第55話 止まった道
揺れが収まったあとも、黒瀬精機の中には金属の鳴る余韻が残っていた。
直人は工場の通路に立ったまま、しばらく動けなかった。
床はもう揺れていない。
だが、身体の奥だけがまだ震えている。
「直人」
隆夫の声で、ようやく息を吸った。
「立てるか」
「うん」
「美智子」
「大丈夫。台所も火は出てへん」
美智子の声はしっかりしていた。
けれど、手は震えていた。
隆夫は工場の奥を見た。
「火元、ボンベ、通路、棚。順番に見るぞ」
「うん」
直人は頷き、まず油缶の方へ走った。
倒れていない。
ボンベの鎖も外れていない。
消火器の前に物はない。
材料棚は大きく鳴ったようで、下段の丸棒がわずかにずれていた。
だが、落ちてはいない。
上段に置いていたら、たぶん床へ転がっていた。
図面棚は壁に留まっていた。
金具がきしんだ跡はある。
引き出しが少し飛び出していたが、倒れてはいない。
直人は、その棚の前で息を吐いた。
「おとん」
「なんや」
「下ろしててよかった」
隆夫も棚を見た。
短く頷く。
「ほんまやな」
美智子は電話の前に立っていた。
受話器を上げる。
すぐに眉を寄せた。
「……あかん。つながらへん」
「森川は?」
「かけてる」
美智子は何度もダイヤルを回した。
だが、呼び出し音すらまともに返らない。
受話器の向こうは、細く唸るだけだった。
直人は工場の入口を開けた。
外はまだ暗い。
近所の家から人が出てきている。
寝巻きのままの者。
上着だけ羽織った者。
子供を抱えた母親。
誰もが同じ声を出していた。
「大丈夫か」
「怪我してへんか」
「ガス止めたか」
高井田の町は、崩れ落ちてはいなかった。
だが、無傷でもない。
古いブロック塀にひびが入っている。
工場の窓ガラスが割れている。
どこかで棚が倒れたらしく、金属が崩れた音がまだ聞こえる。
黒瀬精機の向かいの小さな工場では、シャッターが途中で止まっていた。
内側から何かが引っかかっている。
隆夫がすぐに外へ出た。
「直人、懐中電灯」
「うん」
美智子も上着を羽織る。
「私も行く」
「無理すんな」
「見るだけや」
3人で向かいの工場へ向かうと、年配の社長がシャッターを半分だけ開けようとしていた。
「手ぇ貸します」
隆夫が声をかける。
「すまん。棚が倒れて、奥へ入られへん」
直人はしゃがんで中を覗いた。
工具棚が倒れ、スパナや箱が床に散らばっている。
通路がふさがっていた。
幸い、中に人はいない。
けれど、もし誰かが奥で寝ていたら。
もし火が出ていたら。
直人は喉を鳴らした。
「まず通路だけ空けましょう」
隆夫が工具箱を横へ動かす。
直人は散らばった金具をかき集めた。
美智子は外から声をかける。
「ガスと電気、見ました?」
「まだや」
「先に見てください。棚は後でも戻せる」
社長は、はっとしたように奥へ向かった。
この1年、黒瀬精機で繰り返してきた言葉が、今はそのまま町へ出ていた。
火元。
通路。
棚。
逃げ道。
それは帳面の言葉ではない。
人が動く順番だった。
午前6時を過ぎる頃、森川修一が走ってきた。
髪は乱れている。
上着の前もちゃんと閉まっていない。
「社長!」
「森川、大丈夫か」
「はい。家は棚が少し倒れただけです。母も無事です」
「怪我は?」
「ありません」
森川は黒瀬精機の中を見て、肩で息をした。
「ここは?」
「立ってる」
隆夫が答えた。
森川の顔が緩んだ。
それからすぐに表情を引き締める。
「何しますか」
「近所を見る。火元、怪我人、通路、棚。無理に機械は動かさん」
「はい」
少し遅れて、宮田悟も駆け込んできた。
顔は真っ青だった。
「すみません、遅くなりました」
「謝らんでええ。家は?」
「大丈夫です。物は落ちましたけど、怪我はありません」
「よし」
隆夫は2人を見る。
「今日は仕事やない。動ける場所を増やす日や」
「はい」
森川と宮田の返事が重なった。
直人はその声を聞きながら、胸の奥が詰まった。
黒瀬精機は動ける。
全員が無事で、工場も立っている。
それは偶然だけではない。
準備していたからだ。
それでも、安心はできなかった。
この揺れの中心は、ここではない。
もっと西。
神戸。
阪神間。
港。
道路。
工場。
家。
まだ誰も、全体を知らない。
午前7時を過ぎても電話はつながりにくかった。
ラジオから流れる声は、まだ混乱していた。
淡路島。
神戸。
大きな地震。
火災。
交通機関の停止。
詳しいことは分からない。
けれど、言葉の隙間から異常さだけが漏れてくる。
田端が来たのは、その少し後だった。
いつものライトバンではない。
歩きだった。
「道、混んでます。車は置いてきました」
「田端さん、家は?」
「無事です。倉庫も大きな倒壊はありません。ただ、棚はかなりやられました。荷物も崩れてます」
田端は息を整える前に続けた。
「黒瀬さん、今日は材料どころやないです。岸和田の便も無理です。阪神方面は完全に読めません。道路も電話も、今は当てになりません」
隆夫は頷いた。
「まず人や」
「はい」
「近いところから見て回る。遠いところは電話がつながるまで無理に動かん」
美智子は電話の前に戻っていた。
何度もかける。
南田板金。
吉岡メッキ。
大西樹脂。
北村。
倉田精密。
伊原弁理士。
つながる時もあれば、何も返らない時もある。
つながった先では、誰もが早口だった。
無事です。
棚が倒れました。
ガラスが割れました。
まだ確認できていません。
そちらは大丈夫ですか。
美智子は、返事を聞くたびに目を閉じた。
怒っている時の顔でも、帳面を詰める時の顔でもない。
ただ、人が生きていることを確かめる顔だった。
午前中、黒瀬精機の者たちは近い工場を回った。
南田板金では、材料棚が少しずれていた。
清水が青い顔で立っている。
「棚、固定しといてよかったです。してなかったら、たぶん倒れてました」
南田は何も言わなかった。
ただ、黒瀬の方へ深く頭を下げた。
吉岡メッキでは、薬品棚の一部がずれていた。
床に落ちた容器があったが、蓋は閉まっていた。
吉岡は険しい顔で言った。
「笑い事やなかったな」
それだけ言って、すぐ片づけに戻った。
大西樹脂では、樹脂板の束が崩れていた。
だが通路は生きている。
白線の内側には何も置かれていなかった。
「線、引いといてよかったです」
大西が言った。
「前なら、ここに箱置いてました」
直人は足元の白線を見た。
ただの線だ。
それでも今は、人が通る場所を守っている。
昼前になって、倉田精密からようやく電話が入った。
片岡の声は疲れていた。
「こちらは大きな人的被害はありません。ただ、一部の棚と記録箱が落ちました。洗浄区画は確認中です」
「神戸方面の取引先は?」
隆夫が聞く。
電話の向こうで、片岡が息を呑んだ。
「まだつながりません。阪神間の協力先がいくつかあります。今は何も分かりません」
「分かったら教えてください。こちらは工場は無事です。動けます。ただ、今日は無理に作りません」
「その判断でいいと思います」
電話が切れたあと、隆夫はしばらく受話器を見ていた。
作れる。
だが、今日は作らない。
そう決めることにも力がいる。
午後になると、テレビの映像が入ってきた。
神戸方面の火災。
倒れた高速道路。
壊れた建物。
煙。
信じられない光景が画面に映る。
美智子は言葉を失った。
森川は拳を握ったまま動かない。
宮田は青ざめた顔で画面を見ていた。
隆夫は、ただ黙っていた。
直人は、画面から目を逸らしたくなった。
知っていた。
知っていたのに、苦しかった。
知っていても、何も止められなかった。
家族を起こした。
棚を固定した。
図面を分けた。
町の工場に通路を空けさせた。
それでも、画面の向こうの街は燃えている。
「直人」
隆夫が低く呼んだ。
「はい」
「今、何する」
直人は画面から目を離した。
父の目は厳しかった。
泣いている暇はない。
悔やんでいる暇もない。
動ける場所で動くしかない。
「近いところの安全確認を終わらせる。急ぎの仕事は止める。納期がある先には、こっちから連絡する。電話が駄目なら近いところは直接行く」
「次は」
「作れるものを見る。棚固定の金具、仮の当て板、壊れた棚や台の補修部品。測定器や図面が落ちた工場の確認も手伝える」
隆夫は頷いた。
「よし」
美智子が立ち上がった。
「今日は売上を追わん。動ける場所を増やす」
田端も言った。
「運ぶ方は、無理に走らせません。道が読めん。まず近場だけです」
森川は宮田の肩を軽く叩いた。
「宮田、うちは工場の中をもう1回見るぞ。落ちたもんをそのまま戻すな。戻す前に、また落ちへん置き方を考える」
「はい」
宮田の返事は震えていた。
それでも足は動いていた。
夕方になっても、安否の分からない先は残った。
阪神間の協力工場の名前が、何度も会話に出る。
誰も、その話を長く続けられなかった。
だが、見ないわけにもいかなかった。
直人は工場の外へ出た。
高井田の空は、いつもと同じように夕方の色をしている。
けれど西の方を見ると、胸がざわついた。
見えないはずの煙が、見えるような気がした。
隆夫が隣に立つ。
「直人」
「何」
「今朝のことは、あとで聞く」
直人は何も言えなかった。
「でも、今は聞かん」
隆夫は続けた。
「今は動く。ええな」
「うん」
「お前が怖がってたことは、無駄やなかった」
その言葉で、直人の喉が詰まった。
泣くな。
今は泣くな。
そう思っても、目の奥が熱い。
「おとん」
「なんや」
「俺、全部は止められへんかった」
隆夫は直人の肩に手を置いた。
「全部止められる人間なんかおらん」
「でも」
「でもやない」
父の声は強かった。
「お前が起こしたから、うちは火を出さんかった。棚も倒れんかった。図面も残った。森川も宮田も、今動けてる。それで十分とは言わん。でも、ゼロやない」
直人は唇を噛んだ。
ゼロではない。
その言葉だけを胸に入れた。
夜になっても、黒瀬精機の作業灯は消えなかった。
機械は動かしていない。
削る音もない。
ただ、床に散った箱を戻し、棚を締め直し、近所から借りた懐中電灯を返し、誰かの無事を待つための灯りだった。
森川と宮田は、工場の奥で倒れかけた小棚を壁際へ移している。
美智子は電話の横に座り、つながるたびに短く返事をしている。
田端は明日の朝、どの道なら近場だけでも回れるかを隆夫と話している。
直人は入口に立ち、西の空を見た。
煙は見えない。
けれど、あちらで何かが燃えていることを知っていた。
「明日、動けるようにしよう」
隆夫が背後で言った。
直人は振り返らずに頷いた。
1995年1月17日。
20歳になった朝に揺れた町で、黒瀬精機はまだ立っていた。
なら、明日も誰かの役に立てる。
そう思うしかなかった。
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