第49話 入る金の遅れ
1992年春。
黒瀬直人は、布施工業高等学校の2年生になった。
機械科の授業は、1年の頃より少しずつ重くなっていた。
製図の線は、ただ真っ直ぐ引くだけでは済まない。
寸法の入れ方。
公差。
材料記号。
加工順。
測定方法。
先生の話も、だんだん現場に近づいてくる。
直人は、ノートを取りながら何度も黒瀬精機を思い出した。
線1本の太さ。
数字1つの位置。
それだけで、作る人間の迷いが増えたり減ったりする。
図面は、紙の上の絵ではない。
現場の手を動かす指示なのだ。
その一方で、黒瀬精機では宮田悟が3か月目に入っていた。
まだ機械は1人で触らせてもらえない。
けれど、掃除だけの見習いではなくなっている。
図面の右下を見る。
最新版と旧版を声に出す。
流れ札の番号を確認する。
ノギスを拭いてから使う。
マイクロメータを締めすぎない。
作業後に測定器を戻す。
どれも地味だった。
だが、その地味なことを毎日続けられるかどうかが、黒瀬精機の次の土台になっていた。
「宮田、図面番号」
森川修一が言った。
「KR-PL-006、改訂Bです」
「仕事番号は?」
「1992-MA-MS-003です」
「声、小さい」
「1992-MA-MS-003です」
「よし」
森川は頷いた。
少し前まで教えられる側だった森川が、今では宮田の声の大きさまで見ている。
直人は学校帰りにその光景を見るたび、不思議な気持ちになった。
父から森川へ。
森川から宮田へ。
その流れができている。
前の人生では、そこがうまく渡らなかった。
腕のある人間が、自分の手の中に仕事を抱えたまま年を取っていった。
今は違う。
まだ小さい。
まだ頼りない。
だが、仕事が人から人へ渡り始めている。
そんな春の終わり、黒瀬精機に別の種類の怖さが入ってきた。
最初に気づいたのは、美智子だった。
「隆夫さん、丸進さんの入金、まだやね」
作業台の上に帳面が開かれている。
隆夫は手を止めた。
「今月末やなかったか」
「今月末の予定やった。でも、今日電話したら、来月10日になるって」
森川が顔を上げる。
「遅れるんですか」
「10日だけなら、まだええ。でも、理由が気になる」
美智子は帳面の端を指で叩いた。
「向こうも入金が遅れてるらしい」
工場の空気が少し重くなった。
仕事は終わっている。
納品もした。
相手も使っている。
それでも、金が入る日が遅れる。
材料代は待ってくれない。
給料も待てない。
電気代も、家賃も、税金も、こちらの都合で止まらない。
直人は、その怖さを知っていた。
前の人生で何度も見た。
仕事はある。
忙しい。
でも金がない。
その状態が、一番危ない。
「お父ちゃん」
「なんや」
「仕事番号の横に、入る予定の日も書いた方がええんちゃう?」
美智子が顔を上げる。
「入金予定日?」
「うん。仕事が終わった日だけやなくて、金が戻ってくる日。そこが分からんかったら、工場の荷物だけ出ていって、帰りの便がいつ来るか分からんのと一緒やろ」
田端が、ちょうど入口から入ってきたところだった。
「帰りの便、ですか」
「材料運んでも、帰り便が空やったら困るんちゃう?」
田端は苦笑した。
「困りますね」
「金もたぶん一緒やと思う。仕事を出したら、いつ戻ってくるか見とかんと怖い」
美智子は、すぐに新しい紙を出した。
入金予定表。
仕事番号。
取引先。
納品日。
請求日。
入金予定日。
入金確認日。
遅れ。
理由。
森川が顔をしかめた。
「また紙が増えた」
「これはいる紙や」
美智子は即答した。
「売上だけ見て安心したらあかん。入ってくる日まで見な、工場は回らへん」
隆夫は黙って帳面を見ていた。
仕事を取る。
作る。
納める。
それで終わりではない。
金が入るまで、仕事は本当には終わっていない。
その当たり前のことが、景気の熱が冷え始めた町では、急に重くなる。
6月になると、似た話が増えた。
大和計測は予定通りだった。
倉田精密も遅れなかった。
だが、三和加工からの支払いは5日遅れた。
丸進製作所は、10日遅れた。
町工場相談会の費用も、商工会を通す分だけ処理が遅れることがあった。
どれも、1件だけなら大きな問題ではない。
だが、重なると違う。
美智子の入金予定表には、赤鉛筆が増えた。
「遅れが出るところは、理由を聞く」
美智子が言った。
「ただし、責めるんやない。次の予定を組むために聞く」
隆夫は頷いた。
「支払いが遅れそうな仕事は、受け方を変える必要があるな」
「前金、着手金、分割。どれかやね」
田端が言った。
「黒瀬さん、町工場でそこまで言うと嫌がられるかもしれませんよ」
美智子は田端を見た。
「嫌がられても潰れるよりましです」
「それはそうです」
直人は、入金予定表を見ながら思った。
工場の流れは、部品だけではない。
金も流れる。
人も流れる。
情報も流れる。
どこかで止まれば、別の場所が詰まる。
倉田精密の乾燥待ち棚で見たことと、同じだった。
止まる場所を見えるようにする。
それは、金にも必要だった。
6月の終わり、丸進製作所の社長が黒瀬精機へ来た。
顔には疲れがあった。
だが、逃げるような目ではなかった。
「黒瀬さん、入金が遅れて申し訳ありませんでした」
隆夫は頭を下げ返した。
「事情は聞いています。今回は入金も確認できました」
「次の相談があるのですが」
美智子の鉛筆が止まる。
丸進の社長は、少し言いにくそうに続けた。
「次は少し大きい仕事になります。ただ、支払いが60日後になる可能性があります」
森川が眉をひそめた。
宮田は作業台の端で、黙って聞いている。
隆夫は、すぐに返事をしなかった。
以前なら、仕事の大きさに目が行ったかもしれない。
今は違う。
大きい仕事ほど、金が戻るまでの時間も大きい。
「内容を見ます」
隆夫は言った。
「ただし、条件があります。現場確認料は先にいただきます。試作と本製作は分けます。材料が大きく出る分は、着手金をお願いすることになります」
丸進の社長は、苦い顔をした。
「やはり、そうなりますか」
「はい」
隆夫の声は揺れなかった。
「うちも人を雇いました。守る時間も作っています。大きい仕事を受けるために、こちらの足元を崩すわけにはいきません」
丸進の社長は、長く黙っていた。
そして、深く頷いた。
「わかりました。こちらも、払う形を作ってから改めて相談します」
帰り際、丸進の社長は宮田を見た。
「新しい人ですか」
「はい。見習いです」
隆夫が答える。
「うちも、本当は若いのを残したかった」
その一言に、工場が静かになった。
丸進の社長はすぐに言葉を足さなかった。
ただ、少しだけ頭を下げて帰っていった。
直人は、その背中を見ていた。
どの工場も、悪くなりたくて悪くなるわけではない。
けれど、金の流れが詰まると、人を残す余裕が消えていく。
それが怖かった。
7月。
布施工業では、直人の2年生最初の実習課題が終わった。
材料を切り、けがき、穴をあけ、仕上げ、測る。
小さな部品だ。
見た目は単純。
だが、直人は仕上がった部品より、実習帳の最後に書いた欄が気になっていた。
使用時間。
やり直し。
原因。
次回注意。
教師は、その欄を見て言った。
「黒瀬、お前は反省欄が長いな」
「長いと駄目ですか」
「駄目ではない。ただ、長く書くことが目的になるな。次に何を変えるかまで絞れ」
直人は、その言葉を黒瀬精機へ持ち帰った。
その日の夕方、宮田の見習い記録を見て、直人は同じことに気づいた。
宮田の記録は、少しずつ長くなっている。
真面目だから、全部書こうとしている。
だが、次に何を直すのかが見えにくくなっていた。
「宮田さん」
「はい」
「これ、最後に1つだけ、次に気をつけることを書いた方がええかもしれません」
宮田が目を瞬かせる。
「1つだけですか」
「うん。いっぱいあると、明日どれから直すか迷うから」
森川が横から記録を見る。
「たしかに。俺も読む時、全部追おうとしてた」
隆夫も頷いた。
「ええな。記録は残す。でも、次に変えることは絞る」
美智子は宮田の見習い記録に新しい欄を書き足した。
明日直すこと 1つ。
宮田は、その欄をじっと見ていた。
「1つなら、できます」
小さな声だった。
だが、力があった。
8月。
町工場相談会では、資金繰りに関する相談が増え始めた。
北村は困った顔で黒瀬精機へ来た。
「これは、黒瀬さんたちの範囲ではないかもしれません」
美智子はすぐに頷いた。
「税理士さんか、金融機関の相談窓口へつなぐ話やね」
「はい。ただ、現場の仕事の整理と、金の流れがつながっている相談もあります」
隆夫は考え込んだ。
「うちが金の専門家みたいな顔をしたらあかん」
「でも、仕事ごとの入金予定を見るくらいなら、できる」
美智子が言った。
「それ以上は専門の人へ渡す」
直人は、その会話を聞きながら、流れ札を思い出した。
部品も、次工程へ渡す。
金の相談も、必要なら専門家へ渡す。
抱え込まないことも、流れを守ることなのかもしれない。
夏の終わり、黒瀬精機の入金予定表は、壁の仕事予定表の隣に貼られるようになった。
進行中。
確認待ち。
受けない。
守る時間。
そして、新しく。
入る金。
宮田がそれを見て、少し不思議そうに言った。
「仕事の予定と、お金の予定が並んでるんですね」
森川が答えた。
「どっちも工場の予定やからな」
「そうなんですね」
「俺も最近わかった」
森川は少し笑った。
隆夫は、その会話を黙って聞いていた。
昔の黒瀬精機なら、入金が遅れても、父が黙って抱えたかもしれない。
母が帳面で気づいても、工場全体の話にはならなかったかもしれない。
今は違う。
金の流れも、工場の壁に出る。
もちろん、全部を見せるわけではない。
だが、仕事が終わっただけでは工場が回らないことを、皆が少しずつ知り始めている。
1992年夏。
黒瀬精機は、大きく売上を伸ばしたわけではなかった。
だが、入る金の遅れを見えるようにした。
丸進の大きな仕事は、条件が整うまで保留にした。
宮田の見習い記録には、明日直すことが1つずつ残るようになった。
町工場相談会は、金の相談を抱え込まず、必要な相手へ渡す線を引き始めた。
直人は、布施工業の実習帳を閉じながら思った。
仕事は、作って終わりではない。
測って終わりでもない。
納めて終わりでもない。
金が入り、人が残り、次の仕事へつながって初めて、工場は回る。
前の人生で詰まった流れが、今は少しずつ見えるようになっている。
それでも、町の冷え込みは止まらない。
むしろこれからが本番だ。
だからこそ、黒瀬精機は見えるものを増やしていく。
部品の流れ。
図面の流れ。
人の流れ。
そして、金の流れ。
どれか1つでも詰まれば、工場は苦しくなる。
その怖さを、壁に貼った紙が静かに示していた。
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