第53話 止まった便
1993年の冬は、音より先に遅れが来た。
高井田の路地に響く機械音は、まだ消えていない。
だが、材料屋の田端が黒瀬精機へ持ってくる声は、以前より低くなっていた。
「黒瀬さん。明日の丸棒、午後になります」
隆夫は旋盤の手を止めた。
「午前着の予定やなかったですか」
「予定はそうでした。岸和田からの便が、1本まとめられました」
「またですか」
「はい」
田端は作業台に伝票を置いた。
「荷物が減ってるんです。便を分けて走らせても合わない。運送屋も、今までみたいには動けません」
森川修一が眉を寄せる。
「こっちの都合だけでは動かん、いうことですね」
「そうです」
田端は苦い顔で頷いた。
「材料があるかどうかだけやない。運ぶ車があるか。積む順番が合うか。そこまで見ないと、予定通りには来ません」
直人は、作業台の端で黙って聞いていた。
東大阪高等職業技術専門校の機械加工系1年課程も、後半に入っている。
専門校では、加工だけでなく、段取り、安全、測定、機械の保守、作業を次へ渡す考え方を叩き込まれていた。
同時に、直人は教習所にも通っている。
仮免は取った。
路上教習も始まった。
けれど、まだ普通免許はない。
運転できる人間として数えるには早い。
それでも、道を見る目は以前より変わっていた。
材料が来る。
それは自然に起きることではない。
誰かが積み、誰かが走り、誰かが降ろしている。
そのどこかが止まれば、黒瀬精機の機械も止まる。
美智子が帳面を見ながら聞いた。
「その丸棒、どの仕事に使う分?」
「倉田精密の協力工場確認用の治具と、南田板金の当て板です」
森川が答えた。
「南田さんの方は、明後日から削る予定でした」
隆夫は少し考えた。
「午後に入れば間に合うか」
「間に合います。ただ、明日またずれたら怪しいです」
田端はそう言った。
言葉の終わりに、嫌な重さがあった。
翌日、丸棒は来なかった。
午前を過ぎても、午後を過ぎても、材料は届かない。
代わりに、夕方近くになって田端のライトバンが黒瀬精機の前へ止まった。
降りてきた田端の顔は暗い。
「すみません。今日、入りません」
工場の音が止まった。
隆夫が低く聞く。
「何がありました」
「岸和田側で積み替えが詰まりました。荷物はあるんです。ただ、便が出ない」
森川が唇を噛んだ。
「材料があるのに、来ないんですか」
「はい」
直人は、その言葉を胸の中で繰り返した。
材料があるのに、来ない。
それは、これから何度も起きる。
もっと大きな形で。
もっと残酷な形で。
だが今は、まだ間に合う。
「田端さん」
直人が口を開いた。
「取りに行ける場所なんですか」
田端が振り向く。
「行けます。ただ、向こうも荷物が混んでる。こっちで取りに行くなら、先に連絡しておかないと出してもらえません」
隆夫が腕を組んだ。
「取りに行くか」
美智子がすぐに言った。
「誰が?」
工場が静かになる。
隆夫が行けば、工場の段取りが止まる。
森川が行けば、宮田悟の面倒を見る人間が減る。
田端は他の納品も抱えている。
直人は、まだ免許がない。
「俺が行きます」
森川が言った。
だが、隆夫はすぐに首を横へ振った。
「お前は残れ。明日の段取りを動かせるのは、お前や」
「でも」
「材料が来た時に、すぐ受けられる人間がいる」
田端が言った。
「僕が走ります。ただ、黒瀬さんの誰かに来てもらえると助かります。荷物の確認がいる」
隆夫は一瞬だけ迷い、直人を見た。
「直人」
「うん」
「行けるか」
美智子の目が鋭くなった。
「運転は田端さん。直人は確認だけ」
「分かってる」
「専門校は?」
「明日は休み。教習所は夕方からやけど、変更できる」
「疲れたら工場には入らない」
「はい」
美智子はまだ納得した顔ではなかった。
だが、最後には頷いた。
「行って、見るだけやない。何が詰まってるか、ちゃんと聞いてき」
翌朝、直人は田端のライトバンに乗った。
運転席ではない。
荷物を載せるため、後ろの座席の片側に座った。
田端は発進前に言った。
「直坊、今日は運転の勉強にもなるで」
「はい」
「急いでる時ほど、急いでる顔をしたらあかん。向こうも焦ってる。こっちまで焦ったら、荷物も人も雑になる」
直人は頷いた。
車は東大阪を抜け、南へ向かった。
岸和田方面へ近づくにつれ、道路の空気が変わる。
大きな荷物を積んだ車が増える。
工場と倉庫と運送会社が、町の中に重なっている。
着いた倉庫では、すでに何台もの車が待っていた。
鉄管。
継手。
丸棒。
箱に入った小物。
荷物はある。
だが、流れていない。
積む順番が変わり、便がまとめられ、急ぎの荷物とそうでない荷物が倉庫の中で混ざっていた。
田端は担当者と話した。
「黒瀬精機分の丸棒、引き取りに来ました」
担当者は伝票を見て、奥へ声をかけた。
「ちょっと待ってください。昨日の積み替え分、まだ出し切れてないんです」
直人は倉庫の中を見た。
荷物が山になっている。
ラベルはある。
伝票もある。
だが、動線が詰まっている。
誰かが怠けているわけではない。
人も車も動いている。
それでも流れが濁っている。
田端が小声で言った。
「見えるか」
「うん」
「何が見える?」
「荷物はある。でも、取り出す順番が詰まってる。黒瀬精機の材料が奥に入ってたら、そこまで行くのに時間がかかる」
「そうや」
田端は少し笑った。
「材料屋も運送屋も、魔法みたいに物を出してるわけやない」
「分かった」
「分かってくれたら、こっちも嬉しい」
待っている間、直人は担当者に話を聞いた。
岸和田から出る便が減っていること。
いくつかの荷物が別拠点へ寄せられていること。
大きな会社が、まとめて運ぶ方へ切り替え始めていること。
まだ急激ではない。
だが、流れは変わり始めている。
「今後、もっとまとめられますか」
直人が聞くと、担当者は少し肩をすくめた。
「上の考え次第やね。荷物が減れば便も減る。大きいところへ寄せれば、こっちは楽になる部分もある。でも、ここの仕事は減る」
ここの仕事は減る。
その言葉が、直人の胸に沈んだ。
工場が消える時、消えるのは機械の音だけではない。
運ぶ人の仕事も消える。
積む人の仕事も消える。
待っている車も消える。
丸棒は、ようやく昼過ぎに出てきた。
田端は荷物の傷と寸法を確認し、直人も伝票と仕事番号を照らし合わせた。
帰りの車内で、田端は言った。
「今日の半日、黒瀬さんとこから見たら無駄に見えるかもしれません」
「無駄やないと思う」
「ほう」
「材料が遅れる理由を見た。どこへ聞けばいいかも分かった。次から、来ないってなってから慌てるんじゃなくて、前の日に確認できる」
田端はハンドルを握ったまま、少しだけ笑った。
「直坊、だいぶ運ぶ側の目になってきたな」
「まだ乗ってるだけやけど」
「乗って見るのも大事や」
黒瀬精機へ戻ると、森川と宮田がすぐ荷物を受けた。
「傷なし。長さ確認します」
宮田が声を出す。
森川が横で頷く。
「急ぐな。今日来た材料は、今日の焦りを持ったまま削ったらあかん」
直人は、その言葉に少し驚いた。
森川が、そんな言い方をするようになった。
材料が遅れた焦りを、機械に持ち込まない。
それは、大事なことだった。
隆夫が田端に頭を下げた。
「助かりました」
「こちらこそ、現場を見てもらえて助かりました。材料が遅れるのを、こっちの怠慢だけと思われたらつらいですから」
美智子は、受け取った伝票を見た。
「次から、岸和田便のものは前日確認やね」
「はい」
田端は頷いた。
「それと、急ぎの時の引き取り先も控えておきます」
美智子は紙を出しかけて、ふと手を止めた。
そして、工場の奥を見た。
「これは紙だけでは足りんね」
直人は顔を上げた。
美智子は言った。
「実際に取りに行ける人。荷物を見て確認できる人。急ぎでも焦らん人。そこもいる」
隆夫が頷く。
「人の段取りやな」
「そう」
美智子は直人を見る。
「直人、免許は急がなくてええ。でも、取るならちゃんと取り。運転できるだけやなく、荷物を運ぶ仕事を分かって取り」
「うん」
冬に入る頃、直人は路上教習を続けていた。
まだ本免には届かない。
専門校と黒瀬精機と教習所の3つを回すのは、思った以上に疲れる。
美智子は何度も言った。
「今日は工場に入らんでええ」
「でも」
「でもやない」
その夜も、直人は教習所から帰ってすぐ、工場へ顔を出そうとした。
美智子が玄関で止めた。
「今日は飯食べて寝る」
「おかん」
「教習所で疲れた目で工場入ったら、何か見落とす。見落とすくらいなら入らん方がええ」
隆夫も奥から言った。
「聞いとけ」
直人は小さく息を吐いた。
「分かった」
その代わり、翌朝早く起きて、工場の通路だけ見た。
白い線の内側に物はない。
消火器の前も空いている。
図面棚は金具で固定された。
ボンベの鎖も締まっている。
全部が完璧ではない。
だが、前よりは強い。
1994年1月。
直人はようやく普通免許を取った。
合宿ではない。
専門校へ通い、黒瀬精機を手伝い、教習所へ通いながらの免許だった。
時間はかかった。
その分、怖さも残った。
免許証を見せた時、美智子は最初にこう言った。
「おめでとう。で、1人で納品には行かせへん」
直人は苦笑した。
「分かってる」
隆夫は笑った。
「最初は俺の横や」
田端も言った。
「その次は僕の横やな。荷物の積み方から見てもらう」
直人は頷いた。
免許を取ったから、何でもできるわけではない。
むしろ、できることの怖さが増えただけだった。
2月。
南田板金から急ぎの相談が入った。
部品ではない。
固定金具だった。
材料棚の見直しを進めていた南田の工場で、古い棚を壁へ固定するための金具が足りない。
既製品では合わない場所がある。
簡単なものでいいから、作れないか。
隆夫は現場を見に行くことにした。
助手席には直人。
運転は隆夫。
帰り道の短い区間だけ、直人が運転した。
空荷だった。
それでも、手に汗をかいた。
工場の前へ戻ってきた時、隆夫が言った。
「怖かったか」
「怖かった」
「それでええ」
「いつ慣れるんやろ」
「慣れたら、また怖がれ」
直人は、父の言葉を胸にしまった。
3月。
東大阪高等職業技術専門校の1年課程が終わった。
修了証を受け取った時、直人は布施工業の卒業式とは違う重さを感じた。
高校の3年は、自分を現場へ戻すための土台だった。
専門校の1年は、現場へ戻る直前に、もう一度手元と足元を見直す時間だった。
先生は直人に言った。
「黒瀬。お前は現場へ戻るんやな」
「はい」
「なら、覚えたことを全部使おうとするな」
「え?」
「現場は、教科書通りには動かん。使う順番を間違えるな。必要な時に、必要な分だけ出せ」
直人は深く頭を下げた。
「はい」
黒瀬精機へ戻ると、作業台の上に小さな菓子が置かれていた。
美智子は帳面を閉じて言った。
「修了おめでとう」
「ありがとう、おかん」
隆夫も言う。
「これで、いよいよ本格的に黒瀬精機やな」
「うん」
森川がにやりと笑った。
「直坊、これからは手伝いやなくて、逃げられへんで」
「森川さんこそ、教えてくださいよ」
「おう。厳しくいくで」
宮田も笑った。
この1年で、宮田の顔つきも少し変わっていた。
まだ若い。
まだ迷う。
けれど、図面を見る目は前より落ち着いている。
春の終わり、町工場相談会では、棚固定用の簡易金具の相談が増えた。
最初は笑っていた社長たちも、実際に自分の工場を見て、顔色を変えた。
重い材料。
古い棚。
通路の荷物。
消火器の前の箱。
動かせば、いくらでも出てくる。
黒瀬精機は、全部を作ることはしなかった。
既製品で済むものは既製品。
大西樹脂が作れる保護材は大西へ。
南田板金が曲げられる金具は南田へ。
黒瀬精機は、特に機械や図面棚の固定に必要な小さな当て板やスペーサーを担当した。
それは大きな売上ではない。
だが、町の工場が自分の足元を見るきっかけになった。
田端がぽつりと言った。
「黒瀬さん、これ、仕事としては地味ですけど、町には効いてますよ」
隆夫は棚固定用の小さな金具を手に取り、静かに答えた。
「倒れてからでは遅いですから」
直人は、その言葉を聞いていた。
倒れてからでは遅い。
それは棚だけではない。
工場も。
人も。
物流も。
町も。
1994年春。
黒瀬精機は、材料便が止まる怖さを見た。
専門校の1年課程を終えた直人は、免許証を持ったばかりの若い手として、黒瀬精機へ本格的に戻ろうとしていた。
岸和田方面の荷物の流れも見た。
町の工場では、棚と通路と消火器の前を見る目が少しずつ変わり始めた。
1995年まで、あと1年を切っている。
直人は、まだ何も止められていない。
だが、少しだけ倒れるものを減らしている。
少しだけ、動ける手を増やしている。
夜、直人はノートに書いた。
岸和田便、止まった。
材料はあっても、便が止まれば来ない。
免許証は手にした。
でも、まだ1人では行かない。
専門校、修了。
棚固定の金具、町で増える。
倒れてからでは遅い。
最後に、こう書いた。
備えは、派手な仕事ではない。
でも、派手に壊れる前にしかできない。
階下から、おとんが機械を止める音がした。
おかんが帳面を閉じる音がした。
森川が宮田に、明日の材料を床近くへ置けと言う声がした。
黒瀬精機は、冷えた町の中で、まだ来ていない揺れに向けて、ひとつずつ足元を低くしていた。
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