第44話 図面は人に渡る

 1990年春。


 黒瀬直人は、大阪府立布施工業高等学校の機械科に入学した。


 真新しい制服は、まだ身体に馴染まない。


 高井田の工場街から自転車で走り、八戸ノ里の方へ抜け、宝持へ向かう道にもまだ慣れなかった。


 だが、校門をくぐるたびに、直人の胸は少しだけ熱くなった。


 ここで、機械を学ぶ。


 ここで、図面を学ぶ。


 ここで、前の人生では曖昧に通り過ぎてしまったものを、もう一度、基礎から拾い直す。


 入学して最初の数週間は、工場で役に立つような派手な授業ばかりではなかった。


 校則。


 通学路。


 教室の掃除。


 体育館での話。


 実習服の扱い。


 だが、製図室に初めて入った日、直人は思わず足を止めた。


 広い机。


 製図板。


 定規。


 鉛筆。


 消しゴム。


 黒瀬精機の作業台とは違う、整えられた匂いがある。


 油と鉄粉ではなく、紙と鉛筆の匂い。


 担当の教師は、黒板に大きく書いた。


 図面は、自分のためだけに描くものではない。


 それを見た瞬間、直人の背筋が伸びた。


 教師は続けた。


「自分だけが分かる絵は、図面ではありません。次に作る人、測る人、確認する人に伝わって、初めて図面になります」


 直人は、黒瀬精機の棚を思い出した。


 古い図面袋。


 父の手描きの線。


 森川が書き足したメモ。


 美智子が作った番号表。


 流れ札。


 クロフィックスの仕様書。


 それらは少しずつ整い始めている。


 だが、まだ父や森川の頭の中に頼っている部分がある。


 その日の授業では、直線を引くだけで終わった。


 円も描かない。


 部品も描かない。


 ただ線を引く。


 太い線。


 細い線。


 中心線。


 寸法線。


 教師は何度も言った。


「線には役割があります。全部同じ濃さで描くな。見る人が迷います」


 直人は鉛筆を握りながら、胸の奥で静かに頷いた。


 札も同じだ。


 図面も同じだ。


 仕事も同じだ。


 何が大事で、何が補助なのか。


 それが見えなければ、人は迷う。


 その頃、黒瀬精機では、小さな混乱が起きていた。


 大和計測向けの追加台座で、森川が古い控えを見てしまったのだ。


 大きな不良にはならなかった。


 加工に入る前に隆夫が気づいた。


 だが、危なかった。


「これ、前の寸法や」


 隆夫が図面を見て言った時、森川の顔から血の気が引いた。


「すみません。棚の上にあったので、これが最新版やと思って……」


「いや、置き方が悪い」


 隆夫は森川を怒鳴らなかった。


 作業台の上には、同じ部品の図面が2枚あった。


 古い控え。


 補正後の控え。


 見比べれば違う。


 だが、忙しい現場でぱっと手に取った時、間違えないとは言い切れなかった。


 美智子は図面袋を見て、顔をしかめた。


「最新版がどれか、袋を開けな分からんのはあかんね」


 田端がちょうど来ていた。


「これ、町工場あるあるですね。古い図面で作って、あとから『それ前のやつや』ってなる」


 森川は肩を落とした。


「俺、やりかけました」


「やりかけで済んだ」


 隆夫は言った。


「済んだうちに直す」


 その夕方、直人が学校から戻ると、工場の空気がいつもより硬かった。


「何かあったん?」


 森川が苦い顔で説明した。


 古い図面。


 新しい図面。


 最新版の見分け。


 直人は製図室で聞いたばかりの言葉を思い出した。


 図面は、自分のためだけに描くものではない。


「お父ちゃん」


「なんや」


「図面の右下に、名前とか番号とか日付を書く場所、決めへん?」


 隆夫が顔を上げる。


「右下?」


「学校で習った。図面には、誰が見ても分かるように、表題欄を作るって」


 美智子の鉛筆が止まった。


「表題欄?」


「うん。図面番号、品名、日付、描いた人、直した日。そういうのを同じ場所に書く。あと、直したら、どこを直したかも残す」


 森川が図面を覗き込む。


「今は、空いてるところにメモしてますね」


「それやと、見る場所が毎回違うやろ」


 直人は紙を1枚取り、図面の右下に四角い枠を描いた。


 品名。


 図面番号。


 仕事番号。


 作成日。


 改訂日。


 改訂内容。


 作成者。


 確認者。


「全部の図面にいきなりは無理やと思う。でも、今動いてる仕事から、ここを揃えた方がええんちゃうかな」


 隆夫は、その小さな枠をじっと見ていた。


「改訂内容、か」


「うん。どこを変えたか残ってないと、あとで古いのか新しいのか分からん」


 直人は少し迷ってから続けた。


「それと、古い図面は捨てずに、旧って赤で書いて別に置く。捨てたら、何を変えたか分からんようになるから」


 美智子がすぐに赤鉛筆を取った。


「最新版。旧版。改訂履歴」


 田端が腕を組む。


「これ、地味やけど効きますね」


「地味やから続くんやと思う」


 直人が言うと、田端は少し笑った。


「直坊、ええこと言うな」


 隆夫は、古い図面と新しい図面を見比べた。


「今日は加工に入る前に気づいた。でも、次も気づけるとは限らん」


 森川が深く頭を下げた。


「すみません」


「森川だけのせいやない」


 隆夫は言った。


「間違えやすい置き方にしてた工場のせいや」


 美智子が頷いた。


「ほな、置き方を変える」


 その日から、黒瀬精機の図面袋には赤い札がついた。


 最新版。


 旧版。


 確認待ち。


 ただの紙札ではない。


 流れ札と同じように、図面の状態を示す札だった。


 直人は学校の宿題を終えた後、1時間だけ図面台帳を手伝った。


 美智子が読み上げる。


「1989-KU-IR-001」


「倉田精密、医療関連、1番」


 直人が台帳に写す。


「図面番号は?」


「KR-PL-004」


「改訂は?」


「B。乾燥待ち棚の持ち手位置変更」


 森川が横から言う。


「俺、これから図面取る時、まず右下見るようにします」


「見るだけやなく、声に出して確認して」


 美智子が言った。


「最新版、図面番号、改訂。そこを言ってから作業に入る」


「はい」


 森川は素直に頷いた。


 隆夫が少し笑った。


「点呼みたいやな」


「点呼で事故が減るなら、やった方がええ」


 美智子はあっさり言った。


 5月になると、直人の生活は少しずつ形になっていった。


 朝、自転車で布施工業へ行く。


 授業を受ける。


 製図で線を引く。


 実習で工具の名前を覚える。


 平日は1時間まで。


 試験前は工場禁止。


 土曜は半ドンで学校があるため、手伝いは昼飯を食べてから夕方まで。


 日曜も、午前だけ。


美智子の決まりは厳しかった。


 だが、そのおかげで直人は崩れなかった。


 学校では、同級生に少し変わった奴だと思われていた。


 昼休みに、直人が方眼紙へ工場の流れを書いているのを見て、隣の席の生徒が聞いた。


「黒瀬、それ何や」


「家の工場の流れ」


「家、工場なん?」


「うん」


「ええな。機械触り放題やん」


「触られへんで」


「なんで」


「危ないから」


 同級生はつまらなさそうな顔をした。


「何や、それ」


 直人は笑った。


 昔の自分なら、機械に触れることだけを特別だと思ったかもしれない。


 だが今は違う。


 触らないことにも意味がある。


 見ること。


 記録すること。


 順番を守ること。


 それも工場の仕事だ。


 6月、町工場相談会では、依頼を断ることが増えた。


 北村は受付の段階で、相談内容を分けるようになっていた。


 ただ安く作ってほしいだけの相談。


 責任をどこかへ押しつけたいだけの相談。


 本当に工程を見直したい相談。


 その区別は難しい。


 だが、全部を受けていたら、相談会そのものが潰れる。


 黒瀬精機も同じだった。


 大和計測から追加の話が来た時も、隆夫はすぐには受けなかった。


「今月は入れられません。見るなら来月です」


 電話口でそう言った父を見て、直人は少し驚いた。


 前の人生の父なら、無理に入れたかもしれない。


 今の父は、入れないと言える。


 それは、強くなった証だった。


 初夏の終わり、倉田精密の乾燥待ち棚の改訂版が動き始めた。


 箱の向き。


 持ち手の位置。


 札の差し込み場所。


 乾燥中と確認済みで、見た目と置き方が変わる。


 大西樹脂が作った試作品は、最初少し使いにくかった。


 杉本から「持ち手が浅い」と声が返ってきた。


 森川はすぐ直そうとしたが、隆夫が止めた。


「まず声を残す」


「はい」


「次に、何が浅いのかを見る。手袋の厚みか、箱の重さか、持つ向きか。そこを分ける」


 森川は頷いた。


「すぐ削ったらあかん、ですね」


「そうや」


 直人はその会話を聞きながら、学校の製図ノートを開いた。


 線にも役割がある。


 図面にも履歴がいる。


 仕事にも順番がある。


 学校で学ぶことと、工場で起きることが、少しずつつながっていく。


 7月の終わり、黒瀬精機の作業台には、上半期のまとめが置かれていた。


 図面台帳、運用開始。


 最新版・旧版の札、運用開始。


 倉田精密、乾燥待ち棚改訂版試行。


 町工場相談会、受付選別開始。


 大和計測、追加確認は翌月へ延期。


 直人、布施工業1学期終了。


 美智子は、その紙に赤鉛筆で線を引いた。


「前より、断ることが増えたね」


 隆夫が頷いた。


「ああ」


「でも、売上は落ちてない」


「変な仕事を受けてへんからやと思う」


 田端が言った。


「町では、黒瀬さんとこはすぐ受けてくれへん、いう噂も出てますよ」


 森川が不安そうに顔を上げる。


「それ、悪い噂ですか」


「半分は悪い噂。半分は良い噂です」


 田端は笑った。


「すぐ受けてくれへんけど、見たらちゃんと見る。そういう噂です」


 隆夫は少しだけ息を吐いた。


「便利な工場ではなくなったな」


 美智子が言った。


「便利に使われる工場からは、抜けた方がええ」


 直人は、その言葉をノートに書いた。


 便利な工場ではなく、必要な工場になる。


 その違いは大きい。


 前の人生の黒瀬精機は、便利な工場でいようとしすぎた。


 今の黒瀬精機は、必要な工場になろうとしている。


 1990年春から初夏。


 直人は、布施工業で線の引き方を学び始めた。


 黒瀬精機は、図面を迷子にしない方法を覚え始めた。


 町工場相談会は、受ける相談を選び始めた。


 何かが一気に大きくなったわけではない。


 だが、仕事の足元にある線は、確かに太くなっていた。


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