第21話 クロセ治具という旗
翌朝、黒瀬直人が台所へ下りると、ちゃぶ台の上に見慣れない紙が置かれていた。
父の隆夫が書いたものだ。
クロセ治具。
クロセ標準治具。
黒瀬式治具。
K式治具。
クロセジグ。
同じような名前が、何度も書かれている。
父は味噌汁を前にして、腕を組んだままその紙を睨んでいた。
機械はまだ動いていない。
工場もまだ開いていない。
朝飯を食べる前に仕事を始めるのではなく、朝飯の席で考えている。
そのことに、直人は少しだけほっとした。
「おはよう」
「おう」
父は紙から目を離さずに答えた。
母の美智子が、ご飯をよそいながら呆れたように言う。
「名前ばっかり見てたら、ご飯冷めるで」
「わかってる」
「わかってる人の顔ちゃうわ」
父は苦笑して箸を取ったが、視線はまだ紙に残っている。
直人はちゃぶ台の端に座り、その紙を見た。
名前。
ただの名前ではない。
伊原弁理士は昨日、言った。
名前に信用が乗る、と。
前の人生の黒瀬精機には、その名前がなかった。
腕はあった。
誠実だった。
困った時に呼ばれることもあった。
けれど、いつも相手の名前の下にいた。
どこかの大手の下請け。
どこかの商社の協力工場。
どこかの図面を黙って形にする工場。
黒瀬精機自身の名前で選ばれる仕事は、少なかった。
だから、この紙は大事だった。
ただし、直人にはわかっている。
この名前をそのまま外へ出せるかどうかは、まだ別の話だ。
クロセ治具。
工場の中で呼ぶにはわかりやすい。
父にも、森川にも、母にも伝わる。
けれど、商標として通るかどうかは、伊原に確認しなければならない。
今はまだ、正式な商品名ではない。
黒瀬精機が自分たちの仕事に立てる、仮の旗だった。
「直人」
父が言った。
「なんや」
「どれがええと思う」
直人は危うく即答しそうになった。
だが、箸を持ったまま少し考えるふりをした。
10歳の子供らしく。
けれど、51歳の記憶で。
「工場の中で呼ぶなら、クロセ治具がええと思う」
「工場の中で?」
「うん。短いし、言いやすいし、誰が作ったかわかる」
母が頷いた。
「私もそれがええと思う。黒瀬式やと、ちょっと難しい感じするわ」
「K式は?」
父が聞く。
直人は首を横に振った。
「何のKかわからへん」
「せやな」
父はあっさり頷いた。
そして、紙の一番上に太い線を引いた。
クロセ治具。
その名前を、もう1度大きく書く。
直人はその字を見て、胸が小さく鳴るのを感じた。
旗だ。
そう思った。
大きな会社の旗ではない。
高井田の小さな町工場が、自分の仕事に立てる小さな旗。
でも、旗がなければ人は見つけてくれない。
「お父ちゃん」
「なんや」
「でも、それを外に出す名前にしてええかは、伊原先生に聞いた方がええんちゃう?」
父の手が止まった。
「ああ」
父は少し照れたように紙を見た。
「そうやな。これはまず、うちの中での呼び名や」
母も頷いた。
「勝手に決めて、あとで使えませんでした、では困るしね」
「せやな」
父は、クロセ治具の横に小さく書き足した。
社内呼び名。外へ出す名前は要確認。
直人は、その一文を見て息を吐いた。
これでいい。
名前を持つ。
でも、急ぎすぎない。
守る前に広げない。
それが今の黒瀬精機には必要だった。
「お父ちゃん」
「今度はなんや」
「名前決めたら、何を入れるかも決めなあかんのちゃう?」
「何を入れる?」
「クロセ治具って言うた時に、何がついてくるか」
父の箸が止まった。
母も直人を見る。
直人は慌てて言い方を変えた。
「お弁当でも、おかず何入ってるかわからんかったら困るやん」
「また食いもんで来たか」
父が少し笑う。
だが、その目は真剣になっていた。
「たとえば?」
「台座。交換する当たり。手順札。予備部品。納品チェック表。現場の声を書く紙」
言いながら、少し出しすぎたと思った。
だが父は、もう疑う顔ではなく、考える顔をしていた。
母が先に口を開く。
「それ、ええね。名前だけやなくて、中身を決めといた方が迷わへん」
「標準の中身か」
父が呟く。
「そうか。クロセ治具と言うなら、毎回これは必ず入る、というものを決めるんやな」
直人は頷いた。
「たぶん」
父は箸を置き、紙の裏に書き始めた。
クロセ治具に必ず入れるもの。
標準台座。
交換式当たり。
手順札。
予備部品。
取扱説明書。
納品チェック表。
現場の声記録。
母が横から言う。
「不具合記録は?」
「不具合が出たら付ける」
「ほな、書いとき。出た時は隠さず付けるって」
父は頷き、書き足した。
不具合が出た場合は記録と対策を付ける。
直人はその紙を見た。
これで、ただの治具ではなくなり始めた。
物ではなく、仕組みになっていく。
「でも」
母が湯呑みを置いた。
「これ、全部つけるなら値段もちゃんとせなあかんで」
父の顔が引き締まる。
「わかってる」
「ほんまに?」
「今度はわかってる」
母は少し疑わしそうに父を見たが、それ以上は言わなかった。
その時、工場側の戸が開いた。
「おはようございます」
森川修一だった。
17歳の見習いは、今日は妙に元気な顔をしている。
「森川さん、朝ごはんは?」
直人が聞くと、森川は胸を張った。
「食べた。飯、味噌汁、焼き魚」
「合格」
「直坊の審査、だんだん厳しくなってへんか」
森川は笑いながら、ちゃぶ台の紙を覗き込んだ。
「クロセ治具、決まったんですか」
「ああ」
父が答える。
「ただし、今のところは社内での呼び名や。外へ出す名前として使えるかは、伊原先生に確認してからや」
「商標のことですか」
「そうや」
父は少し苦笑した。
「名前1つ決めるのにも、知らなあかんことが多いな」
森川は紙を見ながら、目を輝かせた。
「でも、なんかほんまに商品みたいですね」
「商品にするかどうかはまだわからん」
父はすぐに釘を刺した。
「まずは見本1台や。売れる前提で量産せん。守る手続きも進める。費用も見る」
「はい」
「ただ」
父は少しだけ表情をやわらげた。
「作る価値はある」
森川の顔がぱっと明るくなった。
「はい!」
その声を聞きながら、直人は時計を見た。
学校へ行く時間が近い。
行きたくない。
今日ほど、この工場に残りたい日はない。
クロセ治具という仮の旗が立ち、標準の中身が決まり、見本1台が動き始める。
それを全部見たい。
だが、直人は小学4年生だ。
ここで学校を休めば、目立ちすぎる。
「直人、学校」
母が言った。
「うん」
直人はランドセルを背負った。
父は作業台へ向かいかけて、ふと振り返った。
「直人」
「何?」
「帰ってきたら、見せたる」
直人は少しだけ笑った。
「うん」
その言葉だけで、足が軽くなった。
学校へ向かう通学路で、直人は考え続けていた。
クロセ治具。
標準台座A型。
社内呼び名。
正式な商品名は要確認。
中身。
守る中心。
見本1台。
これは、前の人生にはなかった動きだ。
父は未来を知らない。
森川も知らない。
母も知らない。
だが、今の黒瀬精機は、未来の荒波を前に、ただ怯えているわけではない。
自分から道具を作ろうとしている。
名前を持とうとしている。
守る準備をしている。
授業中、直人は何度もノートの端に「クロセ治具」と書きそうになった。
そのたびに慌てて消す。
隣の席の女子が不思議そうに見る。
「黒瀬くん、今日も何か考えてる?」
「うん」
「また積み木?」
「今日は名前」
「名前?」
「うん」
「変なの」
直人は苦笑した。
確かに変だ。
10歳の子供が、授業中に商標のことを考えているなど、普通ではない。
放課後、直人は早足で家へ戻った。
工場のシャッターは開いている。
機械の音がしていた。
ただし、いつものような量産の音ではない。
短く削っては止まり、確認し、また少し削る。
試作の音だ。
「ただいま」
直人が工場へ入ると、森川が振り返った。
「おかえり、直坊。見てみ」
作業台の上に、金属の台座が置かれていた。
まだ完成ではない。
角は荒い。
溝も途中。
ネジ穴も仮の位置だ。
だが、形はもう見えていた。
四角い台座。
手順札を差し込むための細い溝。
交換式当たりを入れる場所。
ブッシュを替えるための穴。
その横には、父が書いた紙が貼られている。
クロセ治具 標準台座A型 見本1号。
見本1号。
その文字を見た瞬間、直人は胸の奥が熱くなった。
「もうここまでできたん?」
「まだ荒削りや」
父が言った。
「完成には遠い。けど、形は見えてきた」
森川が少し得意そうに言う。
「社長が午前中に図面を詰めて、俺が材料取りしました。材料代もちゃんと記録してます」
母が奥から顔を出した。
「端材やけど、タダにはしてへんで」
「わかってます」
森川がすぐに返事をする。
そのやり取りに、工場の空気が少し柔らかくなる。
直人は台座をじっと見た。
未来の目で見れば、まだ粗い。
もっと小さくできる。
もっと軽くできる。
もっと扱いやすくできる。
だが、それでいい。
最初から完成品を目指す必要はない。
大事なのは、黒瀬精機の知恵が、初めて共通の形になり始めたことだ。
「お父ちゃん」
「なんや」
「これ、A型ってことは、B型も作るん?」
父は首を振った。
「今は作らん」
その返事は早かった。
直人は少し驚いた。
父は続ける。
「作りたい気持ちはある。でも、今はA型だけや。伊原先生にも、守る中心を絞れと言われた。母ちゃんにも、広げすぎるなと言われた」
母が頷く。
「まず1つをちゃんとせなね」
父は台座を軽く叩いた。
「小物検査用のA型。これだけを詰める。B型やC型は、A型が使われてからや」
直人は静かに頷いた。
いい。
非常にいい。
未来を知っている直人は、つい先の展開を急ぎたくなる。
だが、事業は広げればいいものではない。
1つを深く詰める。
それが大事だ。
父はそれを、自分で選んだ。
「それでな」
森川が作業台の下から厚紙を出した。
「これ、奥さんが作ったんや」
厚紙には、母の字で大きく書かれていた。
クロセ治具 標準台座A型
小物部品の位置決めと検査を、迷わず同じ手順で。
下には、特徴が箇条書きされている。
交換式当たり。
手順札つき。
予備部品つき。
現場の声記録つき。
不具合が出た時は記録と対策つき。
直人は目を見開いた。
「おかん、これ……」
「説明の紙」
母は少し照れたように言った。
「見本ができても、口だけで説明したら忘れるやろ。だから、どういうものか先に紙にしといた」
父が言う。
「伊原先生に見せる時も、この紙があった方が話が早い」
直人は厚紙を見つめた。
これは、ただの説明書ではない。
カタログの原型だ。
1985年の小さな町工場が、自分たちの仕事を言葉にして外へ出すための最初の1枚。
母は、また大事なところを自然に掴んでいる。
「めっちゃええと思う」
直人は素直に言った。
母は少し嬉しそうに笑った。
「そう?」
「うん。何ができるか、すぐわかる」
森川も頷いた。
「俺も、これ見たら説明しやすいです」
父は厚紙を見て、静かに言った。
「美智子の仕事も、クロセ治具に入るな」
母が顔を上げる。
「え?」
「手順札も、納品チェック表も、この説明の紙も。全部、治具の一部や」
母は少し言葉に詰まった。
そして、すぐに視線を逸らした。
「そんな大げさな」
「大げさやない」
父は言った。
「物だけなら、ただの台座や。紙があって、使う人に届く。そういう仕事にしたんやから」
工場の中が少し静かになった。
直人は母の横顔を見た。
母の仕事が、また1つ見える形になった。
前の人生では見えにくかったもの。
電話。
帳面。
請求。
納品チェック。
手順書。
それらが今、クロセ治具の一部として認められようとしている。
これも、未来を変える大事な一手だった。
夕方、田端がやって来た。
軽トラックから降りた田端は、作業台の見本1号を見るなり、口笛を吹いた。
「おお、形になってきたな」
「まだ外へは見せませんよ」
母が先に言った。
田端は両手を上げた。
「わかってます。今日は見るだけ。口も固い」
森川が小さく言う。
「ほんまですか」
「お前、最近わしに厳しいな」
田端は笑いながら、台座を覗き込んだ。
「でも、これはええ。見本だけでも、雰囲気あるわ」
父が厚紙を渡す。
「説明の紙も作りました」
田端はそれを読み、目を細めた。
「これ、奥さんが?」
「はい」
「うまいなあ。わしが客に説明する時、このまま読める」
「まだ読んだらあかんで」
母が釘を刺す。
「わかってますって」
田端は苦笑した。
だが、その顔は真剣だった。
「黒瀬さん、これ、町工場だけやなくて、小さいメーカーの現場にも刺さるで。若いのが作業して、ベテランが確認して、でも手順が残らん。そういうとこ、山ほどある」
父は台座を見る。
「まずはA型だけです」
「それでええ。1つ強い型があれば、話はできる」
田端は厚紙を作業台に戻した。
「ただ、値段やな」
母がすぐ頷く。
「そこです」
「安くしたら売れる。でも黒瀬さんが死ぬ。高くしすぎたら見向きもされん」
田端は腕を組んだ。
「見本ができたら、まずは田端さんに原価の感覚を聞く」
父が言った。
「材料、加工時間、外注、紙、予備部品、全部入れて仮価格を出します。その上で、売れそうな価格か見てもらう」
「ええ」
田端は頷いた。
「わしは町の財布感覚を見る。黒瀬さんは作る手間を見る。奥さんは金の残りを見る。それで決めたらええ」
直人はその言葉を聞きながら、胸の奥で静かに頷いた。
そうだ。
未来知識だけでは足りない。
父の腕。
母の数字。
田端の町の感覚。
森川の現場の手。
それらを合わせるから、黒瀬精機は前へ進める。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
名前はクロセ治具に決定。
ただし、社内呼び名。外へ出す名前は伊原先生に確認。
標準台座A型に絞る。
見本1号、荒削り開始。
母、説明の紙を作った。
父、母の紙も治具の一部と言った。
田端さん、町工場だけでなく小さいメーカーにも刺さると言った。
価格は材料、時間、紙、予備部品まで入れて考える。
そして、大きく書いた。
名前は旗になる。
形は武器になる。
紙は信用を運ぶ。
ただし、旗を外へ出す前に、守り方を決める。
直人は鉛筆を置いた。
階下の工場には、見本1号が置かれている。
まだ完成していない。
まだ売れてもいない。
まだ権利も取れていない。
けれど、そこには確かに、前の人生にはなかった未来の形があった。
1985年の東大阪。
小さな町工場が、自分の名前を掲げる準備を始めた。
クロセ治具。
その名前はまだ、工場の中でしか響いていない。
外へ出す名前は、これから考えなければならない。
それでも直人には、その仮の名が、未来へ向けて立てた最初の旗のように見えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます