第22話 身体も測れ

 1985年10月16日の夕方、高井田の町はいつもと違う音で揺れていた。


 機械音ではない。


 ラジオの声。


 拍手。


 口笛。


 どこかの工場から聞こえる歓声。


 軽トラックのクラクション。


 細い路地の向こうから、誰かが叫んだ。


「阪神、優勝や!」


 その声に、別の工場からまた歓声が返る。


 黒瀬精機の工場でも、森川修一がラジオにかじりついていた。


「社長! ほんまに優勝ですわ!」


 17歳の森川は、旋盤の前で両拳を握っていた。


 作業はもう終えている。


 父の隆夫が「今日はここまで」と決め、機械は止まっていた。


 壁には「黒瀬精機の決まり」が貼られている。


 1 朝飯を食ってから機械を触る

 2 赤字の仕事は仕事と呼ばない

 3 口約束は紙にする

 4 失敗は隠さず記録する

 5 使う人の声を聞く

 6 同じ失敗を2回しない

 7 仕事は、値段だけでなく入金日を見る

 8 見せる前に守る


 その紙の下で、森川が子供のように跳ねている。


「21年ぶりですよ、21年!」


「お前、生まれてへんやろ」


 父が笑った。


「生まれてへんけど、すごいもんはすごいんです!」


 森川はまったく引かない。


 母の美智子も、台所から顔を出した。


「そんな騒いで、近所に聞こえるで」


「奥さん、もう近所中騒いでますわ」


 森川が言うと、母も少し笑った。


「それもそうやね」


 直人は工場の入口に立ち、町の音を聞いていた。


 1985年の大阪。


 阪神優勝。


 この熱気を、51歳の直人は知っている。


 テレビで何度も振り返られた昭和の名場面。


 大阪が浮かれ、道頓堀が騒ぎ、町全体が黄色と黒に染まったように語られる年。


 だが、10歳の直人にとっては、今この瞬間が現実だった。


 工場の油の匂い。


 夕方の冷え始めた空気。


 ラジオのざらついた音。


 父の笑い声。


 森川のはしゃぐ声。


 母の呆れた声。


 全部が、生きている。


「直人」


 父が声をかけた。


「お前、阪神優勝やぞ。もっと喜べ」


「喜んでる」


「顔が難しい」


「そう?」


「そうや」


 父は笑いながら、作業台の端に置いた煙草へ手を伸ばした。


 直人の胸が、ぎゅっと縮んだ。


 煙草。


 前の人生で、父はよく吸っていた。


 忙しい時。


 見積もりに悩む時。


 納期に追われる時。


 仕事が終わった後。


 煙を吐きながら、工場の床に腰を下ろしていた父の姿を、直人は嫌というほど覚えている。


 1999年。


 工場の床。


 倒れた父。


 その記憶が、阪神優勝の歓声の中に混ざった。


 さらに遠くから、別の朝の記憶が来る。


 1995年1月17日。


 直人の20歳の誕生日。


 まだ暗い朝。


 揺れ。


 割れる音。


 叫び声。


 テレビに映る炎。


 阪神・淡路大震災。


 この町の歓声から、あと9年と少しで、あの朝が来る。


 父が倒れるのは、そのさらに後だ。


 だが、直人にはわかっている。


 未来の悲劇は、ある日突然落ちてくるようでいて、実際には日々の積み重ねの先にある。


 寝不足。


 煙草。


 無理な仕事。


 検診を後回しにする癖。


 自分の体を測らない社長。


「お父ちゃん」


 直人は言った。


「なんや」


「煙草、今日はやめとき」


 父が目を丸くした。


 森川も振り返る。


 母も台所からこちらを見る。


「なんや急に」


「優勝の日やから」


「意味わからんぞ」


 父は笑った。


 煙草を口にくわえようとする。


 直人は一歩前へ出た。


「工場の機械は測るのに、お父ちゃんの体は測らんの?」


 父の手が止まった。


 ラジオの音だけが、工場の中に残る。


 森川の顔から笑みが消えた。


 母の目が、静かに父へ向く。


「体を測る?」


 父が聞き返した。


「うん」


 直人は、必死に子供の言葉を探した。


「ノギスで部品測るやん。時間も測るやん。入金日も見るやん。でも、お父ちゃんが倒れたら、工場止まるやん」


 父は何も言わなかった。


 森川が小さく息を呑む。


 母の顔が少し硬くなった。


「直人」


 父の声は低かった。


「なんでそんなこと言う」


 直人は父を見上げた。


 40歳の父。


 まだ若い。


 腕も太い。


 声も強い。


 だが直人の記憶の中では、この父は54歳で倒れる。


 自分より長く生きたわけではない。


 直人が51歳まで生きた今だからこそ、父の54歳という年齢が、あまりに早すぎることがわかる。


「夢見た」


 直人は言った。


 嘘ではない。


 前の人生の記憶は、10歳の体には夢のようなものだ。


「お父ちゃんが、工場で倒れる夢」


 母が手にしていた布巾を握った。


 父は口を閉じた。


 森川は気まずそうに視線を落とす。


 工場の外では、まだ歓声が聞こえている。


 阪神優勝。


 町は浮かれている。


 だが黒瀬精機の中だけ、空気が静かになっていた。


「夢やろ」


 父はようやく言った。


「夢やけど、嫌や」


 直人の声は少し震えた。


「お父ちゃんが倒れたら嫌や」


 子供の言葉。


 それでいい。


 いや、それしか言えない。


 未来を知っているとは言えない。


 1999年に父が死ぬとは言えない。


 バブルが崩壊し、町工場が苦しくなり、父が無理を重ねるとは言えない。


 だから、子供として言うしかない。


 嫌だ、と。


 母が静かに口を開いた。


「隆夫さん」


「なんや」


「健康診断、受けよか」


 父が困った顔をする。


「いや、俺は別に」


「別に、やない」


 母の声が少し強くなった。


「森川くんには朝ごはん食べろって言う。機械は音聞けって言う。仕事は記録しろって言う。ほな、自分の体も見なあかんやろ」


 森川が恐る恐る言った。


「社長、俺もそう思います」


「お前まで」


「いや、だって……社長が倒れたら、俺ほんま困ります」


 森川の声は真剣だった。


「まだ教えてもらわなあかんこと、山ほどあります。ノギスもまだ怪しいし、研磨も樹脂も、クロセ治具も。社長が倒れたら困ります」


 父は森川を見た。


 森川は目を逸らさなかった。


 その姿に、直人は胸が熱くなった。


 森川はもう、ただの見習いではない。


 父を必要としている。


 黒瀬精機の未来を一緒に背負い始めている。


 母が続けた。


「健康診断を受けるだけやん。何もなかったら、それで安心できる」


「忙しい」


 父が小さく言った。


 母の目が鋭くなる。


「今、それ言う?」


 父は黙った。


「朝飯食べる時間を作った。作業記録も作った。入金予定表も作った。特許の相談もした。忙しいからやめる、で済むなら、今までの決まりは何やったん?」


 母の言葉は、静かに父を追い詰めた。


 直人は工場の壁を見た。


 黒瀬精機の決まり。


 そこに、まだ足りないものがある。


 父も同じ紙を見た。


「体も測る、か」


 父が呟いた。


 母が頷く。


「そうやね」


 森川が言った。


「社長、工場の決まりに入れましょう」


「なんでもかんでも決まりにするな」


「でも、大事です」


 父はしばらく黙っていた。


 やがて、煙草を箱へ戻した。


 直人は、その小さな動きを見逃さなかった。


 たった1本、吸わなかっただけだ。


 それで未来が変わるわけではない。


 だが、0ではない。


 父は作業台の鉛筆を取った。


 壁の紙を外す。


 8番の下に、少し乱れた字で書いた。


 9 機械だけでなく、身体も測る


 森川が小さく笑った。


「社長、身体って漢字、難しいですね」


「うるさい」


 母が紙を見て、静かに笑った。


「これで逃げられへんね」


「健康診断、どこで受けるんや」


 父が諦めたように聞いた。


 母はすぐ答えた。


「商工会か、近くの病院に聞いてみる。田端さんも何か知ってるかもしれんし」


「田端さん、何でも知ってるな」


 森川が言う。


「町を回ってるからな」


 父は壁に紙を貼り直した。


 9つに増えた黒瀬精機の決まり。


 その最後の1行を、直人はじっと見つめた。


 機械だけでなく、身体も測る。


 未来を変えるには、仕事の形を変えるだけでは足りない。


 父の体を守らなければならない。


 1999年を越えるために。


 あの日の工場の床へ、父を行かせないために。


「ほな」


 母が手を叩いた。


「今日は優勝の日やし、ご飯にしよ。森川くんも食べて帰り」


「え、ええんですか」


「お祝いやろ」


 森川の顔が明るくなる。


「いただきます!」


「返事早いな」


 父が笑った。


 工場に少しずつ笑いが戻る。


 外ではまだ、阪神優勝の歓声が続いていた。


 その夜、黒瀬家の食卓には、いつもより少しだけ豪華な料理が並んだ。


 母が急いで作った唐揚げ。


 卵焼き。


 漬物。


 白いご飯。


 森川は何度も「うまいです」と言い、父は少しだけ機嫌よく湯呑みを持っていた。


 酒は飲みすぎない。


 母にそう釘を刺され、父は渋々頷いた。


 ラジオからは、阪神優勝を祝う声が流れ続けている。


 森川が興奮気味に言った。


「社長、これ、日本一もあるんちゃいます?」


「あるやろな」


 父が笑う。


「今年の阪神は強い」


「大阪、えらいことになりますね」


「もうなってる」


 母が苦笑した。


 直人は、その会話を聞きながら、静かにご飯を食べた。


 1985年の歓喜。


 1995年の震災。


 1999年の父の死。


 2026年の自分。


 時間が、食卓の上で重なっているようだった。


 この幸せな音を、未来で失わせたくない。


 父の笑い声。


 母の小言。


 森川の食べっぷり。


 工場の壁に貼られた決まり。


 クロセ治具の見本1号。


 全部、守りたい。


 食事のあと、父は珍しく早めに工場へ下りなかった。


 かわりに、ちゃぶ台の横で新聞を読み直していた。


 直人はそっと隣に座った。


「お父ちゃん」


「なんや」


「健康診断、ほんまに行く?」


「行く」


 父は新聞から目を離さずに言った。


「約束や」


「煙草は?」


「それは……少し減らす」


「少し?」


「いきなり全部は無理や」


 父は苦い顔をした。


 直人は少し考え、頷いた。


「ほな、記録したら?」


「煙草を?」


「うん。1日何本吸ったか」


 父が嫌そうな顔をする。


「そこまでやるんか」


 母が台所から即座に言った。


「やる」


 父は天井を見上げた。


「聞こえてたんか」


「聞こえるわ」


 森川が笑いを堪えている。


「社長、煙草記録ですか」


「笑うな。お前も菓子パンばっかり食うてたら記録させるぞ」


「すんません」


 工場ではなく、食卓でまた笑いが起きた。


 だが直人は本気だった。


 測る。


 記録する。


 見えるようにする。


 それは、工場の仕事だけではない。


 父の体にも必要だった。


 夜、直人は未来ノートを開いた。


 今日の出来事を書く。


 1985年10月16日 阪神リーグ優勝

 町中が騒いでいた

 父、煙草を吸おうとした

 直人、工場の機械は測るのに体は測らないのかと言った

 母、健康診断を提案

 森川さん、社長が倒れたら困ると言った

 黒瀬精機の決まりに9番追加

 9 機械だけでなく、身体も測る

 父、健康診断に行くと約束

 煙草の本数も記録する流れ


 そこまで書いて、直人は手を止めた。


 窓の外から、まだ遠くの歓声が聞こえる。


 阪神優勝の夜。


 大阪中が浮かれている。


 その浮かれた夜に、黒瀬精機では父の体を守る決まりが生まれた。


 直人は、最後に大きく書いた。


 未来は、工場だけでは変わらない。

 父が生きていて、初めて未来は変えられる。


 鉛筆を置いた。


 胸の奥が、少し痛かった。


 20歳の誕生日に見た炎。


 工場の床に倒れた父。


 看板を外した2026年の自分。


 その全部が、まだ消えたわけではない。


 けれど今日、父は煙草を1本吸わなかった。


 健康診断へ行くと約束した。


 壁に新しい決まりが増えた。


 それは小さなことだ。


 だが、小さな1削りが鉄の形を変えるように、今日の1行が未来を変えるかもしれない。


 直人はノートを閉じた。


 階下から、父の笑い声が聞こえる。


 その声を、1999年の向こう側まで連れていく。


 直人は暗い天井を見上げながら、静かにそう決めた。

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