ですか」


「倉田さんの購買から。黒瀬で持ってる番号台帳の一覧と、できれば図面控えも欲しいって」


 森川の顔が険しくなった。


「また図面ですか」


 宮田悟も手を止めた。


 工場の空気が変わった。


 図面を渡すというのは、ただ紙を渡すことではない。


 誰が考え、どう作り、どこで逃がしているか。


 その積み重ねを渡すことだった。


 隆夫はすぐには怒らなかった。


 それが逆に怖かった。


「直人」


「うん」


「どう思う」


 直人は少し考えた。


 番号管理は強い。


 番号があるものは、再注文される。


 検索できるものは、残る。


 だが、同時に危うい。


 番号と図面を丸ごと渡せば、相手はそれを別の工場へ持っていける。


 コストだけで比べられ、黒瀬精機は外される。


 未来では、データを握った側が強かった。


 だが、その言葉を今ここでそのまま出しても通じない。


 直人は作業台に置かれた治具を見た。


「番号は渡してええと思う」


 森川が振り向いた。


「直坊、本気か」


「図面はあかん。でも番号は渡してええ」


 隆夫の目が少し細くなる。


「理由は」


「番号は、お客さんが戻ってくる道やから。こっちだけが知ってたら、箱をなくした時に問い合わせしにくい。でも図面まで渡したら、戻ってくる道やなくて、別の工場へ行く道になる」


 美智子が腕を組んだ。


「番号は案内板。図面は中身、ということか」


「うん」


「ほな、どこまで渡すか線を引かなあかん」


 直人は頷いた。


「番号一覧は渡す。ただし、黒瀬から納めた治具の番号、名称、納品日、使用範囲の概要まで。原図、加工寸法、作り方、材料の細かい指定、逃げ加工の理由は渡さない」


 森川はまだ不満そうだった。


「それでも真似されませんか」


「真似はされると思う」


「ええんですか」


「完全には防がれへん。でも、番号で再注文できる便利さを出さなかったら、うちはただの加工屋のままやと思う」


 工場が静かになった。


 ただの加工屋。


 その言葉は重かった。


 黒瀬精機は部品を作る。


 治具を作る。


 だが、それだけなら安いところへ流れる。


 これから残るには、作るだけでは足りない。


 探せる。


 戻れる。


 使い方が分かる。


 再製作できる。


 そこまで含めて黒瀬精機の仕事にしなければならない。


 隆夫はゆっくり頷いた。


「番号を商品にするんやな」


 直人は顔を上げた。


「そう」


「治具を売るだけやなくて、治具の戻り道も売る」


「うん」


 宮田が小さく言った。


「それなら、図面を出さなくても、相手は困りにくいですね」


 美智子が宮田を見る。


「そう。相手が欲しいのは、本当は図面やなくて、困った時に探せることかもしれん」


 森川は腕を組んだまま黙っていた。


 やがて、ぽつりと言った。


「図面を守りながら、相手の便利も作るんか」


「そういうことや」


 隆夫が答えた。


「難しいですね」


「難しいから、うちの仕事になる」


 その午後、隆夫と美智子、直人は倉田精密へ向かった。


 今回は現場ではない。


 通されたのは購買課の小さな会議室だった。


 片岡も同席している。


 購買課長の大村は、最初から少し構えていた。


「黒瀬さん、こちらとしても管理上、資料を揃えたいんです」


「分かります」


 隆夫は静かに答えた。


「ただ、図面控えをそのままお渡しすることはできません」


 大村の眉が動いた。


「うちで使う治具ですよ」


「はい。倉田さんの現場で使う治具です。ただ、黒瀬精機が設計し、現物合わせし、加工条件を決めたものでもあります」


「別のところで作ると言っているわけではありません」


 その言葉に、直人は内心で苦く笑った。


 今は、だ。


 最初は管理のため。


 次は比較見積もりのため。


 最後は、安い外注先へ渡すため。


 そういう流れを、直人は何度も見てきた。


 だが、それを言っても仕方ない。


 今ここで必要なのは、怒ることではない。


 代わりの形を出すことだ。


 美智子が封筒から紙を出した。


 黒瀬精機の番号一覧だった。


 ただし、図面ではない。


 番号。


 名称。


 納品日。


 再製作履歴。


 使用範囲の概要。


 問い合わせ先。


 そして、図面保管元。


 図面保管元の欄には、こう書かれていた。


 黒瀬精機保管。


 必要時確認。


 大村が紙を見た。


「図面は黒瀬さんで保管、と」


「はい」


 美智子は答えた。


「倉田さんが困った時に、この番号で問い合わせてもらえれば、こちらで探します。再製作が必要なら現物、使用状況、変更の有無を確認した上で対応します」


「うちで保管できないのは不便です」


 大村は言った。


 美智子は引かなかった。


「図面だけ持っていても、不便は残ります」


 大村が顔を上げる。


「どういう意味ですか」


「図面通りに作ればいい治具ばかりではありません。現物合わせした理由、使う場所、後から変わった穴、樹脂当ての劣化。そういうものは図面だけでは分かりません」


 片岡が静かに頷いた。


 前に再製作した治具で、それを見たばかりだった。


 隆夫が続ける。


「倉田さんには番号と使用範囲を持ってもらう。黒瀬は図面と製作履歴を持つ。両方が揃えば戻れます。片方だけでは危ない」


 大村は腕を組んだ。


「つまり、黒瀬さんを通せということですか」


 部屋の温度が下がった。


 だが、隆夫はまっすぐ答えた。


「はい」


 大村の目が鋭くなる。


 隆夫は続けた。


「ただし、囲い込みたいからではありません。危ない再製作を防ぐためです。図面だけを別の工場へ渡して作った場合、黒瀬はその使われ方に責任を持てません」


 美智子が補足した。


「どうしても他社で作られる場合は、黒瀬の図面ではなく、倉田さん側で正式に図面化して管理してください。その場合、黒瀬精機の番号とは別の番号にしていただきたいです」


 大村は少し驚いた顔をした。


「別番号?」


「はい。同じ番号のまま別の仕様が出ると、後で現場が混乱します」


 片岡が口を開いた。


「大村課長、これは必要だと思います。現場では、番号が同じなら同じものとして扱います。違う工場で作ったものが混じるなら、番号を分けないと危険です」


 大村は片岡を見た。


「現場側として?」


「はい」


 杉本も同席していた。


 彼女は緊張した顔で、それでもはっきり言った。


「番号で探せるのは助かります。でも、同じ番号で違うものが来る方が怖いです」


 その一言で、大村は黙った。


 購買の理屈だけでは押し切れない。


 現場が怖いと言っている。


 会議室に沈黙が落ちた。


 やがて、大村は番号一覧をもう一度見た。


「この一覧で、こちらが管理できる項目を増やせますか」


 美智子が聞いた。


「たとえば」


「保管場所。使用部署。担当者。次回点検月」


 直人はすぐに反応した。


「それは倉田さん側の管理欄として、別紙にしてもらう方がいいです」


 大村が見る。


「黒瀬さんの一覧には入れない?」


「入れない方がいいと思います。黒瀬で分からないことまで黒瀬の台帳に入れると、古くなった時に危ないです。倉田さんの保管場所や担当者は倉田さんで持つ。黒瀬は製作履歴を持つ。番号でつなぐ」


 大村は直人を見た。


「君が考えたのか」


 直人は一瞬だけ迷った。


「最初に番号を残そうと言い出したのは俺です。でも形にしたのは、うち全員です」


 大村は小さく息を吐いた。


「若いのに、面倒なことを考える」


「面倒なことを後に回すと、もっと面倒になるので」


 片岡が少し笑った。


 大村も、わずかに口元を緩めた。


「分かりました。図面の件は一度持ち帰ります。まずは番号一覧と、こちら側の管理欄をつなげる形で進めましょう」


 隆夫は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 会議が終わったあと、片岡が廊下で追いついてきた。


「助かりました」


 隆夫は首を横に振った。


「こちらも、ただ断るだけでは駄目でした」


「購買は悪気だけで言っているわけではありません。管理したいんです」


「分かっています」


 片岡は少し疲れた顔で笑った。


「でも、管理したいから全部出せ、になりがちです」


 直人は頷いた。


「全部出したら、逆に何が大事か分からなくなると思います」


 杉本が言った。


「番号でつながるなら、現場も助かります」


 彼女は少しだけ照れたように付け加えた。


「使用部署の欄、こちらで作ってみます」


「お願いします」


 直人は答えた。


 黒瀬精機へ戻る車の中で、隆夫はしばらく黙っていた。


 運転は隆夫。


 直人は助手席。


 美智子は後ろで、倉田から預かった番号一覧を見ている。


「直人」


「何」


「今日は、危なかったな」


「うん」


「番号管理は、うちの武器になる。でも、渡し方を間違えたら首を絞める」


「そう思う」


「お前、そこまで見えてたんか」


 直人は窓の外を見た。


 見えていた。


 未来では、番号も図面もデータも、持っている側が強かった。


 便利な仕組みは、使い方を間違えれば、下請けを裸にする道具にもなる。


「何となく」


 直人はそれだけ言った。


「便利なものほど、持ち方を決めとかんと怖い」


 隆夫は短く笑った。


「また年寄りみたいなこと言う」


「おとんほどちゃう」


「言うようになったな」


 後ろで美智子が言った。


「2人とも、帰ったら番号一覧の控え方を決め直すで」


 直人は苦笑した。


「今日やるん?」


「今日全部はやらへん。でも忘れんうちに、守る線だけ決める」


 隆夫が前を見たまま言った。


「図面は渡さない。番号は渡す。履歴は残す。相手の保管場所は相手が持つ」


 美智子が頷く。


「それでいこう」


 黒瀬精機へ戻ると、森川と宮田が待っていた。


「どうでした」


 森川が聞く。


 隆夫は作業台に番号一覧を置いた。


「図面は渡さん。番号は渡す」


 森川は少しだけ安心した顔をした。


「勝ったんですか」


 隆夫は首を横に振った。


「勝ち負けやない。渡すものと渡さんものを分けただけや」


 宮田が番号一覧を見て言った。


「でも、これなら相手も困りませんね」


「そこが大事や」


 隆夫は答えた。


「守るだけでは仕事にならん。相手が使える形にして守る」


 森川は腕を組んだ。


「難しい仕事が増えますね」


「増える」


 隆夫はあっさり言った。


「でも、これができる工場は少ない」


 その言葉に、工場の空気が少し変わった。


 少ない。


 なら、それは黒瀬精機の仕事になる。


 宮田が小さく言った。


「僕、番号一覧の写しを作ります」


 美智子がすぐに返す。


「写すだけやないで。見て分からんところがあったら止めて」


「はい」


 森川も言う。


「俺は、治具本体に番号を入れる場所を決めます。見えるけど邪魔にならん場所」


 直人は、作業台の上の番号一覧を見た。


 黒瀬精機は、また少し変わった。


 図面を守る工場から、番号を渡せる工場へ。


 ただ囲い込むのではない。


 相手が戻ってこられる道を渡す。


 でも、工場の命までは渡さない。


 夕方、倉田精密から追加の電話が入った。


 先ほどの若い購買担当だった。


「黒瀬さん。番号一覧の件ですが、うちの管理欄を作ってから、もう一度相談させてください」


 美智子は受話器を持ったまま、少しだけ口元を緩めた。


「はい。番号でつなぎましょう」


 電話を切る。


 作業場では、宮田が古いカードを1枚ずつ確認していた。


 森川は小さな治具の端に、番号を入れる場所を鉛筆で印している。


 隆夫はその様子を見ながら、旋盤の前に立った。


 直人は思った。


 未来の工場には、画面で探す仕組みがある。


 バーコードも、データベースも、ネットワークもある。


 けれど、この工場ではまだカード箱と鉛筆だ。


 それでも、始まりとしては十分だった。


 番号を持った治具は、ただの金属ではなくなる。


 どこで生まれ、どこへ納められ、どう使われ、いつ戻ってくるのか。


 その道を持つ。


 黒瀬精機は、その道を売り始めた。


 金属を削る音が、工場に戻る。


 同じ音に聞こえて、もう同じ仕事ではなかった。


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