第56話 西へ行けない荷台
1995年1月18日。
黒瀬精機の朝は、いつもより早く始まった。
だが、機械の音はしなかった。
隆夫は作業着の袖をまくり、工場の入口に立っていた。森川修一と宮田悟は、床に落ちた空箱や工具を片づけている。直人はシャッターの外へ出て、路地を見た。
高井田の町は立っている。
倒壊した家が並んでいるわけではない。
それでも、昨日までと同じ町ではなかった。
ガラスを割った工場。
シャッターが歪んだ倉庫。
ブロック塀に走ったひび。
棚が崩れて、まだ片づけきれていない小さな作業場。
東大阪は神戸ではない。
だが、無傷でもない。
そして何より、人の顔が違っていた。
誰もが西の方を気にしている。
テレビの映像で見た炎と、倒れた高速道路が、町の空気を重くしていた。
「直人」
隆夫が呼んだ。
「田端さんとこへ行く」
「俺も行く」
「運転は俺や」
「分かってる」
免許は取った。
だが今朝のような日は、まだ任される立場ではない。
それを直人自身も分かっていた。
美智子が入口に出てきた。
「西へは行かんといてや」
「田端さんの倉庫までや」
隆夫が答える。
「それでも、無理やと思ったら戻ってきて」
「ああ」
美智子は直人を見た。
「見に行くのと、突っ込むのは違うからな」
「うん」
その声に、昨日からの疲れが滲んでいた。
美智子は眠れていない。
隆夫も同じだ。
直人も同じだった。
それでも動かなければならない。
黒瀬精機の前には、昨日動かなかった軽トラがあった。隆夫がエンジンをかける。いつもより大きく聞こえた。
助手席に直人が乗る。
荷台には工具箱、ロープ、軍手、木端、簡単な当て板が積んである。
売り物ではない。
今朝は、助けに行く道具だった。
田端の倉庫へ向かう道は、普段より車が多かった。
みな急いでいる。
しかし道は進まない。
信号の前で詰まり、交差点で詰まり、電話が使えないからなのか、直接走る車が増えている。
隆夫は焦らなかった。
昨日から何度も言っていた。
焦りは、次の事故を呼ぶ。
田端の倉庫に着いた時、田端はすでに表で荷物を動かしていた。
顔は煤けていない。
怪我もなさそうだ。
だが、いつもの軽さは完全に消えていた。
「黒瀬さん、すみません。来てもらって」
「人は?」
「うちは無事です。でも棚がかなりやられました」
倉庫の中に入ると、直人は息を呑んだ。
棚が倒壊したわけではない。
だが、上から落ちた箱が通路を塞いでいる。
丸棒の束が斜めになり、床の上で荷札がめくれていた。
鉄管の小束がずれて、奥の荷物が取り出せない。
何より、どれが急ぎの荷物か一目で分からない。
「荷物はあるんやな」
隆夫が言った。
「あります。でも出せません」
田端は唇を噛んだ。
「出せる形になってない。昨日までは、順番通りに動いてたんです。揺れたあと、全部が混ざりました」
直人は倉庫の中を見渡した。
荷物がある。
人もいる。
車もある。
それでも動かない。
昨日の黒瀬精機で見た小さな混乱が、ここでは何倍にもなっていた。
「田端さん、今日どうしても出す荷物は?」
「病院関係に回る継手と、修理用の鉄材が少し。あとは明日に回してもええものがあります」
「それ、分かるようにできますか」
「伝票では分かります。でも荷物が奥です」
隆夫が腕を組んだ。
「全部片づけようとしたら日が暮れる」
「はい」
「今日出すもんだけ先に道を作ろう」
田端が頷いた。
直人はすぐに床を見た。
通れる幅。
荷物を仮に置ける場所。
人がすれ違える場所。
フォークリフトは使えない。今は手で動かすしかない。
「奥まで一直線は無理やと思う」
直人は言った。
「右の棚の前だけ空けて、そこを仮の通路にした方が早い。先に小さい箱を外へ出して、丸棒は動かさずにロープで止める。無理に引っ張ったら崩れる」
田端が驚いたように見る。
「直坊、よう見てるな」
「昨日から、倒れるもんばっかり見てるから」
冗談めかして言ったつもりだった。
だが誰も笑わなかった。
隆夫が工具箱を下ろす。
「やるぞ」
そこからは、言葉より手が動いた。
田端と倉庫の若い者が箱を出す。
隆夫が崩れかけた束に当て木を入れる。
直人が荷札を読み、伝票と照らす。
重いものは動かさない。
動かすなら、先に逃げ道を作る。
誰かが無理に持ち上げようとした時、隆夫が止めた。
「腰やるぞ。焦るな」
若い者は顔を赤くして手を引いた。
「すみません」
「謝らんでええ。今日は怪我人を増やさんのが仕事や」
その言葉で倉庫の空気が少し変わった。
急ぎの荷物を出す。
しかし、急ぎすぎない。
それは簡単ではない。
午前中いっぱいかかって、病院関係に回る継手と修理用の鉄材だけが外へ出た。
全部は片づいていない。
奥の荷物はまだ動かせない。
それでも、今日必要なものは出せた。
田端は額の汗を拭った。
「助かりました」
隆夫は首を横に振った。
「まだ終わってへん」
「分かってます。でも、今日はこれで走れます」
田端は荷物を見た。
「神戸方面へ直接行けるわけやないです。けど、手前の拠点まで動かせるものはある」
直人は西を見た。
ここから先は、自分たちだけではどうにもならない。
道路。
橋。
鉄道。
港。
電話。
それらが戻らなければ、物は届かない。
それでも、ここで止めてしまえば何も始まらない。
「黒瀬さん」
田端が言った。
「戻ったら、町工場相談会の人たちに伝えてください。今日は通常の材料便を当てにせん方がええ。必要なものだけ先に絞って、取りに来られるなら来る。来られへんところは、無理に待たない」
隆夫が頷く。
「分かりました」
黒瀬精機へ戻る途中、隆夫はほとんど話さなかった。
直人も黙っていた。
倉庫の荷物の山が、頭から離れない。
荷物はあるのに、出せない。
人はいるのに、動かせない。
仕事はあるのに、届かない。
震災は、工場の建物だけを壊すのではない。
道を壊す。
順番を壊す。
約束を壊す。
そして、見えないところで仕事を消していく。
昼を少し過ぎて黒瀬精機へ戻ると、美智子が待っていた。
「田端さんとこは?」
「人は無事。倉庫は荷物が崩れてた」
「動けそう?」
「今日必要な分だけ出した」
美智子は小さく息を吐いた。
「それで十分やね」
森川と宮田も戻ってきた。
近所の工場を見て回っていたらしい。
「南田さんとこ、また棚を直してます」
森川が言った。
「吉岡さんは薬品の置き場を変えるそうです。大西さんは樹脂板の束を低い棚へ移してました」
宮田が続ける。
「向かいの工場は、工具棚の固定を頼みたいそうです。ただ、今日は見積もりとかやなくて、倒れんようにだけしてほしいって」
隆夫は頷いた。
「今日は値段の話を後にする。人が怪我せんことが先や」
美智子がすぐに言った。
「ただし、材料を使った分は控える。あとで揉めんように」
「そこは頼む」
「頼まれんでもやる」
その言い方に、森川が少しだけ笑った。
笑いはすぐ消えた。
テレビでは、また神戸の映像が流れていた。
燃える街。
壊れた家。
倒れた道路。
直人は視線を逸らしたくなったが、逸らさなかった。
見なければならない。
見て、今できることを決めなければならない。
午後、倉田精密から片岡が来た。
車ではなく、途中まで電車と徒歩をつないで来たという。顔は疲れ切っていた。
「黒瀬さん、無事でよかった」
「そちらは?」
「本社側は大きな人的被害なしです。ただ、阪神間の協力先と連絡が取れないところがあります」
片岡は作業台の前で頭を下げた。
「お願いがあります」
隆夫の顔が引き締まる。
「何でしょう」
「洗浄区画の棚と記録箱を、今日か明日で見ていただけませんか。昨日の揺れで箱が落ちました。混入は確認されていませんが、記録箱の一部が崩れました」
直人は片岡の言葉を聞いていた。
医療向け。
記録箱。
混入。
ここで焦って動けば、別の事故になる。
隆夫はすぐに答えなかった。
「今日は作業はできません。見るだけなら行きます」
「それで構いません」
「製作が必要なら、明日以降です。今ある仕事も止めてます。材料も読めません」
「分かっています」
片岡は深く頷いた。
「むしろ、焦って作られる方が困ります」
その一言に、黒瀬精機の空気が少し引き締まった。
焦って作らない。
昨日から何度も出ている言葉だった。
隆夫は森川を見る。
「森川、行けるか」
「はい」
「宮田は残れ。工場の通路と棚をもう一度見る。田端さんから連絡が来たら受ける」
「はい」
直人は言った。
「俺も行く」
美智子が目を向ける。
「疲れてるやろ」
「疲れてる。でも見たい」
「見るだけやで」
「うん」
美智子はしばらく直人を見た。
そして小さく頷いた。
「しんどくなったら言い」
倉田精密へ向かう道でも、車は進まなかった。
急ぐ車。
止まる車。
歩く人。
電話がつながらないから直接向かう人が多いのだろう。
倉田精密の洗浄区画は、大きく壊れてはいなかった。
だが記録箱が棚から落ち、いくつかのファイルが床に散らばっていた。
杉本が青い顔で立っていた。
「すみません。昨日は何から手をつけていいか分からなくて」
隆夫は首を横に振った。
「謝ることやありません。まず人は無事ですか」
「はい」
「なら、順番に見ましょう」
森川が棚を見た。
「上に記録箱を置きすぎてますね」
杉本は唇を噛む。
「重いと思ってました。でも置き場がなくて」
直人は床に散らばったファイルを拾った。
表紙に品番と日付が書いてある。
濡れてはいない。
破れてもいない。
ただ順番が崩れている。
「先に戻さん方がええと思います」
直人が言うと、片岡が振り向いた。
「なぜ?」
「焦って戻したら、順番が混ざる。今は落ちた場所ごとに分けた方がええ。箱の中身も、元の順番が分かるまで触りすぎん方がいい」
片岡はすぐに杉本を見た。
「分けましょう。戻すのは後です」
隆夫は直人をちらりと見た。
何も言わない。
だが、その目には少しだけ認める色があった。
棚の固定は、その場ですぐにはできなかった。
だが、上段の重い記録箱は下ろした。
空の箱を上へ。
重い記録は下へ。
通路を塞いだ椅子を移す。
洗浄前と洗浄後の一方通行の流れは、大きく崩れていなかった。
それは、以前の改善が効いていた。
杉本が小さく言った。
「もし前のままだったら、もっと混ざってたかもしれません」
片岡は黙って頷いた。
隆夫は答えなかった。
誇る気にはなれなかった。
ただ、やっておいてよかったという重さだけが残った。
夕方、黒瀬精機へ戻る頃には、空が暗くなり始めていた。
電話はまだ不安定だった。
安否不明の協力先も残っている。
材料も読めない。
道も読めない。
それでも黒瀬精機には、朝より少しだけ動ける形ができていた。
田端の倉庫から必要な材料は一部出た。
倉田精密の記録箱は混ざる前に止めた。
近場の工場では棚固定が始まった。
小さなことばかりだ。
だが、小さなことを重ねるしかない。
夜、黒瀬精機の作業台には、今日使った軍手と懐中電灯が置かれていた。
美智子が湯呑みを人数分並べる。
誰もすぐに飲まなかった。
隆夫が静かに言った。
「明日から、少しずつ作る」
森川が顔を上げた。
「何からですか」
「棚固定の金具。記録箱の低い棚用の当て板。田端さんとこの荷崩れ防止の木枠。急ぎはそこや」
宮田が頷く。
「通常の仕事は?」
「相手と話す。できるもの、止めるもの、後ろへ送るものを分ける」
美智子が鉛筆を持った。
だが、書き始める前に手を止めた。
「今日はもうええ」
皆が美智子を見る。
「明日、朝から書く。今日は寝なあかん」
反対する者はいなかった。
直人は工場の入口から外を見た。
西の空はもう暗い。
そこに何があるのか、今は見えない。
けれど、道は確かにつながっている。
止まっていても。
崩れていても。
いつか誰かが通す。
黒瀬精機は、その道のこちら側で動く。
できる場所から。
届く場所から。
倒れたものを起こすために。
隆夫が機械の主電源を落とした。
暗くなった工場の中で、固定された棚だけが、昨日より低く、重く、静かに立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます