第58話 読めないラベル
1995年3月20日。
吉岡メッキの朝は、いつも通りの匂いで始まった。
金属。
水。
薬品。
長くこの仕事をしている者なら、鼻の奥で分かる匂いだった。
吉岡は作業場の入口に立ち、いつものように棚と槽を見た。
床は濡れていない。
通路に物はない。
震災の後で置き方を変えた薬品棚も、昨日のまま立っている。
大きな揺れで倒れかけた棚は、あれから低くした。
重い容器も下へ移した。
通路の線も引いた。
それだけで工場の中はずいぶん変わった。
だが、吉岡はまだ落ち着かなかった。
棚が立っている。
容器も倒れていない。
それなのに、何かが引っかかる。
「社長、ラジオつけてもええですか」
若い作業者が言った。
「ああ」
吉岡は短く返した。
作業場の隅にある小さなラジオから、朝のニュースが流れる。
最初は、どこにでもある交通情報の声だった。
それが途中から変わった。
東京の地下鉄で、多数の乗客が倒れている。
原因は不明。
毒ガスのようなもの。
救急搬送。
駅の混乱。
吉岡は手を止めた。
「地下鉄で、毒ガス?」
若い作業者が呟く。
誰も笑わなかった。
震災の時とは違う。
地面が揺れたわけではない。
棚が倒れたわけでもない。
建物が潰れたわけでもない。
いつもの朝、いつもの電車で、人が倒れている。
吉岡は薬品棚を見た。
白い容器が並んでいる。
茶色い瓶。
古いポリ容器。
濡れて端が浮いたラベル。
書いた本人しか分からないような略字。
今までは、それで回っていた。
誰が見ても分かる必要はないと思っていた。
分かる者が触ればいい。
分からない者は触らなければいい。
そう考えてきた。
けれど、その朝のラジオの声は、吉岡の腹の奥を冷たくした。
見えないものは、倒れた棚より怖い。
「作業、止める」
吉岡は言った。
若い作業者が驚く。
「え?」
「今日の午前は、薬品棚を見る」
「でも納期が」
「納期より先や。読めん容器を置いたまま作業したら、そっちの方が終わる」
吉岡は棚の前へ行った。
容器をすぐには触らない。
まず目で見る。
どれが今使っているものか。
どれが古いものか。
どれが中身を即答できるものか。
答えられない容器が、思ったより多かった。
若い作業者が顔を曇らせる。
「これ、前の人が置いてたやつです」
「中身は」
「たぶん……」
「たぶんはあかん」
吉岡は自分で言って、息を呑んだ。
これまで自分も、何度も言ってきた言葉だった。
たぶん同じ。
いつものやつ。
見たら分かる。
町工場では、そういう言葉で仕事が進む。
進んできた。
だが、薬品棚の前でそれを言えば、人が倒れるかもしれない。
吉岡は黒瀬精機へ電話した。
すぐにつながるまで、何度かかかった。
震災の後、電話は戻ったようで、まだどこか頼りない。
「黒瀬さん。ちょっと見に来てもらえませんか」
受話器の向こうで、隆夫の声が少し硬くなった。
「何かありましたか」
「事故ではありません。けど、事故にしたくない」
吉岡は薬品棚を見た。
「古いラベルです。読めんもんがある」
黒瀬精機から来たのは、隆夫と直人だった。
直人は薬品棚の前で足を止めた。
余計なことは言わない。
勝手に容器へ触れもしない。
それだけで、吉岡は少し安心した。
「薬品の中身は、うちでは判断できません」
隆夫は最初にそう言った。
「それは分かってます。黒瀬さんに見てもらいたいのは、棚と札です」
吉岡は古い容器を指した。
「これを見て、若いのがすぐ分かるか。外から来た業者が触らんで済むか。そこを見てほしい」
直人が棚の前にしゃがんだ。
容器の並び。
札の位置。
濡れたラベル。
棚の高さ。
通路からの見え方。
彼は一つずつ見ていく。
「吉岡さん」
「何や」
「この棚、分かる人が見る前提になってます」
吉岡は黙った。
「薬品名が分かる札はあります。でも、分からん人を止める札がないです」
「止める札」
「はい。開けるな。混ぜるな。倒すな。ここから先は担当者だけ。そういう札です」
若い作業者が小さく頷いた。
吉岡はそれを見逃さなかった。
現場の若い者は、分かっていなかったのだ。
分かっていないのに、分かった顔をして動いていた。
それを責める前に、分からないと言える形を作っていなかった。
隆夫が棚の横を見た。
「色だけに頼るのも危ないですね」
「赤とか黄色とか?」
「はい。汚れたら見えにくい。人によって見え方も違う。色、文字、形、置き場。いくつか重ねた方がええと思います」
吉岡は腕を組んだ。
「また面倒なことになりそうやな」
「面倒です」
隆夫は正直に答えた。
「でも、読めん容器があるよりはましです」
その言葉は強かった。
吉岡は反論できなかった。
昼前、大西樹脂も呼ばれた。
金属の札差しでは薬品に合わない場所がある。
樹脂で作れるかどうかを見るためだった。
大西は棚の前で、すぐ首を縦には振らなかった。
「全部同じ樹脂では無理です」
「無理か」
吉岡が聞く。
「薬品によります。使えるものもありますけど、駄目なものもあります。薬品名と置く場所を聞かんと作れません」
吉岡は少しだけ笑った。
「前なら、できますって言うてたんちゃうか」
大西は苦笑した。
「言うてたかもしれません。でも今は怖いです。作ったせいで溶けたり割れたりしたら、こっちも責任取れません」
責任。
その言葉に、場が静かになった。
直人は何も言わなかった。
ただ大西の顔を見ていた。
彼も変わっている。
作れます、と言うだけの職人ではなくなっている。
作れないかもしれない、と先に言う職人になっている。
そこへ倉田精密の片岡と杉本も来た。
吉岡が声をかけたのだ。
医療機器向けの小物部品を扱う倉田にとって、洗浄液や表示は他人事ではない。
杉本は薬品棚の前で、慎重に言った。
「表示を増やしすぎると、見なくなります」
吉岡は眉を寄せた。
「ほな、増やしたらあかんのか」
「いえ。必要な表示は要ります。でも全部を同じ大きさで貼ると、全部が風景になります」
杉本の声は控えめだった。
だが、はっきりしていた。
「毎日見る人に必要な表示と、初めて来た人を止める表示は違うと思います」
直人はその言葉に顔を上げた。
吉岡も黙った。
片岡が続ける。
「うちの洗浄区画も同じです。現場の人間には分かっているつもりのものが、外から見ると分からない。逆に、貼りすぎると誰も読まない」
隆夫は頷いた。
「ほな、まず分けましょう。毎日使う人向け。触ったらあかん人向け。中身が分からんもの。3つです」
「中身が分からんものは?」
大西が聞いた。
吉岡は棚の奥にあった古い容器を見た。
薄くなったラベル。
読めない略字。
誰が置いたかも曖昧な容器。
今までなら棚の端に戻していただろう。
また今度調べる。
使う時が来たら考える。
そうやって置き続けたはずだ。
吉岡は軍手を外した。
素手では触らない。
別の手袋を出し、容器には直接触れず、下に置いた浅い箱ごと手前へ出した。
「これは、もう棚には戻さん」
若い作業者が息を呑んだ。
「捨てるんですか」
「勝手には捨てん。処分の相談をする。中身を確認して、決められた形で出す」
吉岡は容器を睨むように見た。
「分からんもんを、分からんまま置くのをやめる」
工場の中が静かになった。
その言葉は、薬品棚だけの話ではなかった。
分からない図面。
分からない材料。
分からない納期。
分からない責任。
町工場には、分からないまま置いてきたものが多すぎる。
杉本が小さく言った。
「それが一番大事やと思います」
吉岡は彼女を見た。
「きついこと言うな」
「すみません」
「いや、助かる」
吉岡は若い作業者を呼んだ。
「この箱に札つける。『確認まで使用禁止』や。日付も書け。誰が見ても触らんようにする」
「はい」
「それから、棚の上段は空にする。重いもんを置かんのは地震の時と一緒や。古い容器を奥に押し込むのもやめる」
隆夫が言った。
「札差しは黒瀬で形を考えます。ただ、材質は大西さんと吉岡さんで決めてください」
大西が頷く。
「薬品名が分かれば、使える樹脂を見ます」
片岡も言う。
「倉田でも、洗浄区画の表示を見直します。杉本さん、現場側で見てください」
「はい」
杉本の返事は、さっきより少し強かった。
夕方までに、吉岡メッキの薬品棚から読めない容器がいくつか下ろされた。
下ろしただけだ。
まだ解決はしていない。
処分の相談も必要だ。
表示も作らなければならない。
札差しの材質も決まっていない。
だが、棚の端に戻すことだけはしなかった。
若い作業者が古い容器の箱に札を差した。
確認まで使用禁止。
日付。
担当者。
大きく、黒い字で書いた。
吉岡はその札を見て、深く息を吐いた。
「今まで、見えてるつもりやったんやな」
隆夫は何も言わなかった。
直人も言わなかった。
外では、いつもの夕方の音が戻っていた。
車の音。
工場のシャッターの音。
遠くで鳴る犬の声。
東京の地下鉄で何が起きたのか、まだすべてが分かったわけではない。
それでも、この小さなメッキ工場では、その日ひとつだけ決まった。
分からないものを、分からないまま棚に戻さない。
吉岡は最後に、空いた棚の一段を手で叩いた。
そこにはもう、古い容器はない。
何も置かれていない空白があるだけだった。
だがその空白は、さっきまでよりずっと重く見えた。
棚から下ろされたのは、容器だけではなかった。
分かる者だけが分かればいいという、古い常識も一つ、そこから下ろされたのだった。
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