第23話 社長の体も設備
翌朝、黒瀬精機の工場は、いつもより少しだけ静かだった。
阪神優勝の騒ぎは、まだ町のあちこちに残っている。
近所の工場の入口には、誰かが急いで書いたらしい「祝・阪神優勝」の紙が貼られていた。
軽トラックの運転席にも、小さな虎のシールが貼られている。
高井田の町は、いつもの油の匂いに、浮かれた熱を混ぜていた。
だが、黒瀬家のちゃぶ台の上には、別の紙が置かれていた。
煙草記録。
母の美智子が、白い紙の上に線を引いて作ったものだ。
日付。
朝。
昼。
夕方。
夜。
合計。
その横に、小さく「体調」と書かれている。
父の隆夫は、その紙を見て渋い顔をしていた。
「ここまでやるんか」
「やる」
母は即答した。
「昨日、自分で決まりに書いたやん。機械だけでなく、身体も測るって」
「煙草の本数まで身体か」
「肺に入るんやから身体やろ」
父は言い返せなかった。
直人は味噌汁をすすりながら、ちゃぶ台の紙を見た。
煙草記録。
たったそれだけの紙。
けれど、直人には大きな意味があった。
測る。
記録する。
見えるようにする。
黒瀬精機が仕事で覚え始めたことを、ようやく父の体にも向けようとしている。
前の人生では、父の体はずっと後回しだった。
納期が先。
客が先。
職人が先。
家族が先。
自分の体は、最後の最後。
そうして父は、54歳で倒れた。
直人は、湯気の向こうの父を見た。
まだ40歳。
若い。
強い。
腕も太い。
けれど、未来の直人は知っている。
強い人間ほど、自分が壊れかけていることに気づかない。
「お父ちゃん」
「なんや」
「昨日、何本吸ったん?」
父は目を逸らした。
母がすぐに言った。
「ほら、もう怪しい」
「数えてへん」
「数えるための紙やろ」
「昨日は優勝の日やったから」
「阪神は関係ない」
母の声がぴしゃりと飛ぶ。
父は渋々、鉛筆を取った。
「たぶん、12本ぐらい」
「たぶんはあかん」
「昨日の分は仕方ないやろ」
父が弱々しく反論する。
直人は少し笑いそうになった。
工場ではあれほど強い父が、煙草記録の前では妙に弱い。
けれど、これもまた大事な1歩だった。
「今日から正確に書いたらええやん」
直人が言うと、父は眉を寄せた。
「お前まで母ちゃん側か」
「お父ちゃん側やから言うてるんやん」
父の顔が止まった。
何かを言いかけて、やめる。
母も少しだけ目を伏せた。
直人は、しまったと思った。
子供にしては、言い方が重かったかもしれない。
だが、それ以上は言わなかった。
父は小さく息を吐き、紙に書いた。
10月17日 朝 0
「まだ吸ってへんから0や」
「ええやん」
直人は言った。
父は少し照れくさそうに鉛筆を置いた。
その時、工場側の戸が開いた。
「おはようございます」
森川修一が顔を出した。
17歳の見習いは、いつもより少し眠そうだったが、顔色は悪くない。
直人はすぐに聞いた。
「森川さん、朝ごはんは?」
「食べた。今日はちゃんと米食べてきた」
「おかずは?」
「味噌汁と海苔」
「合格」
「毎朝試験されるんか、俺」
森川が笑いながら工場に入る。
だが、ちゃぶ台の紙を見るなり、目を丸くした。
「社長、煙草記録ですか」
「笑うな」
「笑ってません」
「口元が笑ってる」
「すんません」
森川は慌てて口を押さえた。
母が言った。
「森川くんも、社長が吸いすぎてたら言うてな」
「え、俺がですか」
「若い目で見張って」
森川は父を見た。
父は嫌そうな顔をしている。
森川は少し迷ったあと、真面目に頷いた。
「わかりました」
「お前まで」
「社長、倒れられたら困りますから」
森川の声は軽くなかった。
父はその言葉に黙った。
昨日も、森川は同じようなことを言った。
まだ教えてもらわなあかんことが山ほどある。
その言葉は、父に効いている。
直人には、それがわかった。
朝食が終わると、母がもう1枚の紙を出した。
商工会 集団健康診断の案内。
田端が昨日の夜、阪神優勝の騒ぎのついでに持ってきたらしい。
「これ、来月の頭にあるみたい」
母が言った。
「商工会館でまとめて受けられるって」
父は案内を見た。
「わざわざ行くんか」
「行く」
「仕事が」
「半日やろ」
「半日でも」
母の目が細くなった。
「社長が倒れたら、半日どころやないで」
工場の空気が少し止まった。
森川も何も言わない。
直人も黙った。
父は案内を見たまま、渋い顔をしていた。
やがて、諦めたように頷く。
「わかった。行く」
母はすぐに鉛筆で丸をつけた。
「ほな申し込む」
「早いな」
「逃げられたら困るから」
森川が小さく吹き出した。
父に睨まれ、すぐに咳払いでごまかす。
そこで母は、もう1つ丸をつけた。
父が眉をひそめる。
「なんや」
「森川くんも受けるんやで」
森川が目を丸くした。
「俺もですか」
「当たり前やろ。黒瀬精機で働いてるんやから」
「いや、俺は若いですし」
「若いから大丈夫、で済ませたらあかん」
母の声は強かった。
「朝ごはんもそうやけど、若い時から測っとく方がええ。社長だけ測って、若い衆はほったらかしでは会社としておかしいやろ」
森川は、少し照れたように頭をかいた。
「健康診断なんて、中学以来ですわ」
「ほな、なおさらや」
母は申込用紙を広げた。
「隆夫さん。森川くん。それと私も受ける」
父が顔を上げた。
「美智子も?」
「帳面見る人間が倒れたら、黒瀬精機も困るやろ」
それを言われると、父は黙るしかなかった。
直人は、その光景を見て胸の奥で頷いた。
そうだ。
工場は、父1人で動いているわけではない。
森川の手。
母の帳面。
父の腕。
それぞれが黒瀬精機を動かしている。
機械だけでなく、身体も測る。
その「身体」は、父だけのものではない。
「でも、美智子は会社の健康診断に入るんか」
父が少し困ったように言った。
「細かいことは商工会で聞く」
母は即答した。
「会社として森川くんは受ける。私は家族でも事務でもええから、一緒に受けられるなら受ける。駄目なら病院で受ける。それだけや」
父は完全に言い負けた顔をした。
「強いな」
「工場潰れる方が怖いって、前にも言うたやろ」
母は申込用紙に、黒瀬隆夫、森川修一、美智子の名前を書く場所を確認し始めた。
森川は少し不思議そうにその手元を見ていた。
「奥さん、俺の分までええんですか」
「ええも何も、働いてる人の体を見るのは工場の仕事やろ」
森川は、照れたように頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は、いつもより少し小さかった。
たぶん、嬉しかったのだ。
自分がただの手伝いではなく、黒瀬精機の人間として扱われていることが。
直人はそう思った。
時計を見ると、そろそろ学校へ行く時間だった。
今日は、クロセ治具標準台座A型の見本1号を本格的に進めるはずだった。
父たちの健康診断の話も、煙草記録も大事だ。
だが、試作の進みも見たい。
行きたくない。
毎回そう思う。
けれど、行かなければならない。
10歳の子供としての生活を崩せば、周りに違和感を与える。
「行ってきます」
「おう。ちゃんと勉強してこい」
父が言った。
「お父ちゃんも、煙草書いてな」
「学校行け」
父が苦笑する。
直人は少し笑って家を出た。
通学路を歩きながら、直人は父の「朝0」の文字を思い出していた。
たった0。
それだけで未来が変わるとは思わない。
でも、測り始めた。
それが大事だ。
測れないものは、変えられない。
工場でも、体でも同じだ。
放課後、直人は早足で家に戻った。
工場に近づくと、短い機械音が聞こえてきた。
続いて、森川の声。
「社長、ここ、もう少し逃がした方がよくないですか」
「なんでや」
「手順札差した時、紙が少し傾きます」
「どれ」
直人は工場へ入った。
作業台の上には、クロセ治具標準台座A型の見本1号が置かれていた。
昨日より、明らかに形が整っている。
四角い台座の角は落とされ、手順札を差し込む細い溝が入っていた。
交換式当たりを固定する穴も、仮の状態ながら見える。
ブッシュ交換部はまだ粗いが、構造の中心はわかる。
父は図面と現物を何度も見比べていた。
森川は厚紙の手順札を溝に差し、角度を確認している。
「ただいま」
「おかえり、直坊」
森川が振り返った。
「見てみ。だいぶ形になったで」
「おお……」
直人は素直に声を漏らした。
見本1号。
まだ荒い。
まだ商品ではない。
だが、確かにそこにある。
未来を変えるための1台が、鉄の形を持ち始めている。
「手順札、立つんや」
「立つ。ただ、ちょっと見にくい」
森川は手順札を差したまま、少し離れて見た。
「立ちすぎると邪魔。寝すぎると読みにくい。ちょうどええ角度が難しいです」
父が頷く。
「現場で見る高さが違うからな」
「座って読む紙と違いますもんね」
森川は自然にそう言った。
直人は少し嬉しくなった。
森川の中に、現場で使う人の目線が育っている。
最初の頃なら、ただ「差せます」で終わっていたかもしれない。
今は、読めるか、邪魔にならないか、使う人がどう見るかを考えている。
「手順札の角度も交換できるようにします?」
森川が聞いた。
父は首を横に振った。
「今はやらん」
「でも」
「やれることを全部入れたら、ごちゃごちゃする。A型は小物検査用の標準台座や。まずは、迷わず置けて、手順が見えて、当たりが替えられる。それだけを強くする」
森川は少し考え、頷いた。
「絞るんですね」
「ああ。伊原先生も言うてたやろ。守る中心を決めろって」
直人は父を見た。
父が「絞る」ことを覚えている。
これは大きい。
未来を知る直人は、つい色々な機能を足したくなる。
だが、最初の1台に詰め込みすぎれば、使いにくくなる。
価格も上がる。
守る中心もぼやける。
父はそこを踏みとどまっている。
「お父ちゃん」
「なんや」
「A型の決まりも書いたら?」
「A型の決まり?」
「入れるものと、入れへんもの」
父は少し考えた。
母が奥から顔を出した。
「それ、ええんちゃう。あとから『これもつけよう、あれもつけよう』って増えすぎたら困るし」
父は苦笑した。
「美智子に言われると、もう決定やな」
作業台に白い紙が置かれた。
父が表題を書く。
標準台座A型の決まり。
1 小物検査用に絞る
2 交換式当たりを持つ
3 手順札を差せる
4 予備部品を管理する
5 大きな部品用にはしない
6 角度調整など複雑な機構は入れない
7 現場の声で改良するが、A型の中心は変えない
森川がそれを見て、感心したように言った。
「工場の決まり、どんどん増えますね」
「増やすだけやったらあかん」
父は言った。
「守らな意味がない」
母がすかさず言う。
「煙草記録も守ってな」
父の肩がびくりと動いた。
直人は作業台の端に置かれた煙草記録を見た。
朝 0。
昼の欄には、2と書かれていた。
「お父ちゃん、昼2本吸ったん?」
「……吸った」
「書いたんや」
「書いた」
父は少し不機嫌そうだったが、どこか誇らしげでもあった。
母が言う。
「まずは書くことやね」
「減らすのは?」
直人が聞くと、父は渋い顔をした。
「いきなりは無理や」
「ほな、昨日より1本少なく」
森川が横から言った。
父は森川を見る。
「お前まで管理するんか」
「社長が倒れたら困るんで」
森川は真顔で返した。
父は何も言えなくなった。
母が小さく笑う。
「味方が増えてよかったわ」
その時、工場の前に田端の軽トラックが停まった。
「黒瀬さん、いてる?」
田端が顔を出す。
手には封筒と、なぜか小さな阪神の旗を持っていた。
「なんですか、それ」
森川が聞く。
「優勝記念や。取引先でもろた」
田端は旗を作業台の端に置き、封筒を父に渡した。
「商工会の健康診断、申し込み用紙もろてきたで。奥さんが探してるって聞いたから」
母が目を丸くする。
「早いですね」
「町を回ってるからな」
田端は得意そうに言った。
「森川くんの分も聞いといた。常勤で働いてる若い衆なら、会社として受けさせた方がええって。奥さんの分は、家族扱いになるか事業所扱いになるか、商工会で確認してくれるらしい」
母は封筒を受け取り、すぐに中身を見た。
「助かります」
「ついでに、弁理士の伊原先生の件も少し聞いといた。相談料、次回からはちゃんとかかるそうや。初回は佐伯さんの紹介やから、少し抑えてくれたらしい」
父の顔が引き締まる。
「そうですか」
「守るのにも金がかかる。体を守るのにも金がかかる。クロセ治具を作るのにも金がかかる」
田端は作業台の見本1号を見た。
「せやけど、金を惜しむところを間違えたらあかん」
その言葉に、工場が静かになった。
田端は普段、軽い。
冗談も多い。
だが、ときどき町を回る男の目で、核心を突く。
「黒瀬さん」
「はい」
「機械が壊れたら直すやろ。刃物が減ったら替えるやろ。社長の体も、森川くんの体も、奥さんの体も、クロセ治具の名前も、同じやと思うで。壊れてからでは高くつく」
父はゆっくり頷いた。
「そうですね」
母が健康診断の申し込み用紙を受け取った。
「これは今日書きます」
「奥さん、逃がす気なしやな」
「ありません」
田端は笑った。
その笑いに、工場の空気も少し緩む。
だが、直人の胸には田端の言葉が残った。
壊れてからでは高くつく。
父の体。
森川の体。
母の体。
クロセ治具の名前。
町工場の信用。
どれも、壊れてから慌てても遅い。
未来の直人は、それを知っている。
今の黒瀬精機は、ようやく壊れる前に手を打ち始めている。
夕方、父はクロセ治具見本1号の作業を止めた。
まだ進められる。
森川もやりたそうだった。
直人も見たかった。
だが父は、壁の決まりを見て言った。
「今日はここまでや」
「社長、あと少し溝を」
「明日でええ」
「でも」
「急いで雑にしたら、見本の意味がない」
森川は口を閉じた。
父は作業記録に終了時刻を書いた。
そして、煙草記録の夕方の欄にも数字を書いた。
1。
森川が覗き込む。
「社長、今日は今のところ3本ですか」
「見るな」
「昨日より減ってますやん」
「まだ夜がある」
母が台所から言った。
「夜も見てるで」
父は天井を仰いだ。
工場に笑いが起きた。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
父、煙草記録開始。
朝0、昼2、夕方1。
商工会の健康診断申込用紙を田端さんが持ってきた。
父だけでなく、森川さんも会社として受ける流れ。
母も一緒に受ける方向。扱いは商工会で確認。
クロセ治具標準台座A型、見本1号の加工進む。
手順札の角度で森川さんが気づく。
A型の決まりを作った。
田端さん、壊れてからでは高くつくと言った。
父、作業を途中で止めて明日に回した。
直人は鉛筆を止めた。
そして、大きめの字で書いた。
父の体も、森川さんの体も、お母ちゃんの体も、クロセ治具の名前も、黒瀬精機の信用も、壊れてからでは遅い。
守るものを先に決める。
直人はノートを閉じた。
階下では、父と母が健康診断の申込用紙を書いている声が聞こえる。
工場には、クロセ治具見本1号が置かれている。
まだ完成していない。
だが、焦っていない。
父は今日、途中で止めた。
煙草も記録した。
健康診断の申し込みも進んだ。
森川も、母も、一緒に測る流れになった。
それは、前の人生の黒瀬精機なら後回しにしたかもしれないことばかりだ。
1985年の東大阪。
阪神優勝の余韻がまだ町に残る夜。
黒瀬精機は、未来へ向けて、作るものだけでなく、守る人も1人ずつ数え始めていた。
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