第45話 夏休みの実習帳

 1990年夏。


 布施工業高等学校の機械科に入って、直人は初めての夏休みを迎えた。


 高校の1学期は、思っていたより地味だった。


 派手な機械をすぐに触れるわけではない。


 まずは安全。


 服装。


 工具の名前。


 測定器の扱い。


 製図の線。


 材料の種類。


 旋盤の前に立つ前の姿勢。


 直人には、それがありがたかった。


 前の人生では、基礎を飛ばしたまま現場に飲み込まれた。


 見て覚えろ。


 手で覚えろ。


 怒られて覚えろ。


 それも町工場の強さではあった。


 だが、弱さでもあった。


 布施工業の実習場では、教師が何度も言った。


「機械は、触る前に止め方を覚えろ」


 直人は、その言葉をノートに書いた。


 作り方より先に、止め方。


 黒瀬精機にも必要な言葉だった。


 夏休みに入っても、学校は完全に消えるわけではなかった。


 課題がある。


 製図の宿題がある。


 実習帳も書かなければならない。


 美智子は、直人の夏休みの予定表を作業台に貼った。


 午前は学校の課題。


 午後に工場手伝い。


 土曜は、普段なら半ドンで学校があるが、夏休み中は午前から動ける日もある。


 ただし、工場手伝いは長くても半日。


 日曜は休む。


「夏休みやからって、全部工場に入ると思ったらあかんで」


 美智子は言った。


「わかってる」


「ほんまに?」


「ほんまや」


「自分を削らない」


「はい」


「はいは1回」


「はい」


 森川修一が横で笑った。


「直坊、奥さんに完全に管理されてるな」


「森川さんもやろ」


「俺もや」


 森川は素直に認めた。


 21歳になった森川は、若手職人として黒瀬精機に欠かせない存在になっていた。


 だが、最近は自分の仕事だけでなく、誰かに教える準備も始めている。


 測定器の置き方。


 流れ札の読み方。


 図面の最新版確認。


 森川が昔つまずいたところを、次の人間が同じようにつまずかないようにするためだった。


 その夏、直人は田端に連れられて、いくつかの工場を見て回った。


 南田板金では、清水が若い見習いに限度見本の使い方を教えていた。


「これは良品。これは注意。これは戻す」


 清水の声は、昔よりずっとはっきりしていた。


 南田は奥で聞いているだけだ。


 すぐに口を出さない。


 それが、以前との違いだった。


「清水さん、教える側になってる」


 直人が言うと、清水は照れくさそうに鼻をこすった。


「まだ南田さんに怒られながらやけどな」


 奥から南田が言う。


「怒られんようになったら終わりや」


「終わりなんですか」


「気ぃ抜くからな」


 直人は笑ったが、ノートにはこう書いた。


 南田板金。

 清水さんが教える側へ。

 限度見本は、道具だけでなく教育にも使える。


 吉岡メッキでは、戻り分類の箱が少し変わっていた。


 札が紙から、薄い樹脂板へ変わっている。


 大西樹脂が作ったものだ。


 濡れても拭ける。


 油がついても、すぐに文字が読めなくなるわけではない。


「これ、最初は大げさやと思ったけどな」


 吉岡は樹脂札を指で弾いた。


「紙よりましや。濡れて破れん」


 田端が言う。


「吉岡さん、素直に褒めたらどうです」


「褒めとるやろ」


「それ、褒めてるんですか」


「うるさい」


 大西樹脂では、洗える仕切りの改良版が並んでいた。


 色違いの樹脂。


 持ち手の位置が違う箱。


 乾燥中と確認済みで、置く向きが変わる小さな棚。


 派手な機械はない。


 だが、見れば分かる。


 これは、3年前の黒瀬精機にはなかった仕事だ。


 町の工場が、それぞれの強みでつながっている。


 ただ部品を作るだけではない。


 間違えないための形を作っている。


 夏の終わり、丸進製作所から再び連絡が来た。


 前に黒瀬精機が条件を出し、相手が断った仕事。


 それが、別の工場で戻り品を出した。


 急ぎで作った検査治具は、使う人によって判断が割れ、結局、測定手順の作り直しが必要になったらしい。


 丸進の社長は、今度は自分で黒瀬精機へ来た。


 以前のような景気のいい顔ではなかった。


 目の下に疲れがある。


 スーツは立派だが、声に余裕がない。


「黒瀬さん。前は失礼しました」


 隆夫は作業台の向かいに立ち、深く頭を下げ返した。


「こちらこそ、条件が合わず申し訳ありませんでした」


「いや、あの時、黒瀬さんの言う通りにしておけばよかった」


 丸進の社長は、持ってきた部品と図面を作業台に置いた。


 森川が部品を見た。


 直人は少し離れて見ている。


 医療向けではない。


 だが、小物で、測定箇所が分かりにくい。


 しかも急ぎで作った治具には、使う人の名前も、測定手順も、改訂履歴もなかった。


 隆夫はすぐに結論を出さなかった。


「まず確認します。今すぐ作り直す話ではありません」


 丸進の社長は頷いた。


「はい。今回は、現場確認料も払います」


 美智子が帳面に目を落とした。


 田端が少しだけ息を吐いた。


 直人は、丸進の社長を見た。


 失敗して戻ってきた人間を、笑ってはいけない。


 父も笑っていない。


 森川も笑っていない。


 黒瀬精機だって、いつ同じ場所へ落ちるかわからない。


 ただし、同じ条件では受けない。


「納期は」


 美智子が聞いた。


「できれば早く……」


 丸進の社長が言いかける。


 美智子は黙って見た。


 社長は言葉を飲み込んだ。


「現場確認後に、相談させてください」


「それなら」


 隆夫は言った。


「まず、誰が使って、どこで迷って、どの寸法で割れたのかを見ます」


 森川が部品を手に取った。


「測る場所、複数ありますね」


「ある」


 隆夫は頷いた。


「だから、測定手順なしでは危ない」


 直人はそこで、学校の実習帳を思い出した。


 教師が書かせた項目。


 作業名。


 使用工具。


 作業前確認。


 注意点。


 結果。


 反省。


 面倒だと思った同級生も多かった。


 だが、あれは作業を人に渡すための形だった。


「お父ちゃん」


「なんや」


「実習帳みたいにしたらどうかな」


 隆夫が振り向く。


「実習帳?」


「学校で書かされるやつ。何をするか、何を使うか、どこに注意するか、最後にどうなったかを書く。丸進さんの測定手順も、ただ図だけやなくて、作業前に確認することと、測った後に見ることを分けた方がええんちゃう?」


 森川が頷いた。


「測る前と測った後、ですか」


「うん。測る前に、測定器が合ってるか。部品の向きが合ってるか。測った後に、どの数字なら良品で、どこから注意か。そこが一緒になってたら、見る人が迷うと思う」


 丸進の社長は、直人を見た。


「息子さんですか」


「はい。まだ高校1年です」


 隆夫が答える。


「布施工業の機械科に入ったばかりで、余計なことを言うこともあります」


「いや」


 丸進の社長は首を振った。


「余計ではありません。うちには、その作業前の確認がありませんでした」


 美智子はすぐに紙を出した。


 丸進製作所

 測定手順見直し

 作業前確認

 測定箇所

 測定器

 判定基準

 作業後確認

 改訂履歴


 直人は少しだけ緊張した。


 自分の学校の実習帳が、工場の仕事に入った。


 ただの学生ではない。


 ただの手伝いでもない。


 学校で学んだことを、町工場の言葉へ変えられる。


 それが嬉しかった。


 だが、同時に怖かった。


 言ったことには責任が生まれる。


 秋になると、丸進製作所の現場確認が始まった。


 黒瀬精機が全部を抱えるのではない。


 測定手順は黒瀬精機。


 樹脂の当たりは大西樹脂。


 見本の研磨は川嶋。


 商工会の北村が相談番号を振り、記録を残す。


 丸進の社長は、最初はその手順の多さに顔をしかめた。


「これだけ紙がいるんですね」


 隆夫は答えた。


「紙を減らすことはできます。でも、何を減らすかを決める前に、まず必要なものを見ます」


「前は、紙なんか後でいいと思っていました」


「うちも昔はそうでした」


 その言葉に、丸進の社長は黙った。


 自分だけが責められているわけではないと分かったのだろう。


 黒瀬精機も通ってきた道だ。


 だからこそ、言えることがある。


 10月、布施工業では初めての中間テストがあった。


 直人は工場へ入る時間を大きく減らされた。


 美智子の命令だった。


「試験前1週間は、工場禁止」


「ちょっとくらい」


「あかん」


「流れ札の整理だけでも」


「あかん」


「お母ちゃん」


「学生の本分は勉強」


 隆夫も口を挟まなかった。


 森川だけが小声で言った。


「直坊、俺の時も奥さんみたいな人がおったら、もっと勉強してたかもしれん」


「今からでもできますよ」


 直人が言うと、森川は苦笑した。


「高校1年に言われたら逃げ場ないな」


 試験が終わると、直人はすぐに工場へ戻った。


 作業台には、丸進製作所の測定手順案と、倉田精密の乾燥待ち棚の改訂結果が並んでいた。


 倉田精密の方は、置き間違いが止まった代わりに、乾燥待ちの時間が伸びたことで、次工程の予定が詰まる問題が出ていた。


 ひとつ直すと、別の場所に負荷が出る。


 それが工程だった。


「お父ちゃん、これ」


 直人は倉田精密の紙を指した。


「乾燥待ちだけ見たら良くなってるけど、次工程が詰まってるなら、棚だけの話やないんちゃう?」


 隆夫は頷いた。


「ああ。次は、次工程の受け取り時間も見る必要がある」


「つまり、洗浄の場所だけやなくて、次に渡す時間も札にいる?」


 美智子の鉛筆が動いた。


 受け取り予定時刻。

 実際の受け取り時刻。

 滞留時間。


 森川が言った。


「直坊、また項目増やしたな」


「増やしたいわけやないねん」


 直人は困った顔をした。


「でも、詰まってる場所を見んかったら、また別のところで迷子になる」


 隆夫は静かに言った。


「それが流れを見るってことや」


 その言葉に、直人は少しだけ背筋を伸ばした。


 流れを見る。


 それは、黒瀬精機がこの数年で得た力だった。


 しかし、流れは一度見れば終わりではない。


 部品が変わる。


 人が変わる。


 時間が変わる。


 すると、また別の場所が詰まる。


 だから記録がいる。


 だから人がいる。


 だから、学校で学ぶ基礎がいる。


 秋の終わり、丸進製作所から正式に測定手順と簡易治具の発注が来た。


 ただし、最初の依頼とは条件が違っていた。


 現場確認料あり。


 測定手順作成費あり。


 試作と本製作は別。


 納期は黒瀬精機の提示通り。


 詳細図面は黒瀬精機管理。


 丸進の社長は、最後にこう言った。


「前より高くなりました。でも、前より怖くありません」


 隆夫はその言葉を聞いて、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 電話を切ったあと、森川がぽつりと言った。


「高いけど怖くない、か」


 美智子が帳面に書きながら答えた。


「ええ言葉やね」


 田端も頷く。


「安くて怖い仕事より、ずっとええ」


 直人は、その言葉をノートに書いた。


 高いけど怖くない。


 前の人生の黒瀬精機は、安くて怖い仕事をたくさん抱えた。


 今は違う。


 少しずつだが、怖さを先に見て、値段をつけ、手順に変えることができるようになっている。


 1990年夏から秋。


 直人は、学校の実習帳が町工場の仕事に役立つことを知った。


 黒瀬精機は、受け直した丸進の仕事を、以前とは違う条件で取った。


 倉田精密では、取り違え防止の次に、滞留時間を見る段階へ進んだ。


 そして町は、派手に膨らむ工場と、静かに怖さを減らす工場とに、ますます分かれ始めていた。


 直人はまだ高校1年だ。


 機械も、図面も、知らないことばかりだ。


 だが、知らないことを知る場所がある。


 それを工場へ持ち帰る場所もある。


 黒瀬精機の再起動は、学校の実習帳の1行からも進み始めていた。


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