第59話 使われた後の責任
1995年4月。
桜が散り始めても、黒瀬精機の春は軽くならなかった。
震災の後始末はまだ残っている。
地下鉄の事件で、薬品や表示を見る目も変わった。
岸和田から薄くなった便は、完全には戻ってこない。
町工場の音は戻っていたが、前と同じ音ではなかった。
そんなある日の午後、倉田精密の片岡が黒瀬精機へ来た。
顔が硬い。
手には茶封筒を持っていた。
「黒瀬さん。少し、面倒な話です」
隆夫は作業台の上を空けた。
「何でしょう」
片岡は封筒から紙を出した。
数枚の書類だった。
仕様確認書。
使用範囲確認書。
品質保証に関する覚書。
そして、責任分担確認書。
美智子が紙の題名を見ただけで、眉を寄せた。
「また、えらい堅い名前が並んでますね」
「7月から、製造物責任法が施行されます」
片岡は言った。
「いわゆるPL法です。うちの上の会社が、関連する外注先にも確認書を出し始めました」
PL法。
直人はその言葉に、胸の中で小さく息を止めた。
来た。
いつか来ると分かっていた。
製品が使われた後の責任。
欠陥。
説明。
注意。
使用範囲。
前の人生で何度も聞いた言葉が、1995年の黒瀬精機の作業台に置かれている。
隆夫は紙を手に取った。
読む。
黙って読む。
その顔が、少しずつ険しくなった。
「片岡さん」
「はい」
「これは、うちが完成品の責任まで負うように読めます」
片岡は目を伏せた。
「そこが問題です」
美智子が紙を受け取った。
彼女は声に出さずに目で追う。
途中で、指が止まった。
「不具合発生時には、加工業者側が原因調査および補償に協力する……協力は分かる。でも、この書き方やと、どこまでが協力か分からへん」
「そうなんです」
片岡の声は重かった。
「上の会社は、とにかく外へ確認を取りたい。自分たちも怖いんです。ですが、このまま黒瀬さんに判を押してもらうのは違うと思いました」
森川修一が横から覗く。
「うちは部品や治具を作ってるだけですよね」
「だけ、では済まなくなってきます」
片岡は答えた。
「作った物がどう使われるか。説明はあるか。使用範囲はどこまでか。誰が管理するか。そこを見られるようになります」
宮田悟が小さく言った。
「作った後のことまで、ですか」
「はい」
工場の空気が重くなった。
作る。
納める。
検査する。
請求する。
これまでなら、そこで一つの仕事が終わった。
だが、紙の上では終わっていない。
使われる。
間違って使われる。
別の場所で使われる。
壊れる。
怪我につながる。
その時に、誰が何を説明していたかが問われる。
隆夫は紙を置いた。
「このままでは押せません」
片岡は驚かなかった。
むしろ、少し安心した顔をした。
「そう言われると思っていました」
「うちは医療機器を作っているわけではありません。完成品メーカーでもない。周辺工程の治具や、固定具や、確認用の道具を作っているだけです」
隆夫はそこで一度止めた。
「ただ、だから責任がないとは言いません」
片岡が顔を上げる。
隆夫は続けた。
「うちが作った物が、どう使われる前提なのか。それが曖昧なら、作れません。使い方が変わるなら、もう一度見せてもらわないと困ります」
美智子が紙の端を揃えた。
「まず、使用範囲がいるね」
「使用範囲」
森川が繰り返す。
「この治具は何に使うのか。何には使わないのか。誰が使うのか。どこに置くのか。水がかかるのか。薬品の近くなのか。力がかかるのか。そこが分からんかったら、責任も何もない」
美智子の言葉は淡々としていた。
だが、作業台の周りにいた全員が聞いていた。
直人は、母の横顔を見た。
おかんは、法律の専門家ではない。
でも、仕事の境目を見る人だった。
どこから黒瀬精機の仕事か。
どこから相手の管理か。
そこを曖昧にすると、工場は食われる。
片岡は小さく頷いた。
「黒瀬さん側から、逆に確認書を出してもらえませんか」
「逆に?」
隆夫が聞く。
「はい。黒瀬精機としては、この条件なら作れる。この使い方以外は保証できない。変更する場合は再確認が必要。そういう書面です」
森川が苦い顔をした。
「また紙ですか」
美智子が即座に言った。
「これは紙やない。境目や」
その一言で、森川は黙った。
紙ではない。
境目。
直人はその言葉を胸の中で繰り返した。
午後遅く、伊原弁理士にも連絡した。
伊原は電話口で唸った。
「PL法そのものは、完成品メーカーや輸入業者の責任が中心です。ただし、部品や治具を作る側も、無関係ではありません。契約や仕様書で責任を広げられることがある」
隆夫は受話器を握り直した。
「このまま判を押すのは危ないですか」
「危ないですね。特に、使い方が書かれていないのに責任だけ広いものは避けるべきです」
「使用範囲を書いた方がいいですか」
「はい。むしろ、書くべきです。黒瀬精機が何を作り、何を保証し、何を保証しないのか。そこを明確にしてください」
電話を切ったあと、工場の中はしばらく静かだった。
伊原の言葉は重かった。
町工場が法律を語る時代になったのではない。
町工場の仕事に、法律の紙が勝手に乗ってくる時代になったのだ。
直人は作業台に置かれた治具を見た。
小さな固定具だった。
手のひらに乗る。
これを作るだけなら、難しくない。
だが、どこで使われるのか分からないまま作れば、ただの金属片が責任の塊になる。
宮田がぽつりと言った。
「これ、怖いですね」
森川が聞く。
「何がや」
「仕事が増えるのも怖いですけど、知らない使われ方をする方が怖いです」
森川は少し驚いた顔をした。
そして、ゆっくり頷いた。
「せやな」
隆夫は宮田を見た。
「ええところ見てる」
宮田は目を伏せた。
「ありがとうございます」
その日の夕方、黒瀬精機では試しに一枚の紙を作った。
美智子が書き始めたが、途中で直人に渡した。
「直人、現場の言葉にして」
「俺?」
「法律の言葉だけやと、現場が読まへん。現場が読める言葉でないと意味がない」
直人は鉛筆を持った。
紙の上に、まずこう書いた。
この治具でできること。
その下に、
この治具でしてはいけないこと。
さらに、
使う前に見ること。
壊れた時にすること。
変更した時に連絡すること。
森川が覗いて言った。
「子供向けみたいやな」
「子供でも分かるくらいでええと思う」
直人は答えた。
「読まれへん注意書きは、ないのと同じやから」
隆夫が小さく笑った。
「それはそうや」
片岡が、その紙を真剣に見た。
「これ、うちの現場にも欲しいです」
「こんなんでええんですか」
直人が聞くと、杉本の声がした。
いつの間にか、片岡の後ろに立っていた。
「こういうのがいいです」
杉本は遠慮がちに言った。
「難しい文章は、現場では読まれません。でも、していいこととしてはいけないことが分かれていたら、使う前に見られます」
美智子が頷いた。
「ほな、それでいこう」
森川がまだ少し不満そうに言う。
「でも、こんなんまで毎回作るんですか」
「毎回ではない」
隆夫が答えた。
「危ないもの。間違えたら怪我や混入につながるもの。使い方が変わると危ないもの。そこからや」
「全部やったら仕事になりませんもんね」
「そうや」
隆夫は作業台の治具を手に取った。
「守るための紙で、仕事を潰したら意味がない」
それは黒瀬精機らしい答えだった。
夜になり、片岡たちは帰っていった。
正式な書面は伊原にも見てもらうことになった。
黒瀬精機の作業台には、試し書きの紙だけが残っている。
この治具でできること。
この治具でしてはいけないこと。
使う前に見ること。
壊れた時にすること。
直人はその紙を見ていた。
前の人生なら、こういう紙を面倒だと思ったかもしれない。
現場を知らない上が増やす紙。
責任逃れの紙。
読まれずにファイルへ挟まれる紙。
そういうものを、いくらでも見た。
だが今、黒瀬精機の作業台にある紙は少し違った。
これは逃げるための紙ではない。
作ったものが、作った後に誰かを傷つけないための境目だった。
隆夫がその紙を手に取り、少しだけ黙った。
「直人」
「何」
「これからの仕事は、納めて終わりやないんやな」
「うん」
「使われてからも、少し残る」
直人は頷いた。
「その残り方を、こっちで決めとかんとあかんのやと思う」
美智子が湯呑みを置いた。
「決めるだけやない。相手にも分かってもらわんと」
森川が工具箱を閉めながら言った。
「面倒な時代になりましたね」
「せやな」
隆夫は否定しなかった。
「でも、面倒やから見えるもんもある」
宮田が作業台の紙を見ている。
その目は、以前よりずっと落ち着いていた。
「僕、これなら読めます」
皆が宮田を見た。
宮田は少し慌てた。
「あ、いや、変な意味やなくて。難しい覚書より、こっちの方が現場で見ると思います」
隆夫は笑わなかった。
真面目に頷いた。
「それが大事や」
その夜、黒瀬精機は遅くまで機械を回さなかった。
代わりに、一つの治具を前にして、使い方を書いた。
ただし、最後まで完成させなかった。
美智子が紙を伏せた。
「今日はここまで。明日、明るい時に読み直す」
隆夫も頷いた。
「暗い時に決めると、責任の線も歪む」
森川が苦笑した。
「社長、うまいこと言いますね」
「茶化すな」
工場の灯りが落ちる前、直人は作業台の上を見た。
金属の治具。
鉛筆で書かれた使用範囲。
赤を入れる前の注意書き。
どれもまだ完成ではない。
だが、黒瀬精機はもう一つ、新しい仕事を覚え始めていた。
部品を作ること。
治具を作ること。
そして、作ったものがどう使われるかを、相手と一緒に決めること。
それは面倒で、堅苦しくて、町工場には不似合いに見える仕事だった。
けれど、誰かを守るための境目なら、黒瀬精機はそこから逃げない。
作業台の上で、まだ名前のない注意書きが、薄い鉛筆の線のまま静かに置かれていた。
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