第47話 空き枠の値段

 1991年春。


 黒瀬精機の壁に、新しい板が掛けられた。


 仕事予定表。


 その下に、美智子の字で3つの欄がある。


 進行中。


 確認待ち。


 受けない。


 最初に「受けない」という欄を見た森川修一は、妙な顔をした。


「奥さん、これ、ほんまに壁に出すんですか」


「出す」


 美智子は当然のように答えた。


「受けた仕事だけ見てたら、うちは自分の忙しさを勘違いする」


「でも、受けへん仕事を壁に書くの、なんか感じ悪くないですか」


「感じ悪くても、忘れるよりましや」


 隆夫も、その板を見上げていた。


「受けない仕事も、理由を書いとくんやな」


「そう」


 美智子は赤鉛筆で欄を指した。


「納期が合わない。現場確認料なし。詳細図面の持ち出し希望。黒瀬精機の範囲外。理由を残す」


 直人は、布施工業の鞄を置きながら、その板を見た。


 学校でも、出席と欠席はどちらも記録される。


 実習でも、できた作業と、できなかった作業の両方を書く。


 受けた仕事だけが工場を作るわけではない。


 受けなかった仕事も、工場の形を決めていく。


「お母ちゃん、これ、空き時間も書いた方がええんちゃう?」


 美智子が振り向く。


「空き時間?」


「うん。予定表が全部埋まってなくても、空いてるから仕事入れられるとは限らんやろ。測定器の点検とか、図面台帳の整理とか、森川さんが教える準備とか、そういう時間もいるし」


 森川が、少し驚いたように直人を見た。


「俺が教える準備も、仕事の枠に入るんか」


「入れな、いつまでも後回しになるんちゃう?」


 森川は黙った。


 言われてみれば、測定器の扱いや流れ札の読み方を誰かに教えるための紙は、いつも仕事の合間に作っていた。


 合間にやる仕事は、忙しくなると真っ先に消える。


 だが、それが消えると、次の人間が育たない。


 隆夫は予定表の横に、もう1つ小さな欄を書き足した。


 守る時間。


 美智子が頷いた。


「ええ言葉やね」


「直人の言う空き時間やなくて、守る時間か」


 田端が、いつの間にか入口に立っていた。


「黒瀬さん、また面倒くさい工場になってきましたね」


「便利な工場からは抜けるんやろ」


 隆夫が言うと、田端は笑った。


「その通りです」


 1991年の春から夏にかけて、町の空気はさらに変わった。


 景気のいい声は、まだ残っている。


 けれど、その裏に焦りが混じり始めていた。


 銀行員の足取りは軽くない。


 材料屋の田端が持ち込む話にも、苦いものが増えた。


 夜遅くまで機械を回していた工場が、急に土曜の午後を閉める。


 新しい機械を入れた工場が、今度は安い量産仕事を探している。


 土地を担保にしていた社長が、冗談を言わなくなる。


 直人は、その変化を前の人生で知っていた。


 だが、知っていても慣れることはなかった。


 人が苦しむ光景は、何度見ても嫌なものだ。


 6月、町工場相談会に1件の依頼が来た。


 丸進製作所ではない。


 新しい機械を入れていた別の工場、三和加工だった。


 相談内容は、検査治具ではなかった。


 「今ある仕事を、どれから切ればいいか分からない」


 北村が黒瀬精機へ来て、その言葉を読み上げた時、工場が静かになった。


「仕事を切る相談か」


 隆夫が低く言う。


 北村は頷いた。


「はい。単価の低い仕事が増えすぎて、どれを残すべきか分からないそうです」


 森川が顔をしかめた。


「それ、うちが見る話なんですか」


 美智子はすぐに答えなかった。


 帳面を閉じ、北村を見る。


「その工場、数字を出せる?」


「一部なら。材料費と売上はあります。ただ、段取り時間とやり直しは曖昧です」


「ほな、いきなり答えは出せへん」


 美智子は言った。


「でも、見る価値はある」


 隆夫が美智子を見た。


「受けるんか」


「受けるなら、範囲を絞る。全部の仕事を診るのは無理。代表で3つだけ」


 直人は、その言葉を聞きながら、布施工業の実習で作った作業時間表を思い出した。


 材料を切る。


 けがく。


 固定する。


 削る。


 測る。


 やり直す。


 先生は、最後にこう言った。


「作業時間は、削っている時間だけではない」


 黒瀬精機がずっとやってきたことと同じだった。


「お母ちゃん」


「何?」


「3つ選ぶなら、売上が大きい仕事、時間がかかる仕事、戻りが多い仕事に分けたら?」


 美智子の目が動いた。


 北村がメモを取る。


「売上が大きい、時間がかかる、戻りが多い……」


「それ全部同じ仕事かもしれんけど、違うかもしれんやろ」


 隆夫が頷いた。


「ええ分け方や」


 田端も腕を組んだ。


「三和さん、売上の大きい仕事を残せばええと思ってるかもしれません。でも、時間食って赤字なら危ないですね」


 美智子は、紙に新しい見出しを書いた。


 三和加工 仕事整理相談

 対象 3件まで

 見るもの 売上、材料費、段取り、やり直し、戻り、入金条件


 そして、最後にこう足した。


 切る判断は三和加工。

 黒瀬精機は、見えるようにするだけ。


 隆夫は、その一文を見て頷いた。


「そこは大事やな」


 7月、三和加工の現場確認が行われた。


 工場は広かった。


 新しい機械もあった。


 だが、作業台の上は落ち着いていなかった。


 仕事が多い。


 箱が多い。


 札が少ない。


 誰もが忙しそうなのに、どこへ向かって忙しいのかが見えない。


 三和の社長は、最初から苛立っていた。


「黒瀬さん、うちは仕事を断る余裕なんかありません」


 隆夫は静かに答えた。


「断れと言いに来たんやありません。どの仕事が何を食っているかを見に来ました」


「何を食っているか?」


「時間です。人です。機械です。現金です」


 その言葉に、三和の社長は黙った。


 美智子は、持ってきた紙に3つの仕事を書き出した。


 A仕事。


 売上は大きい。


 だが段取り替えが多く、納期も細かい。


 B仕事。


 単価は低い。


 しかし流れが安定していて、若い工員でも回せる。


 C仕事。


 一見高い。


 だが戻りが多く、再検査とやり直しで夜を食っていた。


 直人は、工場の隅で記録を手伝っていた。


 機械には近づかない。


 口も出しすぎない。


 だが、箱の動きは見ていた。


 C仕事の箱だけ、何度も同じ台へ戻ってくる。


 そのたびに作業者の顔が曇る。


「お父ちゃん」


 直人は小声で言った。


「Cの箱、戻るたびに場所変わってる」


 隆夫が見る。


 たしかに、C仕事の戻り品には決まった置き場がなかった。


 作業台の端。


 機械の横。


 検査台の下。


 置く場所が変わるから、誰がどこまで見たのか分からなくなる。


 分からないから、また最初から見る。


 時間が消える。


 隆夫は三和の社長へ言った。


「まずC仕事は、戻り品置き場を決めた方がいい」


「そんなことで変わりますか」


「変わるかどうかを見るために、決めます」


 美智子がすぐ記録した。


 C仕事 戻り品置き場なし。

 再確認の重複あり。

 戻り理由分類なし。


 森川はA仕事の段取り替えを見ていた。


「社長、Aは機械そのものより、段取り替えが多すぎます。道具探す時間も長いです」


 隆夫が頷く。


「Aは段取り表。Cは戻り分類。Bは今のまま崩さない」


 三和の社長は、思わず聞き返した。


「Bは触らないんですか」


「触らない方がいい仕事もあります」


 隆夫は言った。


「安いから悪いとは限りません。安定して若い人が回せる仕事なら、工場を支えることもある」


 三和の社長は、長い間黙っていた。


 仕事を切る相談に来たはずが、切る前に見る場所が出てきた。


 それは、三和にとって予想外だったのだろう。


 8月。


 三和加工の簡易確認結果が出た。


 C仕事は、戻り理由を3つに分けただけで、再確認時間が減った。


 A仕事は、段取り道具を置く場所を決め、次の仕事の準備を前日夕方に少しだけ入れることで、朝の立ち上がりが早くなった。


 B仕事は、あえて触らなかった。


 三和の社長は、黒瀬精機へ来て言った。


「切る仕事を探していたのに、最初に切るべきなのは、探す時間と戻す時間でした」


 隆夫は頷いた。


「それでも残らん仕事は、次に考えることになります」


「はい」


 三和の社長は、以前より少しだけ顔色が戻っていた。


「でも、いきなり切らずに済みました」


 直人は、その言葉を聞いていた。


 仕事を切る。


 人を切る。


 工場を閉める。


 前の人生では、そんな言葉が後半になるほど増えていった。


 けれど、切る前に見えるものがあるなら、まだできることはある。


 それが分かっただけでも、大きかった。


 9月、布施工業では2学期が始まった。


 直人は機械科の授業で、加工だけでなく、工程の順番にも興味を持つようになっていた。


 同級生には少し変な目で見られる。


「黒瀬、お前、また時間表書いてんの?」


「うん」


「そんなん好きやな」


「好きというか、後で困るから」


「高校生の言葉ちゃうわ」


 そう言われても、直人は笑うしかなかった。


 高校生の言葉ではない。


 だが、中身は今の黒瀬精機に必要な言葉だった。


 秋が深まる頃、町にひとつの知らせが流れた。


 銀行の勧めで大きな機械を入れた工場のひとつが、機械を手放すらしい。


 まだ倒れたわけではない。


 だが、返済が重く、仕事が合わず、手放すしかなくなったという話だった。


 田端は、黒瀬精機の入口で小さく言った。


「買いますか、という話も来ています」


 工場の中が静かになった。


 それは、数年前なら喉から手が出るほど欲しかった機械だった。


 中古とはいえ、状態は悪くない。


 値段も新台よりはかなり下がっている。


 森川の目が一瞬揺れた。


 隆夫も黙った。


 直人も、胸が動いた。


 欲しい。


 それは本音だった。


 だが、美智子が先に言った。


「見るだけ」


 隆夫が妻を見る。


「まだ何も言ってへん」


「顔が言うてる」


 森川が小さく笑った。


 美智子は続けた。


「見るのはええ。でも、買う前提で見に行ったらあかん。うちの仕事に合うか。人がいるか。置く場所があるか。保守はできるか。返せるか。そこを見てから」


 直人は頷いた。


「機械にも、守る時間がいると思う」


 隆夫が直人を見る。


「守る時間か」


「うん。買ったら終わりやなくて、掃除、点検、段取り、練習、仕事を取る時間。全部いるやろ」


 森川は苦い顔で言った。


「俺、今ならそれがわかるのが嫌ですね」


「わかるようになったんは、ええことや」


 隆夫は言った。


 結局、その機械はすぐには買わなかった。


 見には行った。


 性能も悪くなかった。


 だが黒瀬精機の現在の仕事には、まだ合わない。


 置くには工場の配置を大きく変える必要がある。


 森川が使えるようになるまで時間もいる。


 何より、その機械に合わせて仕事を取りに行けば、また順番が逆になる。


 隆夫は、帰り道に言った。


「欲しかったな」


 直人は、自転車を押しながら頷いた。


「うん」


「でも、今やない」


「うん」


 森川も言った。


「いつか、必要になった時に買いたいです」


 隆夫は少し笑った。


「それまでに、お前が使える男になっとかなあかんな」


「はい」


 1991年秋。


 黒瀬精機は、またひとつ欲しいものを見送った。


 だが、その代わりに、三和加工の仕事整理相談が継続になった。


 丸進製作所の測定手順は安定し始めた。


 倉田精密では滞留時間の記録が入り、乾燥待ちから次工程への渡し方が見直されている。


 町工場相談会は、受ける相談を絞りながら続いていた。


 美智子の壁の板には、赤鉛筆で新しい言葉が足されていた。


 守る時間は、空き時間ではない。


 直人は、その文字を見て静かに息を吸った。


 前の人生では、守る時間がなかった。


 父の身体を守る時間。


 工場の数字を見る時間。


 若い人を育てる時間。


 機械を点検する時間。


 仕事を断る時間。


 全部、目の前の仕事に食われていった。


 今は違う。


 まだ完璧ではない。


 それでも黒瀬精機は、空いているように見える時間を、未来を守る時間として扱い始めている。


 町の熱は冷え始めた。


 その冷え込みは、これからもっと強くなる。


 けれど黒瀬精機は、ただ縮こまるのではなく、足元を締めながら次の春へ向かっていた。


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