第46話 冷え始めた熱

 1990年の冬。


 東大阪の夜は、まだ明るかった。


 高井田の路地には、遅くまで機械の音が残っている。


 新しい看板を出した工場。


 銀行の勧めで機械を入れた工場。


 土地の話をする社長。


 景気のいい言葉は、まだ町のあちこちに転がっていた。


 だが、黒瀬直人には、その熱の下にある冷たさが少しずつ見えていた。


 新聞の株価欄を見る大人の顔が変わった。


 銀行員の声にも、ほんの少し硬さが混じるようになった。


 昨日まで「今が勝負です」と言っていた者が、今日は「返済計画も一度見直しましょう」と言い始める。


 まだ誰も、はっきり崩れたとは言わない。


 けれど、町の床下で何かが軋み始めていた。


 そんな中、丸進製作所の測定手順見直しと簡易治具が、ようやく形になった。


 最初に持ち込まれた時とは、まったく違う仕事になっていた。


 現場確認料あり。


 測定手順作成費あり。


 試作と本製作は別。


 納期は黒瀬精機の提示通り。


 詳細図面は黒瀬精機管理。


 丸進の社長は、最初こそその条件に顔をしかめていたが、今は作業台に並んだ測定手順書を黙って見ていた。


 測る前に確認すること。


 使う測定器。


 測る場所。


 部品の向き。


 良品。


 注意。


 不良。


 測った後に残すこと。


 そこには、直人が布施工業の実習帳から持ち帰った考え方が入っている。


 派手な技術ではない。


 けれど、現場で迷う人間には効く。


「これなら、若い者にも渡せます」


 丸進の社長が低く言った。


 隆夫は頷いた。


「ただし、渡すだけでは動きません。最初は一緒に見てください。測り方がずれたら、すぐ紙を直す必要があります」


「紙を直す?」


「はい。現場に合わない紙は、すぐ見られなくなります」


 森川修一が、簡易治具を手に取った。


「ここ、持つ向きを変えたら逆に置けません。けど、手袋が厚い人やと少し取りにくいかもしれません」


 丸進の社長は、以前なら「そのくらい慣れろ」と言ったかもしれない。


 だが、今は違った。


「使う者に確認します」


 その言葉を聞いて、直人は少しだけ息を吐いた。


 丸進は、失敗して戻ってきた。


 だが戻ってきたから、今度は話ができる。


 失敗を認める会社は、まだ変われる。


 年が明け、1991年になった。


 布施工業では、直人の機械実習が少しずつ本格化していた。


 まだ難しい加工ではない。


 材料を固定する。


 刃物を確認する。


 寸法を測る。


 危ない姿勢を直される。


 教師は、何度も同じことを言った。


「削る時間より、段取りの時間を雑にするな」


 直人は、その言葉を聞くたびに黒瀬精機を思い出した。


 段取り。


 準備。


 確認。


 見た目には進んでいない時間。


 けれど、そこを削ると後で大きく崩れる。


 学校の実習場で教わることは、黒瀬精機の作業台にもそのまま戻ってくる。


 ある土曜の午後。


 半ドンで学校を終えた直人は、昼飯を食べてから工場へ入った。


 美智子が決めた通り、手伝いは夕方までだ。


 作業台には、丸進製作所から返ってきた初回使用の記録が置かれていた。


 不良戻りは減った。


 測定者ごとのばらつきも小さくなった。


 だが、別の問題が出ていた。


 測定前確認の欄が、空白のまま残っているものがある。


 直人はそこを指した。


「ここ、面倒なんかな」


 森川が覗き込む。


「測る前の確認やろ。やってるけど書いてないんか、やってへんのか、どっちやろな」


「そこ分けなあかんと思う」


 直人は言った。


「やってるけど書いてないなら、書きやすくしたらええ。やってへんなら、順番を変えなあかん」


 隆夫は頷いた。


「丸進さんに聞く。こっちで決めつけたらあかんな」


 森川が苦笑した。


「昔なら、俺、書けって言うだけで終わってたかもしれません」


「今でも言いかけてたやろ」


 直人が言うと、森川は少し笑った。


「ばれたか」


 工場に小さな笑いが起きた。


 だが、その笑いの後に残るものは軽くなかった。


 作ったものは、使われてからが本番だ。


 黒瀬精機は、それを何度も学んでいる。


 2月になると、町工場相談会の空気も変わった。


 相談件数は増えている。


 しかし、北村は簡単には受けなくなっていた。


「無料で見てほしいだけの相談は、断りました」


 北村が黒瀬精機で報告すると、田端が驚いた顔をした。


「北村くんが断ったんか」


「はい」


「成長したなあ」


「田端さんのせいで、断らないと回らないと分かりました」


「また刺すなあ」


 美智子は帳面を見ながら言った。


「断った件数も残しといてください」


「断った件数もですか」


「いる。受けた仕事だけ見たら、忙しさを間違える。断る判断にも時間は使ってます」


 北村は少し考え、頷いた。


「わかりました」


 直人はそのやり取りを聞きながら、学校の出欠簿を思い出した。


 出た日だけではない。


 休んだ日も記録する。


 仕事も同じなのかもしれない。


 受けた仕事だけではなく、受けなかった仕事も、黒瀬精機の形を作っていく。


 その頃、丸進製作所の夜の灯りは少し減っていた。


 景気が悪くなったのではない。


 無理に取っていた安い仕事を、一部断り始めたのだと田端が言った。


「社長さん、怖くなったんでしょうね」


「怖くなれるなら、まだ大丈夫や」


 隆夫は言った。


 直人は父を見た。


 怖くなれるなら、まだ大丈夫。


 それは、この数年の黒瀬精機そのものだった。


 父の身体が怖い。


 安い仕事が怖い。


 見えない原価が怖い。


 記録のない工程が怖い。


 怖さから逃げずに見たから、少しずつ変われた。


 3月。


 布施工業の1年が終わった。


 直人は2年生へ進級する。


 成績は悪くなかった。


 製図は良い。


 実習も丁寧。


 ただ、教師からはこう言われた。


「黒瀬、お前は考えすぎるところがある」


 直人は苦笑した。


「すみません」


「謝ることではない。ただ、現場では考えすぎて手が止まることもある。手を動かしてから見えることもある」


 その言葉は、直人に刺さった。


 未来を知っていると、先を見ようとしすぎる。


 危険を避けようとしすぎる。


 だが、工場は止まったままでは変わらない。


 怖さを見る。


 けれど、手も動かす。


 その両方がいる。


 春休みの初日、直人は黒瀬精機の作業台に自分の実習帳を置いた。


 隆夫がそれをめくる。


「よう書いてるな」


「書かされてるだけやで」


「書かされても残るなら、ええことや」


 森川も横から覗いた。


「作業前確認、使用工具、注意点、結果、反省……これ、丸進さんの手順にも似てますね」


「そこから持ってきたから」


 直人が言うと、森川は笑った。


「学校から盗んできたんか」


「盗んでへん。学んできたんや」


 美智子がその言葉に頷いた。


「ええやん。学校で学んだもんを、工場で使える形に変える。それが直人の仕事やね」


 直人は少し驚いた。


「俺の仕事?」


「今はまだ、な」


 美智子は言った。


「機械を触るだけが仕事やない。学校で見たことを、そのまま持ち込まず、黒瀬精機に合う形に直す。それは直人にしかできんことやと思う」


 直人は、すぐには返事ができなかった。


 前の人生では、自分が工場の何を担っているのか、最後まで曖昧だった。


 今は、少しだけ見えている。


 学校と工場の間に立つこと。


 未来と今の間に立つこと。


 大人の言葉と現場の手の間に立つこと。


 それが、今の自分にできることかもしれない。


 春の終わり、町にまた新しい噂が流れた。


 銀行から借りて大きな機械を入れた工場の1つが、返済のためにさらに安い仕事を取り始めたという。


 別の工場では、土地を担保に入れた話も出ている。


 田端の顔は暗かった。


「これ、これから増えますよ」


 隆夫は黙って聞いていた。


 直人は、工場の外の路地を見た。


 昼間なのに、どこか風が冷たい。


 バブルの熱は、まだ完全には消えていない。


 けれど、その熱で膨らんだものの重さが、町の足を少しずつ引き始めている。


 黒瀬精機も安全ではない。


 仕事は増えた。


 信用も増えた。


 相談も増えた。


 だからこそ、足元を見なければならない。


「お父ちゃん」


「なんや」


「今年は、増やすより締める年にした方がええんちゃう?」


 隆夫が直人を見る。


「締める?」


「うん。図面台帳も、流れ札も、相談会も、丸進さんの手順も、動き始めたけどまだばらつきがある。新しいことを増やすより、今あるものをちゃんと回る形にした方がええと思う」


 美智子が静かに頷いた。


「私もそう思う」


 森川も言った。


「俺も、教える準備をちゃんとしたいです」


 隆夫はしばらく考えていた。


 そして言った。


「1991年は、締める年にしよう」


 田端が少し笑った。


「黒瀬さんらしい言い方ですね。景気のいい時に締める」


「景気がええ時ほど、緩みますから」


 隆夫は答えた。


 直人は、その言葉を胸に残した。


 1991年春。


 直人は布施工業の2年生へ進む。


 黒瀬精機は、増やすことより締めることを選んだ。


 丸進製作所は、失敗を経て測定手順を作り直した。


 町工場相談会は、受ける相談だけでなく、断る相談も記録し始めた。


 そして町のあちこちでは、膨らみすぎた熱が、少しずつ重さへ変わり始めていた。


 直人は、まだその先に来る本当の痛みを知っている。


 だが今の黒瀬精機は、前の人生とは違う。


 怖さを見ている。


 数字を残している。


 受けない仕事を選んでいる。


 そして、締めるという言葉を持ち始めている。


 それは、これから来る冷たい季節に向けた、小さくて確かな備えだった。


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