第50話 払えない仕事
1992年秋。
黒瀬直人は、布施工業高等学校の3年生になっていた。
教室では、進路の話が増えている。
就職先の工場。
専門学校。
大学。
家の仕事。
同級生たちの言葉は、以前より少し現実味を帯びていた。
「黒瀬は、やっぱ家の工場か?」
昼休み、同級生の1人が聞いた。
直人は弁当箱を閉じながら少し考えた。
「たぶん、そうなる。でも、すぐ入るかはまだ決めてへん」
「え、違うんか」
「材料とか熱処理とか、もっと勉強したい気もある」
「大学?」
「それも、少し考えてる」
そう答えながら、直人自身もまだ揺れていた。
黒瀬精機へ戻りたい。
それは本心だ。
父を助けたい。
母の帳面を支えたい。
森川や宮田と一緒に、町工場を強くしたい。
だが、学校で学べば学ぶほど、知らないことが増えた。
材料は削れば終わりではない。
熱で変わる。
表面で変わる。
摩耗で変わる。
洗浄で変わる。
医療機器向けの周辺工程に関わるなら、なおさら中途半端では怖い。
前の人生の直人は、知らないことを知らないまま進んだ。
今度は、それを繰り返したくなかった。
その頃、黒瀬精機では、別の問題が大きくなっていた。
金が入らない。
すべてではない。
大和計測は予定通り。
倉田精密も大きな遅れはない。
南田板金や吉岡メッキとの町内のやり取りも、多少のずれはあっても話が通る。
だが、景気の熱に乗って仕事を広げた工場や、安い仕事を抱え込んだ工場からの入金が、少しずつ遅れ始めていた。
丸進製作所は条件を整えてから相談に戻ってきたため、大きな事故にはならなかった。
だが、三和加工からの支払いが、また遅れた。
5日。
10日。
そして、半月。
美智子の入金予定表に、赤鉛筆の丸が増える。
「隆夫さん」
美智子は帳面を閉じた。
「三和さん、次の相談は止めた方がええ」
隆夫は手を止めた。
「止めるか」
「今の分が入ってからやね」
美智子の声は冷静だった。
怒っているわけではない。
だが、線を引いている。
「事情はあると思う。でも、うちも宮田くんを入れた。森川くんが教える時間も取ってる。支払いが見えない仕事を増やしたら、こっちの守る時間が削れる」
森川修一も、横で黙って聞いていた。
宮田悟は作業台の端で流れ札を揃えている。
まだ新しい仕事を判断する立場ではない。
けれど、工場の空気は感じているようだった。
直人が学校から戻ったのは、その直後だった。
「ただいま」
声をかけた瞬間、いつもより空気が重いと分かった。
「何かあったん?」
隆夫は入金予定表を指した。
「三和さんの支払いが遅れとる」
直人は表を見た。
仕事番号。
納品日。
請求日。
入金予定日。
入金確認日。
遅れ。
理由。
三和加工の欄だけ、赤が続いている。
「次の仕事は?」
「相談は来てる」
「前の分が入るまで止めた方がええと思う」
直人はすぐに言った。
隆夫が少しだけ目を細める。
「理由は?」
「払えへん仕事は、仕事やなくて貸しになってしまうから」
工場が静かになった。
直人は言葉を選びながら続けた。
「もちろん、相手を責めたいんやない。でも、うちが材料を買って、人の時間を使って、納めて、金が戻らんかったら、それは仕事やなくて、黒瀬精機が相手を支えてる形になるやろ」
美智子が小さく頷いた。
「そうやね」
「支えるなら、支えるって決めて支えなあかん。仕事の顔をしたまま支えたら、こっちも沈む」
田端が、入口で足を止めていた。
いつ来たのか、誰も気づいていなかった。
「直坊、きついこと言うようになったな」
直人は少し視線を落とした。
「きついことやと思う。でも、前にそれで……」
言いかけて止めた。
前の人生で、何度も見た。
助け合いという名前で支払いを待ち、次も頼まれ、断れず、気づけばこちらが削れていく。
相手も悪人ではない。
だから余計に断りにくい。
けれど、断れなかった先に、黒瀬精機の終わりがあった。
隆夫は入金予定表を見て、静かに言った。
「三和さんには、今の分が入るまで次は受けへんと伝える」
森川が息を吐いた。
宮田は、少し驚いたように顔を上げた。
美智子が紙を出した。
取引条件確認。
1 前回入金確認後に次相談。
2 材料費が大きいものは着手金。
3 試作と本製作は別精算。
4 支払い予定日を仕事番号に紐づける。
5 遅れが2回続いた場合、次回条件を見直す。
「これ、黒瀬精機の決まりにする」
隆夫は頷いた。
「そうしよう」
田端は腕を組んだ。
「黒瀬さん、これを言うたら、相手によっては距離を置かれますよ」
隆夫は入金予定表を見たまま答えた。
「それでもええ。付き合いやすいだけの工場に戻ったら、また同じところへ落ちる」
田端は黙った。
美智子が、帳面から顔を上げずに言う。
「払ってもらえん仕事を受け続けるのは、親切やなくて、自分の工場を削ることやから」
その言葉で、工場の空気がさらに締まった。
優しさと甘さは違う。
助け合いと、共倒れも違う。
そこを分けなければ、黒瀬精機はまた昔と同じ道へ戻ってしまう。
数日後、三和加工の社長が来た。
以前より顔色が悪い。
作業着の袖口も、少し乱れている。
「黒瀬さん、次の相談の件ですが」
隆夫は、先に頭を下げた。
「申し訳ありません。前回分の入金が確認できるまで、次の相談は受けられません」
三和の社長の顔が固まった。
「そこを何とか。今、仕事を止めるわけにはいかないんです」
「分かります」
「分かるなら」
「分かるからこそです」
隆夫は静かに言った。
「黒瀬精機も、人を雇いました。守る時間も作っています。支払いが見えないまま次を受ければ、うちも守れなくなります」
三和の社長は、唇を噛んだ。
怒りよりも、苦しさが滲んでいた。
「うちも、払いたくないわけではないんです」
「分かっています」
美智子が口を開いた。
「だから、支払える形を先に決めたいんです。全額が難しいなら、いつ、いくら入るのか。材料費分だけ先に入れられるのか。そこを決めてからです」
三和の社長は、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「少し時間をください」
隆夫も頭を下げた。
「待ちます。ただし、次の仕事はその後です」
三和の社長が帰ったあと、森川は長く黙っていた。
「社長」
「なんや」
「断るの、きついですね」
「きついな」
「でも、言わなあかんのですね」
「ああ」
宮田が、小さく言った。
「前の工場では、言えずに仕事だけ増えてました」
全員が宮田を見る。
宮田は少し戸惑ったが、続けた。
「支払いが遅れてるとか、僕らには分からなかったです。でも、ある時から急に残業が増えて、社長が怒るようになって、機械を止めるなって言われて……それで、人が減りました」
言葉は拙い。
だが、その場にいる誰にも軽く聞こえなかった。
美智子は入金予定表を見た。
「金の遅れを壁に出すのは、やっぱり大事やね」
隆夫が頷く。
「隠したら、現場は急に苦しくなる」
直人は宮田を見た。
宮田は、自分が来た理由を少しずつ言葉にし始めている。
それもまた、黒瀬精機にとって大きなことだった。
冬になると、布施工業では進路面談が始まった。
担任は直人の成績表を見ながら言った。
「黒瀬、お前は就職でも十分やれる。家業もある」
「はい」
「だが、進学も考えているんだな」
「はい」
「材料や熱処理をもっと学びたい、と」
「はい」
担任は少しだけ笑った。
「現場の子にしては、少し欲張りだな」
「欲張りですか」
「悪い意味ではない。現場も知りたい。理屈も知りたい。どちらも欲しがっている」
直人は黙った。
その通りだった。
どちらも欲しい。
現場だけでは足りない。
理屈だけでも足りない。
前の人生で足りなかったものを、今度は取りに行きたい。
「ただし」
担任は続けた。
「大学へ行くなら金も時間もいる。家の事情もある。よく話し合え」
「はい」
「逃げる進学なら勧めない。持ち帰るものがある進学なら、考える価値はある」
その言葉は、以前の教師の言葉と重なった。
何を持ち帰るか。
直人は、面談の帰り道、ずっとその言葉を考えていた。
黒瀬精機へ戻ると、工場では宮田が初めて簡単な検査補助を任されていた。
もちろん、森川が横についている。
「図面番号」
「KR-PL-011、改訂A」
「仕事番号」
「1992-KU-DR-002」
「測定器」
「ノギス、マイクロメータ」
「使う前に?」
「拭く。ゼロを見る」
「よし」
森川の声は厳しい。
だが、昔の隆夫に似てきた。
怒鳴るのではない。
確認させる。
宮田は緊張していたが、手順を飛ばさなかった。
直人はその姿を見て、胸が温かくなった。
黒瀬精機は、少しずつ人を残す工場になっている。
この場所へ自分が何を持ち帰るべきか。
答えはまだ出ない。
だが、考える理由ははっきりしていた。
年末、三和加工から一部入金があった。
全額ではない。
だが、支払い計画が紙で出てきた。
美智子はそれを見て、次の相談を小さく受けることを認めた。
ただし、条件つき。
材料費の着手金あり。
作業範囲限定。
納期延長。
支払い予定を仕事番号に紐づける。
三和の社長は、今度はそれを飲んだ。
「前より、黒瀬さんは厳しくなりましたね」
隆夫は頷いた。
「厳しくせんと、続かんのです」
「そうですね」
三和の社長は苦笑した。
「うちも、厳しくならなあかんかった」
その言葉に、直人は何も言わなかった。
遅すぎるかもしれない。
でも、まだ遅すぎないかもしれない。
どちらもある。
1992年の終わり。
黒瀬精機の壁には、仕事予定表と入金予定表が並んでいた。
進行中。
確認待ち。
受けない。
守る時間。
入る金。
そして新しく、美智子が小さく書いた。
払えない仕事は、次を受けない。
直人は、その文字を見つめた。
冷たい言葉だ。
でも、工場を守る言葉だった。
優しさだけでは、人は残せない。
怖さを見ないと、優しさは続かない。
父の身体を守るためにも。
宮田の給料を守るためにも。
森川が教える時間を守るためにも。
母の帳面が嘘をつかないようにするためにも。
黒瀬精機は、払えない仕事に線を引く必要があった。
1993年の正月、直人は自分のノートに書いた。
現場へすぐ入る道。
進学して持ち帰る道。
どちらも逃げ道にしない。
黒瀬精機は、金の流れに線を引いた。
宮田さん、検査補助開始。
森川さん、教える声が強くなった。
三和、条件つき再開。
払えない仕事は、仕事ではなく貸しになる。
鉛筆を置いた時、階下から父の声が聞こえた。
「直人、餅焼けたぞ」
「今行く」
直人はノートを閉じた。
町の冷え込みは、まだ終わらない。
むしろ、これからさらに厳しくなる。
だが黒瀬精機は、ひとつずつ線を引いている。
受ける仕事。
受けない仕事。
守る時間。
入る金。
そして、自分が進む道。
その線が、未来を変える力になると信じて、直人は階段を下りた。
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