第52話 倒れる棚

 1993年5月。


 直人が東大阪高等職業技術専門校へ通い始めて、1か月が過ぎた。


 専門校の実習場には、布施工業とは違う緊張があった。


 高校を出たばかりの者。


 一度現場で働いてから来た者。


 工場を辞めて学び直しに来た者。


 家業を継ぐために来た者。


 年齢も、背負っているものもばらばらだった。


 最初の実習で、先生は工具箱の前に立って言った。


「機械は、人間の都合を待たん」


 声は低いが、よく通った。


「危ないと思った時には、もう遅い。通路を空ける。重い物を上に置かん。刃物も材料も、人を殺すと思って扱え」


 直人は、その言葉を聞いて胸の奥が冷えた。


 機械。


 棚。


 材料。


 通路。


 逃げ道。


 そのどれもが、直人の記憶の底にあるものと重なる。


 1995年1月17日。


 あの朝のことを、直人は忘れていない。


 だが、それを口に出すことはできない。


 言っても信じてもらえない。


 下手に言えば、ただの気味の悪い予言になる。


 だから、直人は別の言葉を探していた。


 地震が来るからではない。


 棚が倒れたら人が死ぬから。


 火事や台風でも工場は止まるから。


 材料が1か所から来なくなれば、仕事が止まるから。


 図面が燃えれば、作れるものも作れなくなるから。


 そう言えば、今でも通じる。


 そのきっかけは、思ったより早く来た。


 6月のある日、田端のライトバンで大西樹脂へ寄った帰り、黒瀬精機へ戻る途中で連絡が入った。


 吉岡メッキの近くの協力工場で、材料棚が倒れかけたという。


 田端は顔色を変えた。


「直坊、ちょっと寄るで」


「うん」


 工場に着いた時、中はざわついていた。


 棚は完全に倒れたわけではない。


 鉄材を立てかけた棚が大きく傾き、隣の作業台にぶつかって止まっていた。


 若い作業者が1人、床に尻もちをついている。


 腕に軽い擦り傷があるだけだった。


 けれど、直人の背中には冷たい汗が流れた。


 あと少しで頭を打っていた。


 あと少しで通路を塞いでいた。


 あと少しで、もっと悪いことになっていた。


「大丈夫か」


 田端が駆け寄る。


 若い作業者は、顔を青くして頷いた。


「はい……すみません」


 その謝る声に、直人は強い違和感を覚えた。


 違う。


 これは、この人だけのせいではない。


 棚の上に重い材料がある。


 下には軽い箱。


 通路の端には空箱。


 棚の足元には木片が噛ませてある。


 壁には固定されていない。


 倒れやすい形で、ずっと立っていただけだ。


「これ、今すぐ下ろした方がええです」


 直人は思わず言った。


 工場の社長が振り向く。


「君は?」


「黒瀬精機の黒瀬です」


 田端が補足した。


「黒瀬さんとこの息子さんです」


 社長は少し困った顔をした。


「いや、今片づけるから」


「片づけるんやなくて、上の重いやつ、先に下ろした方がええです。次、誰か触ったらほんまに倒れます」


 自分でも、声が強すぎると分かった。


 だが止められなかった。


 目の前の傾いた棚が、まだ来ていない朝の光景と重なる。


 工場の社長は一瞬むっとしたが、田端がすぐ入った。


「社長、今日は下ろしましょう。怪我人が軽く済んだうちです」


 吉岡も、いつの間にか入口に立っていた。


「下ろせ。こんなん、次は笑えん」


 その一言で、場が動いた。


 材料を下ろす。


 重い物を床近くへ移す。


 通路の空箱を片づける。


 傾いた棚から、さらに何本か鉄材がずり落ちた。


 金属が床へ当たる音に、直人は肩を震わせた。


 その日の夕方、黒瀬精機に戻った直人は、いつもより口数が少なかった。


 隆夫が気づく。


「何かあったんか」


 田端が説明した。


 材料棚。


 転倒未遂。


 若い作業者の擦り傷。


 上に重い物。


 固定なし。


 通路の空箱。


 隆夫は眉を寄せた。


「それは怖いな」


「怖いどころやない」


 直人は思わず言った。


 工場が静かになる。


 美智子が帳面から顔を上げた。


「直人?」


 直人は息を吸った。


 言葉を選ぶ。


 未来を言わない。


 でも、今できることを言う。


「おとん。うちの棚も見直した方がええ」


「うちの棚?」


「材料棚。図面棚。油缶。ボンベ。測定器の棚。重い物を上に置いてないか。通路を塞いでないか。倒れたら逃げ道が残るか」


 森川修一が腕を組んだ。


「急にどうしたんや、直坊」


「急やない。今日の見たら、普通に怖い」


「まあ、それはそうやけど」


「地震やなくても倒れる。フォークリフトが当たっても倒れる。誰かが引っかけても倒れる。棚が倒れて通路塞いだら、火事の時も逃げられへん」


 地震、という言葉を直人は一度だけ出した。


 それ以上は踏み込まない。


 隆夫は直人の顔を見ていた。


「地震でも来るみたいな顔しとるな」


 直人の心臓が跳ねた。


 だが、すぐに首を横へ振った。


「見えてるわけやない。でも、なくしてから探しても遅いもんってあるやろ。図面とか、連絡先とか、逃げ道とか」


 隆夫は、深く聞かなかった。


 ただ、静かに頷いた。


「ほな、なくす前に見よう」


 美智子が立ち上がった。


「今見よう。怖いと思った時に見んかったら、また後回しになる」


 その一言で、黒瀬精機の中が動いた。


 仕事は止めた。


 1時間だけ、と美智子が決めた。


 全員で工場を見る。


 まず材料棚。


 重い丸棒が上段にあった。


 森川が顔をしかめる。


「これ、俺が置きました」


「下ろす」


 隆夫が言った。


 次に油缶。


 通路の端に寄せてあるが、倒れたら逃げ道に転がる。


 位置を変える。


 ボンベには鎖がある。


 だが緩い。


 締め直す。


 消火器の前には空箱があった。


 宮田悟がすぐどけた。


「すみません。僕が置きました」


「謝るより、次置かん場所を決める」


 森川が言う。


 その声は、前よりずっと落ち着いていた。


 図面棚は、壁に寄せてあるだけだった。


 引き出しを開けると、前へ重みがかかる。


 美智子がそれを見て、眉を寄せた。


「これ、倒れたら図面も帳面も終わりやね」


 直人は頷いた。


「写しも分けた方がええ。全部ここにあるのは怖い」


 隆夫が言う。


「家の方にも置くか」


「家も同じ建物やろ。できたら伊原先生のところとか、田端さんのところとか、別の場所にも大事な控えだけ」


 田端が目を丸くした。


「うちに?」


「全部やなくてええねん。取引先一覧、実用新案、クロフィックスの仕様控え、主要図面の写し。燃えたり濡れたりしたら困るやつだけ」


 田端は少し真顔になった。


「預かること自体はできます。ただ、どこまで預かるかは決めましょう。大事な情報ですから」


 美智子が頷いた。


「それはそうやね」


 いつものように紙を増やす話ではない。


 今日は、実際に物を動かした。


 棚を下ろす。


 重い材料を床近くへ。


 通路を空ける。


 消火器の前を空ける。


 ボンベの鎖を締め直す。


 図面棚の足元に転倒防止の木を噛ませ、後日金具で固定する。


 宮田は床に白いテープで通路の線を引いた。


「ここ、物置いたらあかん場所ですか」


「そうや」


 森川が言う。


「置いたら俺が怒る」


 宮田は真面目に頷いた。


「はい」


「俺も置いたら怒ってくれ」


 宮田は驚いた顔をした。


「森川さんを、ですか」


「そうや。通路は全員の逃げ道や」


 その言葉に、直人は少しだけ救われた。


 逃げ道。


 それを森川が言った。


 この工場は変わっている。


 少しずつだが、本当に変わっている。


 7月。


 棚の件は、町工場相談会でも話題になった。


 最初は、皆が少し笑った。


「黒瀬さんとこ、今度は棚まで見るんか」


 そう言った社長もいた。


 だが、吉岡が低い声で言った。


「笑い事やない。あれは、ほんまに潰れててもおかしくなかった」


 現場を見ていた吉岡の言葉には重みがあった。


 南田も腕を組む。


「うちも材料立てかけてる場所あるな」


 大西樹脂が言う。


「樹脂板でも、まとまると重いですからね」


 田端は、その場でひとつ提案した。


「まず、各工場で見るだけ見ませんか。重い物が上。逃げ道の前。消火器の前。ボンベの固定。棚の足元。この5つだけ」


 北村が頷いた。


「商工会としても、安全確認の名目なら動かしやすいです」


 直人は、会議の端にいた。


 口は出さなかった。


 ただ、自分の胸の中で、あの日の朝を思い出していた。


 1995年1月17日。


 近づいている。


 まだ1年以上ある。


 けれど、今からでなければ間に合わないものがある。


 大がかりな予言はできない。


 町全体を救えるわけでもない。


 それでも、棚1つ。


 通路1本。


 図面1枚の控え。


 それならできる。


 8月。


 直人は普通免許を取るため、教習所へ通い始めた。


 理由は単純だった。


 材料や図面や人の流れを見るなら、自分の足だけでは足りない。


 田端の車に乗せてもらってばかりでは、いざという時に動けない。


 黒瀬精機の軽トラも、誰かが運転できるかどうかで仕事の逃げ道が変わる。


 直人がその話をすると、美智子はすぐに顔をしかめた。


「免許取ったら、便利屋にされるで」


「されへんようにする」


「ほんまに?」


「おかんが決めた時間以外は乗らへん」


「私を盾にするな」


 隆夫は少し笑った。


「でも、免許はあった方がええ。材料取りに行く時も、急ぎの確認に行く時も、動ける人間が増える」


 美智子はしばらく考えた。


「条件」


「はい」


「専門校を休まない。教習所で疲れた日は工場に入らない。免許を取っても、しばらくは1人で納品へ行かない。最初はおとんか田端さんと一緒」


「わかった」


「それと、運転できるから偉いわけやない。荷物を積む、固定する、道を選ぶ、帰ってくる。そこまで仕事やで」


 直人は頷いた。


「うん。荷物が崩れたら終わりやしな」


 田端が横で笑った。


「直坊、運送屋みたいなこと言うようになってきたな」


「田端さんらの仕事見てたら、そう思う」


「そら嬉しいわ」


 教習所へ通い始めると、直人はすぐに運転の怖さを知った。


 まだ仮免にも届かない。


 場内を走り、止まり、曲がり、確認するだけで精いっぱいだった。


 車も、機械と同じで空気を読まない。


 ブレーキを遅らせれば遅れる。


 確認を飛ばせば見落とす。


 荷物を積めば、曲がる時に重さが動く。


 教習所の車に乗りながら、直人は何度も田端の運転を思い出した。


 あの人は、ただ道を走っているのではない。


 荷物の重さと、時間と、道と、相手先の都合を同時に見ている。


 運ぶ仕事も、ものづくりの一部なのだ。


 9月。


 田端が、運送屋を連れて黒瀬精機へ来た。


 男は、以前に岸和田方面の便の話をした運送屋だった。


「便がまた変わりそうです」


 男は、作業台の前でそう言った。


「鉄管や継手みたいな荷物の出どころが、少しずつ寄ってきてる。岸和田から出てたものが減って、別の拠点へまとめる話もあります。川崎の方からまとめて出す形も、今後増えるかもしれません」


 隆夫が眉を寄せる。


「関西の工場から出てたものが、関東から?」


「全部ではないです。でも、そういう流れが出てます。大きい会社は、効率を見ますから」


 直人は、拳を握った。


 効率。


 集約。


 出荷元の変更。


 それは、震災の後に一気に進むものだと思っていた。


 だが、芽はもうある。


 震災がなくても、町の仕事は少しずつ別の場所へ寄せられていたのかもしれない。


 あの震災は、それを一気に押しただけなのかもしれない。


 美智子が聞いた。


「うちが気をつけることは?」


 運送屋は少し考えた。


「出荷元を1つと思い込まないこと。材料がどこから来て、どの便で来ているかを、田端さん任せにしすぎないこと。急ぎの時に、どこへ聞けばいいか決めておくこと」


 直人は、その言葉を聞いていた。


 紙に書くだけでは足りない。


 実際に、誰に電話するか。


 どこへ取りに行けるか。


 どの便なら間に合うか。


 そこまで見なければ、止まる。


 田端が言った。


「黒瀬さん、1回、岸和田の方も見に行きますか」


 隆夫は驚いた。


「うちが?」


「材料や荷物の流れを見るなら、現場を見た方が早いです。全部は無理でも、1回見ておけば違います」


 直人は顔を上げた。


 行くべきだ。


 ただ工場の中で考えていても、物流は見えない。


 隆夫は少し迷ったあと、頷いた。


「行きましょう」


 10月。


 隆夫、田端、直人は、岸和田方面へ向かった。


 運転は田端だった。


 直人はまだ教習所に通い始めたばかりで、仕事の車を任される段階ではない。


 だが、後部座席からでも見るものはあった。


 黒瀬精機の工場では、美智子と森川、宮田が留守を守る。


 車の窓から見える景色は、東大阪とは違っていた。


 工場。


 倉庫。


 運送会社。


 大きな道路。


 荷物の積み替え。


 鉄管や継手の束。


 直人は、それを見ながら、胸の奥が重くなるのを感じた。


 今はまだ、ここに荷物がある。


 まだ人が動いている。


 まだ便がある。


 けれど、出どころが変われば、この景色も変わる。


 工場だけではない。


 運ぶ人の仕事も、積む人の仕事も、降ろす人の仕事も変わる。


 帰り道、田端が言った。


「直坊、教習所はどうや」


「怖いです」


「ええことや」


「ええんですか」


「怖い方がええ。運転は、慣れた頃が一番危ない」


 隆夫が横で頷いた。


「機械も車も一緒やな」


「うん」


 直人は窓の外を見た。


 夕方の空が赤い。


 その赤さが、少しだけ不気味に見えた。


 1993年秋。


 黒瀬精機は、棚を固定し、通路を空け、図面の控えを分け、岸和田方面の荷物の流れを見た。


 直人は教習所へ通い始め、運ぶことの怖さを少しずつ知り始めた。


 どれも、すぐに売上になる話ではない。


 むしろ、手間ばかり増える。


 だが直人には分かっていた。


 これは、未来のための備えだ。


 予言ではない。


 工場を止めないための備え。


 人を潰さないための備え。


 図面を失わないための備え。


 材料が来なくなった時、慌てないための備え。


 夜、直人はノートに書いた。


 棚は倒れる。

 通路は逃げ道。

 図面は分ける。

 材料は、どこから来るか見る。

 岸和田の荷物。川崎へ寄る流れ。

 教習所に通い始めた。

 車も、機械と同じで空気を読まない。


 最後に、こう書いた。


 地震は止められない。

 でも、倒れるものは減らせる。

 止まった時に動ける手は、増やせる。


 鉛筆を置くと、階下からおとんの声がした。


「直人、明日早いんやろ。寝ぇや」


「分かってる」


 直人はノートを閉じた。


 1995年まで、あと1年と少し。


 できることは少ない。


 だが、ゼロではない。


 黒瀬精機は、町の流れが変わる音と、まだ来ていない揺れの気配を、少しずつ聞き取り始めていた。


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