第54話 成人の日の二日後

 1995年1月15日。


 その年の成人の日は、まだ1月15日だった。


 黒瀬直人は、朝から落ち着かなかった。


 誕生日は2日後。


 1月17日になれば、直人は20歳になる。


 だが、市の成人式は、同じ学年の者たちと一緒に今日行われる。


 鏡の前でネクタイを締めながら、直人は自分の顔を見た。


 高校を卒業し、東大阪高等職業技術専門校も修了し、黒瀬精機に本格的に入ってから、まだ1年も経っていない。


 それでも、顔つきは少し変わったと思う。


 子供ではない。


 だが、大人と言い切れるほど強くもない。


 その中途半端さが、鏡の中にいた。


「直人、まだか」


 階下から隆夫の声がした。


「今行く」


 降りると、美智子が玄関で待っていた。


 黒いスーツ姿の直人を見るなり、少し目を細める。


「まあ、ちゃんと人間に見えるやん」


「おかん、褒め方」


「褒めてる」


 隆夫は少し照れくさそうに腕を組んでいた。


「似合うてる」


「ありがとう、おとん」


 直人がそう言うと、隆夫は小さく咳払いした。


 呼び方を変えてから、もうずいぶん経つ。


 それでも「おとん」と呼ぶと、父はまだ少しだけ照れる。


 その顔を見るたび、直人は胸の奥が温かくなった。


 前とは違う。


 父がここにいる。


 母がここにいる。


 黒瀬精機の灯りが、まだ消えていない。


 それだけで、この成人式には意味があった。


 市の成人式会場には、懐かしい顔がいくつもあった。


 布施工業の同級生。


 中学の同級生。


 すでに就職して作業着が似合うようになった者。


 専門学校へ行った者。


 大学へ進んだ者。


 派手なスーツで笑っている者。


 振袖の同級生に照れて目を逸らす者。


 誰もが、どこか浮かれていた。


「黒瀬!」


 布施工業の同級生が手を振った。


「お前、ほんまに工場入ったんやろ?」


「入った」


「似合いすぎや」


「褒めてへんやろ」


「褒めてる褒めてる。で、もう社長か?」


「なるわけないやろ」


 直人は笑った。


 普通の20歳の会話だった。


 いや、正確には、まだ20歳になる2日前の会話だ。


 それでも、直人はその何でもない時間が妙に眩しかった。


 式典の言葉は、半分しか頭に入ってこなかった。


 新成人。


 責任。


 未来。


 地域を支える若者。


 そんな言葉が壇上から流れてくる。


 直人は、会場の天井を見上げた。


 責任。


 未来。


 地域を支える。


 それは、綺麗な言葉だ。


 だが直人にとっては、もっと具体的なものだった。


 棚を固定すること。


 通路を空けること。


 図面を分けておくこと。


 材料の出どころを見ること。


 支払いを確認すること。


 人を削らないこと。


 黒瀬精機を、もう一度潰さないこと。


 式が終わると、同級生たちは写真を撮り、飲みに行く相談をしていた。


 直人も誘われた。


 だが、断った。


「悪い。今日は工場戻るわ」


「成人式の日まで工場かい」


「ちょっと顔出すだけや」


「黒瀬らしいわ」


 友人は笑って肩を叩いた。


 その笑いに悪意はない。


 直人も笑った。


 だが、足は自然に黒瀬精機へ向いていた。


 その夜、黒瀬精機では小さな祝いがあった。


 派手なものではない。


 美智子が少し良い惣菜を並べ、森川修一が珍しく菓子折りを持ってきて、宮田悟が不器用に頭を下げた。


「成人、おめでとうございます」


「ありがとう。宮田さんも、そんな硬くならんでええよ」


「でも、区切りですから」


 森川が笑う。


「直坊も20歳か。俺も年取るわけや」


「森川さん、まだ若いやん」


「宮田の前では先輩やからな」


 隆夫が湯呑みを持ち上げた。


「直人、成人おめでとう」


 美智子も言った。


「ここまで大きくなったな」


 その言葉に、直人は返事が少し遅れた。


 大きくなった。


 ただ年齢が追いついただけではない。


 もう一度、この日を迎えた。


 父と母の前で。


 黒瀬精機の中で。


 それが、直人には何より重かった。


「ありがとう」


 直人は短く言った。


 それ以上言うと、声が揺れそうだった。


 翌1月16日は、振替休日だった。


 黒瀬精機は朝から半日だけ動いた。


 本格的な仕事ではない。


 棚の確認。


 通路の確認。


 図面控えの確認。


 ボンベの鎖。


 消火器の前。


 材料の置き方。


 この1年近く続けてきたことを、もう一度見て回るだけだった。


 森川が苦笑した。


「成人式の次の日に、工場の棚確認か」


「嫌なら帰ってええで」


 隆夫が言うと、森川は首を横へ振った。


「嫌やないです。もう気になるようになってもうたんです」


 宮田も頷いた。


「僕も、通路に物があると落ち着かなくなりました」


 美智子が帳面から顔を上げる。


「それはええ癖やね」


 直人は、工場の隅で図面棚を見ていた。


 固定金具。


 写しの保管。


 取引先一覧。


 材料仕入れ先。


 運送会社の連絡先。


 すべてが完璧ではない。


 それでも、前よりはずっとましだ。


 震えが来ても、全部が倒れるとは限らない。


 全部が失われるとは限らない。


 そこまで考えて、直人は目を閉じた。


 まだ来ていない朝が、胸の奥で鳴っていた。


 1月17日。


 直人は、午前5時20分に目を覚ました。


 眠れなかったわけではない。


 眠ろうとはした。


 だが、身体が先に起きた。


 布団の中で、しばらく天井を見つめる。


 外はまだ暗い。


 家は静かだった。


 その静けさが怖かった。


 直人は起き上がり、上着を羽織った。


 階段を下り、台所の時計を見る。


 5時24分。


 まだ時間はある。


 だが、ない。


 直人はまず、ガスの元栓を見た。


 火の気はない。


 次に工場側へ回る。


 ボンベの鎖。


 油缶。


 図面棚。


 通路。


 消火器。


 見ているうちに、足が震えそうになった。


 落ち着け。


 地震が来るとは言えない。


 でも、家族を布団の中に置いておくわけにはいかない。


 直人は階段の下から声をかけた。


「おとん」


 返事はない。


 もう一度、少し強く言う。


「おとん、起きて」


 隆夫が寝ぼけた声で返した。


「何や、こんな時間に」


「悪い。工場、ちょっと見てほしい」


「工場?」


「ボンベと図面棚。昨日見たけど、やっぱり気になる。今だけでええから」


 少し間があった。


 やがて隆夫が起きる音がした。


「お前、成人式終わってもそれか」


「ごめん」


「謝るな。今行く」


 次に、美智子の声がした。


「何なん、朝から」


「おかんも、火元だけ見て。台所とストーブ」


「火元?」


「お願い。今日だけ」


 美智子は不満そうにしながらも、起きてきた。


 髪も整っていない。


 だが、目はもう半分覚めている。


「直人、あんた何か変やで」


「うん。変でええ。今だけ見て」


 隆夫が工場側の引き戸を開けた。


 直人は時計を見た。


 5時42分。


 胸が鳴る。


 耳の奥が熱くなる。


 手のひらに汗が滲む。


 美智子が台所の元栓を確認し、ストーブの位置を見た。


 隆夫は図面棚の前で、金具を手で揺すった。


「締まってる」


「ボンベは?」


「見てくる」


 直人は通路に立った。


 家族は布団の中にいない。


 火元も見た。


 棚からも離れている。


 それだけでいい。


 それだけでも、意味がある。


 5時46分。


 床の下から、低い音が来た。


 最初は、遠くで大きな車が通ったような響きだった。


 次の瞬間、家全体が横に揺れた。


 ガタガタガタ、と棚が鳴る。


 蛍光灯が大きく振れる。


 金属が触れ合う音が、工場のあちこちから跳ねた。


「来た!」


 直人は叫んだ。


 叫んでから、しまったと思った。


 だが、もう遅い。


 隆夫がボンベから離れて通路へ戻る。


「美智子、離れろ!」


 美智子は台所の棚から一歩下がった。


 食器が中でぶつかる音がする。


 工場の奥で、固定していなかった古い小棚が数センチずれた。


 だが倒れない。


 材料棚は大きく鳴った。


 だが、重い丸棒は下段に移してある。


 図面棚は金具で壁に留まっていた。


 それでも、怖い。


 東大阪の揺れは、神戸のそれとは違う。


 家が潰れるほどではない。


 だが、人を立ち尽くさせるには十分だった。


 長いようで、短い揺れが過ぎた。


 工場の中に、金属の余韻だけが残る。


 誰もすぐには動けなかった。


 美智子が、震えた声で言った。


「何……今の」


 隆夫は直人を見た。


 その目は、ただ驚いているだけではなかった。


「直人」


 低い声だった。


「お前、ほんまに何か分かってたんか」


 直人は、すぐには答えられなかった。


 喉が乾いている。


 心臓が痛いほど鳴っている。


 それでも、言葉を選んだ。


「分かってたわけやない」


 嘘ではない。


 全部を言っていないだけだ。


「でも、嫌な気がした。棚も、火元も、ずっと怖かった」


 隆夫は、しばらく直人を見ていた。


 それ以上、聞かなかった。


 代わりに、工場の奥を見た。


「確認するぞ。けがは?」


「私は大丈夫」


 美智子が答える。


「直人は?」


「大丈夫」


「森川と宮田に連絡や」


 電話へ向かおうとした美智子が、受話器を取って顔をしかめた。


「つながりにくい」


 隆夫は工場の入口を開けた。


 外はまだ暗い。


 近所の家から声が聞こえる。


 どこかでガラスの割れた音。


 犬の鳴き声。


 誰かが「大丈夫か」と叫んでいる。


 黒瀬精機は立っていた。


 棚も倒れていない。


 図面も失われていない。


 火も出ていない。


 だが直人は、安心できなかった。


 この揺れの本当の中心は、ここではない。


 もっと西。


 もっと海に近い場所。


 もっと多くの工場と家と道がある場所。


 まだ誰も知らない。


 だが、直人は知っている。


 これから、道が止まる。


 電話が止まる。


 荷物が止まる。


 そして、多くの人が帰ってこない。


 美智子が、震える手で帳面を閉じた。


「直人」


「何」


「昨日までに、棚を下ろしててよかったな」


 直人は、何も言えなかった。


 ただ頷いた。


 成人の日から2日後。


 直人が20歳になった朝。


 黒瀬精機は、まだ来ていない揺れに備えてきた理由を、初めて本当の形で知った。


 そして町は、まだ夜明け前の暗さの中で、これから失うものの大きさを知らずにいた。


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