第48話 人を入れるという投資

 1991年の冬は、町の灯りが少しずつ減っていく冬だった。


 すべての工場が暗くなったわけではない。


 むしろ、まだ遅くまで機械を回す工場もある。


 だが、その音には以前の勢いがなかった。


 追いかけられている音。


 止めたら返済が怖い音。


 誰かに見せるためだけに明かりをつけているような音。


 黒瀬直人は、布施工業からの帰り道、その違いを感じるようになっていた。


 1991年の春に「締める年」と決めてから、黒瀬精機は新しい仕事をむやみに増やさなかった。


 町工場相談会も、月2件を超えないようにした。


 受けない仕事も記録した。


 図面台帳も、流れ札も、仕事番号も、まだ完全ではないが回り始めている。


 それでも、町全体の冷え込みは避けられなかった。


 12月のある日、田端が黒瀬精機へ来た。


 いつもの軽口がない。


 作業台に置いた封筒も、いつもより薄かった。


「昭和精工さん、年内でかなり縮めるみたいです」


 その名前に、森川修一の手が止まった。


 昭和精工は、数年前に大きな機械を入れた工場だった。


 新しい機械。


 新しい看板。


 銀行との付き合い。


 社長は景気のいい話をよくしていた。


 だが、最近は安い仕事を拾い続け、夜の灯りも妙に長かった。


 隆夫は低く聞いた。


「閉めるんか」


「まだ全部ではないです。ただ、機械を1台手放す。人も減らすそうです」


 工場の中が静かになった。


 美智子は帳面を閉じた。


「人も、ですか」


「はい」


 田端は少し言いにくそうに続けた。


「若い子が1人、行き場を探してます。19歳です。中卒で入って、現場で覚えてきた子です」


 森川が顔を上げた。


「うちに、ですか」


「紹介できませんか、という話です。もちろん、無理なら断ります」


 田端はすぐに言った。


「ただ、真面目な子です。機械はまだまだですけど、測定器の扱いは雑やない」


 隆夫はすぐには答えなかった。


 人を入れる。


 それは機械を買うより重い。


 給料がいる。


 教える時間がいる。


 失敗を受け止める余裕がいる。


 そして何より、その人の人生を預かることになる。


 美智子が静かに言った。


「人を雇うのは、一番重い設備投資やね」


 田端が頷いた。


「奥さんなら、そう言うと思いました」


 森川は黙っていた。


 以前なら、後輩が欲しいと言ったかもしれない。


 だが今は、その言葉が簡単ではないことを知っている。


 教える側にも、責任がある。


「会うだけ会ってみる」


 隆夫が言った。


「ただし、すぐ雇うとは言わん」


「それで十分です」


 翌週、田端は1人の若者を連れてきた。


 名前は宮田悟。


 19歳。


 背は高くない。


 手は荒れている。


 作業着は古いが、汚れ方は乱暴ではなかった。


 宮田は工場に入ると、まず帽子を取り、深く頭を下げた。


「宮田悟です。よろしくお願いします」


 声は小さい。


 だが、目は逃げていなかった。


 隆夫は作業台の前に立った。


「黒瀬です。今日は面接やなく、まず話を聞く場やと思ってください」


「はい」


 美智子は帳面を開いた。


 森川は少し緊張した顔で横に立っている。


 直人は学校から帰ったばかりで、工場の端にいた。


 口は出さない。


 だが、見る。


 それが今の直人の役目だった。


 隆夫は聞いた。


「昭和精工では、何をしてましたか」


「最初は掃除と材料運びです。それから、穴あけの補助と、簡単な寸法確認を少し」


「機械は?」


「1人では触らせてもらってません。段取りの手伝いまでです」


「測定器は?」


「ノギスとマイクロメータは使ってました。ダイヤルゲージは、見たことはありますけど、まだちゃんとは」


 隆夫は頷いた。


 森川が、作業台に小さな部品を置いた。


 以前、大和計測の測定手順で使った練習用の部品だ。


「これ、測ってみてもらえますか」


 宮田の顔が固くなった。


「はい」


 彼はノギスを手に取った。


 まず、測定面を布で拭いた。


 それから部品を見る。


 向きを確認する。


 いきなり挟まない。


 直人は、その手つきを見て少しだけ目を細めた。


 雑ではない。


 速くはない。


 だが、雑ではない。


 宮田は寸法を読み上げた。


「12.01です」


 森川が同じ場所を測る。


「12.01」


 工場の空気が少しだけ緩んだ。


 次に、マイクロメータで厚みを測る。


 宮田は少し力が入りすぎた。


 隆夫が止めた。


「締めすぎや」


「すみません」


「謝らんでええ。もう一回」


 宮田は息を吸い、ラチェットの音を聞きながら挟み直した。


「3.02……です」


 森川が測る。


「3.01」


 宮田の顔が曇った。


 隆夫は言った。


「ずれてる。でも、大きくはない。力の入れ方やな」


「はい」


 森川が宮田を見た。


「俺も最初、よく締めすぎました」


 その一言で、宮田の表情が少しだけ緩んだ。


 直人は、その様子を見ていた。


 森川が教える側になっている。


 昔なら、森川自身が怒られて固まる側だった。


 今は、自分の失敗を使って相手を緩められる。


 それは大きな変化だった。


 面談が終わったあと、宮田は田端と帰っていった。


 工場には、静かな空気が残った。


 美智子が最初に口を開いた。


「真面目そうやね」


 隆夫も頷いた。


「ああ」


 森川が言う。


「手は悪くないです。ただ、かなり固いです」


「それは仕方ない」


 隆夫は言った。


「問題は、うちが育てる余裕を持てるかや」


 直人は、そこで口を開いた。


「最初から仕事に入れん方がええんちゃう?」


 3人が直人を見る。


「学校の実習でも、最初は掃除とか安全とか、道具の名前とかからやった。宮田さんも、いきなり戦力にしたら、たぶん焦る」


 森川が頷いた。


「たしかに」


「3か月だけ、教える順番を決めるとか。最初の1か月は掃除、測定器、図面の右下を見る。次は流れ札と部品の向き。機械はまだ触らない。そういうの」


 美智子は、すぐに紙を出した。


 見習い受入れ案。


 1か月目 安全、掃除、測定器、図面番号。

 2か月目 流れ札、部品向き、検査補助。

 3か月目 簡単な段取り補助、作業記録。

 機械単独作業なし。

 教える人 森川。

 確認する人 隆夫。

 記録を見る人 美智子。


 森川の顔が少し強張った。


「俺が教える人、ですか」


 隆夫が森川を見る。


「嫌か」


「嫌ではないです。でも、怖いです」


「怖いならええ」


 隆夫は言った。


「怖くない方が危ない」


 森川は、しばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


「やります」


 美智子は帳面を見た。


「給料のことも考えなあかん」


「見習いやから安く、はあかんと思う」


 直人が言うと、美智子は目を上げた。


「何でそう思う?」


「人を削らない工場にするなら、最初から人を安く見たらあかんやろ。ただ、うちも余裕はないから、できる範囲でちゃんと決める」


 隆夫は深く息を吐いた。


「中学生の時より、言うことが重くなったな」


「高校生になったから」


「1年でそんな変わるか」


 工場に少し笑いが起きた。


 だが、笑いだけでは済まない。


 美智子は計算した。


 最低限出せる給料。


 教える時間。


 森川が作業から外れる時間。


 その分、受けられなくなる仕事。


 宮田を入れるということは、単に人手が増えることではない。


 最初の数か月は、むしろ工場の負担が増える。


 それでも、隆夫は言った。


「機械は見送った。人を育てる方に使おう」


 その言葉で、方針が決まった。


 1992年1月。


 宮田悟は、黒瀬精機に見習いとして入った。


 初日、森川は宮田を工場の入口に立たせた。


「まず、掃除からです」


「はい」


「掃除いうても、ただ綺麗にするんやない。どこに何があるか見る。床に何が落ちてるか見る。いつもと違う音がないか聞く」


 宮田は真剣に頷いた。


 森川は少し照れくさそうだった。


 自分が昔、隆夫に言われてきたことを、今度は自分が言っている。


 直人は学校へ行く前、その姿を少しだけ見た。


 森川が教えている。


 黒瀬精機に、次の手が入った。


 それは、機械を1台増やすよりも小さく見える変化だった。


 だが、直人には分かっていた。


 人が育つ工場は、強い。


 人が増えても削られない仕組みがあれば、もっと強い。


 2月。


 町の冷え込みは、さらに進んだ。


 昭和精工が手放した機械は、別の地域の会社へ売られることになった。


 田端は悔しそうだった。


「町の中で使えたらよかったんですけどね」


 隆夫は首を横に振った。


「今のうちには、まだ重い機械やった」


「わかってます」


「欲しいだけで買うたら、昭和精工さんと同じことになる」


 田端は何も言わなかった。


 その言葉は、町全体に刺さるものだった。


 一方で、黒瀬精機では宮田が少しずつ動き始めていた。


 まだ機械は触らない。


 だが、図面の右下を見る癖がついた。


 最新版と旧版を声に出して確認する。


 流れ札の品番と仕事番号を合わせる。


 測定器を使う前に拭く。


 使った後に戻す。


 たったそれだけのことに見える。


 しかし、それができる若い手は、工場にとって大きかった。


 森川は、教えることで自分の雑さにも気づいた。


「社長、俺、説明しようとして、言葉に詰まることが多いです」


「自分が何となくやってることは、人に渡されへん」


 隆夫は言った。


「教えるために、自分の手を見直すんや」


 森川は深く頷いた。


 3月。


 布施工業では学年末の時期になった。


 直人は2年生へ進級する。


 学校では、機械科の先輩たちが就職先や進学先の話をしていた。


 工業高校を出て現場へ行く者。


 さらに学びたいと考える者。


 家の工場へ戻る者。


 道はいくつもあった。


 直人も、まだ決めきってはいない。


 黒瀬精機に入りたい気持ちはある。


 だが、素材、熱処理、設計、品質管理。


 学べば学ぶほど、知らないことが増えていく。


 その日の放課後、直人は製図室で教師に聞いた。


「先生。工業高校から大学へ行く人もいますか」


 教師は驚かずに答えた。


「いる。多くはないが、いる」


「現場に行くのと、どっちがええんでしょうか」


「それは、何をしたいかによる」


 教師は製図板を片づけながら言った。


「すぐ現場で腕を磨く道もある。もっと深く材料や設計を学ぶ道もある。ただし、どちらを選んでも、逃げ道にしたら弱い」


「逃げ道」


「勉強から逃げて現場へ行く。現場から逃げて進学する。それでは続かん。自分が何を持ち帰りたいのかを考えろ」


 直人は、その言葉を胸にしまった。


 何を持ち帰るか。


 黒瀬精機へ。


 父へ。


 母へ。


 森川へ。


 宮田へ。


 町へ。


 春休み前、直人は黒瀬精機の作業台で宮田の見習い記録を見ていた。


 1か月目は、ほぼ掃除と測定器、図面確認で終わっている。


 仕事としては遅い。


 だが、記録は残っている。


 できるようになったこと。


 まだ危ないこと。


 次に教えること。


 美智子が言った。


「人を育てるのも、原価がいるね」


 隆夫が頷く。


「ああ。けど、これは削ったらあかん原価や」


 森川も言った。


「俺、宮田に教えてて、自分がどれだけ社長に時間を使ってもらってたか分かりました」


 隆夫は少し照れたように目を逸らした。


「そんな大したことはしてへん」


「してます」


 森川ははっきり言った。


 宮田はその横で、どうしていいか分からず固まっていた。


 直人は笑いそうになったが、こらえた。


 黒瀬精機の中に、新しい関係が生まれている。


 父から森川へ。


 森川から宮田へ。


 そこに美智子の帳面と、直人の学校での学びが絡んでいく。


 1992年春。


 町の熱は、確かに冷えた。


 機械を手放す工場も出た。


 安い仕事に追われる工場も増えた。


 黒瀬精機も、楽になったわけではない。


 だがこの冬、黒瀬精機は機械ではなく、人を入れた。


 すぐに利益を生む投資ではない。


 むしろ、最初は時間を食う。


 それでも、人を育てる時間を守ることを選んだ。


 直人はノートに書いた。


 人を入れるのは、機械を入れるより重い。

 でも、人が育たない工場は、未来を渡せない。

 宮田さん、1か月目。

 森川さん、教える側。

 黒瀬精機、次の手が入った。


 鉛筆を置くと、階下から森川の声がした。


「宮田、ノギスそのまま置くな。拭いてから戻せ」


「はい!」


 その声に、隆夫の低い笑いが混じった。


 直人は、静かにノートを閉じた。


 未来は、大きな機械だけで変わるのではない。


 人の手が、次の手へ渡ることで変わる。


 黒瀬精機は、冷え始めた町の中で、ようやくその一歩を踏み出していた。


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