第57話 戻らない荷物

 震災から10日が過ぎた。


 東大阪の町工場は、少しずつ音を取り戻していた。


 だが、それは元に戻った音ではない。


 いつもの加工音に、どこか急かされる響きが混じっている。


 止まった納期を組み直す声。


 電話がつながるたびに、誰かが息を詰める空気。


 壊れた棚を直しながら、次に来る仕事が本当に来るのかを気にする視線。


 黒瀬精機も例外ではなかった。


 震災直後に入った応急対応は、少しずつ落ち着き始めている。


 南田板金、大西樹脂、吉岡メッキ。


 それぞれができることを分けたおかげで、黒瀬精機だけに仕事が集中することは避けられた。


 だが直人には分かっていた。


 本当に怖いのは、ここからだ。


 壊れたものを直す仕事は見える。


 戻らない仕事は、すぐには見えない。


 その日、田端が黒瀬精機へ来たのは昼前だった。


 いつものライトバンではなく、古い代車だった。


 隆夫が表へ出る。


「車、替えたんですか」


「一時的にです。うちの車、何台か西向きの便に回されました」


 田端は苦笑した。


 しかし目は笑っていない。


「黒瀬さん。岸和田の継手の件、戻らんかもしれません」


 作業場の空気が止まった。


 森川修一が手を止める。


 宮田悟も、測定器から顔を上げた。


 直人はその言葉を胸の奥で受けた。


 来た。


 震災そのものではない。


 震災の後に来る、仕事の流れの変更。


 前の人生で、あちこちの工場や運送屋が飲まれていったもの。


「戻らん、いうのは」


 隆夫が聞いた。


「出荷元を変える話が進んでます。岸和田から出してた分を、川崎側へ寄せる。全部ではないです。でも、継手の一部はもうその方向です」


「震災で?」


「震災が理由にされてます」


 田端は言葉を選んだ。


「けど、前からあった話やと思います。大きい会社は、在庫も出荷もまとめたい。そこに今回のことが重なった」


 美智子が奥から出てきた。


「ほな、岸和田の工場は?」


「縮むかもしれません」


 田端は短く答えた。


「運ぶ会社も変わります。川崎側に入ってる運送会社がまとめて扱う話も出てる。そうなったら、うちが持ってた便は消えます」


 誰もすぐには言わなかった。


 工場が壊れた。


 棚が倒れた。


 道が止まった。


 それなら、まだ見える。


 だが今の話は違う。


 荷物の流れそのものが、町から離れようとしている。


 隆夫は腕を組んだ。


「田端さんとこは、大丈夫なんですか」


「大丈夫とは言えません。でも、まだ他の荷物があります。問題は、岸和田から出てた仕事にぶら下がってた小さいところです」


「小さいところ?」


「積み替え、検品、急ぎ便、戻り便。表に出ない仕事です。大きい荷物が消えると、その周りの小さい仕事も消えます」


 直人は田端の顔を見た。


 材料屋の顔ではない。


 運ぶ仕事の先にいる人間の顔だった。


 森川が低く言う。


「震災で仕事が増えるところもあるのに、消える仕事もあるんですね」


「あります」


 田端は即答した。


「復旧で忙しい会社もある。でも、その横で二度と戻らん仕事もある」


 黒瀬精機の中に、重たい沈黙が落ちた。


 午後、隆夫は直人を連れて岸和田方面へ向かった。


 田端も同行した。


 運転は隆夫だった。


 直人は後部座席に座り、窓の外を見る。


 免許はある。


 前の人生でも車は嫌というほど運転した。


 だが今の直人は、20歳になったばかりの若い手だ。


 父の前で慣れすぎた運転を見せるわけにはいかないし、今日の道は普通の道ではない。


 急ぐ車。


 遅れる車。


 荷物を積んだ車。


 空で戻る車。


 どの車も何かを背負って走っていた。


 岸和田の倉庫へ着くと、以前より人が少なかった。


 荷物はある。


 けれど活気は薄い。


 鉄管の束も、継手の箱も並んでいる。


 それなのに、場の温度が低かった。


 担当者は田端の顔を見ると、少し困ったように笑った。


「田端さん、聞いてます?」


「聞いてます」


「早いですね」


「早くないと困るんです」


 その会話だけで、直人には十分だった。


 ここでは、もう話が進んでいる。


 黒瀬精機や町工場が何かを言う前に、大きな流れは先へ行っている。


 隆夫が聞いた。


「ここの荷物は、どのくらい残りますか」


 担当者は答えに詰まった。


「今は、何とも」


「今は、ですね」


「はい」


 担当者は視線を落とした。


「上は、震災後の混乱を理由に出荷をまとめたいみたいです。川崎側の方が動かしやすい荷物もある。こっちでしか出せないものは残るでしょうけど、全部は……」


 彼は言葉を濁した。


 全部は残らない。


 そう言っているのと同じだった。


 倉庫の奥で、年配の作業員が継手の箱を積み替えていた。


 手慣れた動きだった。


 箱の重さを知っている。


 角をぶつけない持ち方を知っている。


 どの伝票が急ぎか、声に出されなくても分かっている。


 その人の仕事も、荷物が消えれば消える。


 直人は喉の奥が詰まるのを感じた。


 復旧需要で黒瀬精機に仕事が来る。


 それはありがたい。


 だが、その裏でこういう手が消えていく。


 それを「チャンス」とだけ呼ぶのは違う。


 帰り道、車内は静かだった。


 工場と倉庫が窓の外を流れていく。


 まだ立っている建物。


 まだ積まれている荷物。


 だが、仕事の流れは目に見えないところで変わっている。


「これは、うちだけではどうにもならんな」


 隆夫が前を見たまま言った。


 田端は助手席で小さく頷いた。


「はい」


「でも、知らんふりもできん」


「……ありがとうございます」


「田端さんとこが痩せたら、うちも困ります。南田さんも吉岡さんも困る」


 直人も言った。


「荷物が消えたら、工場だけやなくて運ぶ人も消える」


 隆夫は短く答えた。


「ああ」


 黒瀬精機へ戻ると、田端もそのまま作業台についた。


 美智子は帳面を開かず、まず田端の顔を見た。


「向こう、どうやった?」


 田端はしばらく黙ってから答えた。


「荷物はあります。でも、流れが変わり始めてます」


 岸和田から出ていた継手の一部が、川崎側へ寄せられるかもしれないこと。


 大きな会社は復旧を理由に物流を見直していること。


 出荷元が変われば、地元の運送屋だけでなく、材料屋の扱いも変わること。


 それによって、黒瀬精機が当たり前に見ていた納期や仕入れ先も変わること。


 田端は順番に話した。


 美智子は最後まで黙って聞いた。


 そして、ようやく言った。


「これは、地震で壊れた分を直す話やないね」


「はい」


 田端が頷く。


「地震をきっかけに、流れが変わる話です」


 森川が苦い顔で言った。


「どうします? うちで田端さんの荷物を増やすわけにもいきませんよね」


「増やすんやない」


 隆夫は答えた。


「田端さんの便に、町の小さい荷物を乗せられる形を作れんか考える」


 田端が顔を上げた。


「小さい荷物?」


「南田さん、大西さん、吉岡さん、うち。みんな小さい急ぎがある。でも、それぞれが別々に動くと無駄が多い」


 美智子が静かに続けた。


「ただ便を増やしてもあかん。田端さんとこが赤字になる。まとめられるものだけまとめる。急ぎと急ぎでないものを分ける。運べる日に運ぶ」


 田端はすぐには答えなかった。


 その顔に、少しだけ光が戻っていた。


「それ、うちだけでは決められません。でも、提案はできます」


「提案でええです」


 隆夫は言った。


「うちも全部は出せません。けど、町の仕事を1つの便にまとめられるなら、消える荷台を少しは埋められるかもしれん」


 直人は父と母を見ていた。


 黒瀬精機がやろうとしているのは、大きな会社に逆らうことではない。


 消える仕事を全部止めることでもない。


 ただ、町の中に残せる流れを探すことだった。


 その夜、南田板金、吉岡メッキ、大西樹脂の3社が黒瀬精機に集まった。


 会議というほど整ったものではない。


 作業台を囲み、湯呑みを片手に話すだけだった。


 だが、中身は重かった。


「うちは急ぎの曲げがある時だけ、別で走らせてました」


 南田が言った。


「でも毎回はしんどい」


 吉岡が腕を組む。


「うちは薬品が絡むもんは別や。混ぜられん荷物もある」


 大西が頷いた。


「樹脂板は軽いですけど、傷がつくと困ります。鉄材と一緒は怖いですね」


 田端がそれぞれを聞き、首をひねる。


「全部まとめるのは無理です。でも曜日と方面で分けたら、少しは乗せられるかもしれません」


 森川が言う。


「急ぎじゃない荷物を、急ぎの顔で出すのをやめるだけでも違いますね」


 宮田が小さく続けた。


「急ぎの荷物だけにしたら、本当に急ぎのものが見えます」


 その言葉に、吉岡が宮田を見た。


「ええこと言うやないか」


 宮田は少し照れた。


 直人はその様子を見ながら、胸の奥に奇妙な熱を感じていた。


 町がただ助けを待つだけではなく、自分たちで流れを作ろうとしている。


 小さい。


 頼りない。


 大企業の出荷元変更を止める力はない。


 それでも、ゼロではない。


 隆夫が最後に言った。


「復旧の仕事は、しばらく来ると思います。でも、それに全部飛びついたら、普段の仕事も田端さんの便も崩れる」


 南田が頷く。


「一時の忙しさに乗ったら、後で空になるかもしれん」


「そうです」


 隆夫は田端を見る。


「だから、戻す仕事と、残す仕事を分けましょう」


「戻す仕事と、残す仕事」


 田端が繰り返した。


「壊れた棚を戻す。倒れた記録箱を戻す。それも大事です。でも、仕事の流れを町に残すこともいる」


 作業台の上が静かになった。


 誰も反論しなかった。


 その言葉が、綺麗事ではないと分かっていたからだ。


 それから数日、田端の便は少し形を変えた。


 すぐにうまくはいかない。


 荷物の種類が合わず、積めない日もある。


 急ぎと言われたものが、実は翌週でよかったこともある。


 逆に、後回しにした荷物が本当に必要だったこともある。


 失敗はあった。


 だが、町の工場同士が、荷物の都合を口に出すようになった。


 それだけでも変化だった。


 2月に入る頃、黒瀬精機には復旧用の相談がまだ続いていた。


 だが隆夫は全部を受けなかった。


 南田でできるものは南田へ。


 大西でできるものは大西へ。


 吉岡に聞かなければ危ないものは吉岡へ。


 黒瀬精機は、測定と現物合わせが必要なもの、図面化して残すべきものに絞った。


 ある日、森川が言った。


「社長、断るの増えましたね」


「断ってるんやない。渡してる」


「渡す」


「うちで抱えたら、町が細る。渡せるものは渡す」


 森川はしばらく黙っていた。


 そして、ぽつりと言った。


「昔の俺やったら、仕事を取られたと思ったかもしれません」


「今は?」


「町に残す方が大事やと思います」


 隆夫は小さく頷いた。


 その日の夕方、直人は軽トラで短い集荷に出た。


 助手席には森川が乗っている。


 荷台は空ではない。


 大西樹脂から受け取った小さな樹脂板が、毛布に包まれて固定されていた。


 直人は運転を知らないわけではない。


 むしろ身体は覚えている。


 だが、今はそれを出しすぎない。


 若い直人として、確認を声に出す。


「荷台、固定よし」


 森川が笑う。


「教習所みたいやな」


「ええやろ」


「ええよ。俺も安心する」


 車はゆっくり動いた。


 直人は怖がりすぎず、慣れすぎずに走った。


 荷物を運ぶとは、ただ道を走ることではない。


 町の誰かの仕事を、次の場所へ渡すことだ。


 それを今の直人は知っている。


 黒瀬精機へ戻る頃、夕日が工場の屋根を赤く染めていた。


 田端の代車が、ちょうど前の道を通り過ぎる。


 荷台には、南田の板材と大西の樹脂板が積まれていた。


 全部を救えたわけではない。


 岸和田から消える荷物はある。


 川崎へ寄っていく流れも止められない。


 それでも、そのバンには町の仕事が少しだけ残っていた。


 直人はシャッターの前に立ち、遠ざかる尾灯を見送った。


 工場の奥から隆夫の声がする。


「直人、閉めるぞ」


「うん」


 シャッターが降り始める。


 金属の音が、夜の路地に響く。


 隙間から見える田端の車の尾灯が、角を曲がる直前に小さく光った。


 戻らない荷物はある。


 だが、残せる荷台もある。


 黒瀬精機は、その小さな荷台を見失わないために、明日も町の中で機械を回す。


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