第21話 クロセ治具という旗
1985年の秋、黒瀬精機の作業台には、形の違う治具が三つ並んでいた。
辰巳のところへ納めたものと同じ考え方で作った位置決め治具。
大和計測向けに、測定箇所を迷わないよう工夫したもの。
そして、まだ納品前の小さな試作品。
用途も、載せる部品も違う。
だが、黒瀬直人には共通して見えるものがあった。
「オトン」
「なんや」
「これ、毎回最初から作ってるやろ」
隆夫が顔を上げた。
「当たり前や。載せる品物ちゃうねんから」
「全部?」
「全部いうたら……」
隆夫は言葉を止め、三つの治具を見比べた。
森川修一も旋盤の手を止めて近づいてくる。
「何の話です?」
「直人が、毎回最初から作ってるんか言うてんねん」
「そら作るでしょう。品物違いますもん」
森川は当然という顔をした。
直人も、それが間違っているとは思わなかった。
専用治具は、載せる部品に合わせて作る。
穴位置が違えば押さえる位置も違うし、測定したい場所が変われば逃がし方も変わる。何でも一つの形へ押し込めれば、使いにくいだけの治具になる。
それでも、毎回全部が違うわけではない。
「下の台まで全部変えなあかん?」
「下?」
「部品に当たるとこは変わるやろ。でも、机に置く方とか、固定する方とか」
隆夫の目が作業台へ戻った。
三つの治具を横へ寄せる。
一つずつ持ち上げ、裏を見る。
森川も覗き込んだ。
「あ……」
「何や」
「似てますね」
「何が」
「この辺です。台の厚みもそんな変わらんし、止め方も」
隆夫は返事をしなかった。
一本の定規を取り、台座を測る。
次の治具も測る。
三つ目も見る。
「同じにはできんぞ」
しばらくして隆夫が言った。
「分かってる」
「載せる物の大きさ違うし、力掛かる向きも違う」
「うん」
「何でも共通にしたら、逆に使いにくなる」
「そこも分かってる」
「十歳のくせに分かってる言うな」
「でも、オトンも今考えてるやん」
「うるさい」
森川が吹き出した。
隆夫が睨む。
「何笑ってんねん」
「いや、社長もう乗ってるな思って」
「乗ってへん」
「定規持ってるやないですか」
「黙って仕事せえ」
「はいはい」
「はいは一回や」
森川は笑いながら旋盤へ戻った。
隆夫は戻らなかった。
三つの治具を作業台へ並べ直し、紙を一枚引き寄せる。
直人はその横から手元を見た。
「ここを共通にするなら……」
隆夫が独り言のように呟く。
紙へ四角を描く。
「上だけ替える?」
直人が聞いた。
「簡単に言うな。上を替えるいうても、位置ずれたら治具にならん」
「同じ場所に付くようにしたら?」
「それをどうするか考えてんねん」
隆夫は鉛筆の尻で直人の額を軽く押した。
「答え先に言うな」
「まだ答え言うてへんやん」
「お前が言うと、考え急かされる」
「難儀やなあ」
「誰のせいや」
美智子が帳面を持って工場へ入ってきた。
「何してんの?」
「また直人が余計なこと言い出した」
「また?」
「毎回治具を一から作らんでもええんちゃうか、やて」
美智子は並んだ三つを見た。
「できるん?」
「まだ分からん」
「できたら何が変わるん?」
隆夫が黙る。
直人は母を見た。
美智子が聞いているのは技術ではない。
金の話だった。
「毎回、下の台まで作る時間減るんちゃう?」
「直人に聞いてへん」
「ええやん別に」
「作るんはオトンやろ」
隆夫が少し考えて答えた。
「もし使い回せる台ができたら、次の治具で作るもんは減る」
「材料も?」
「減るかもしれん」
「時間も?」
「そこもや」
「ほな、値段下げられる?」
直人は反射的に母を見た。
隆夫も同時に顔を上げる。
美智子が眉をひそめた。
「何よ」
「いや」
「何で二人してそんな顔すんの」
隆夫が苦笑した。
「普通はそう考えるやろな思って」
「ちゃうの?」
「安うするためだけにやるんやったら、また同じや」
隆夫は三つの治具を見た。
「早う作れるようになった分、急ぎに対応できるかもしれん。作り直しも減らせるかもしれん。台を残して上だけ替えられるなら、次に似た仕事来た時にも使える」
美智子は帳面を開いた。
「それやったら、何回使えるかも見んとあかんね」
「何で?」
「最初だけ余計に手間掛かるんやろ?」
「ああ」
「一回しか使わんかったら、高い台作っただけで終わるやん」
隆夫が止まった。
「……そうやな」
「そこ考えてへんかったん?」
「今から考えるとこや」
「なら考え」
美智子は帳面へ戻った。
直人は笑いをこらえた。
父が腕を見る。
母が金を見る。
どちらか片方だけでは、工場は変わらない。
それから数日、隆夫は仕事の合間に共通台座の形を考えた。
いきなり客へ出すものではない。
まず黒瀬精機の中で試す。
古い材料を使って台座を一つ作り、その上に交換できる部品を取り付ける。
森川が実際に使った。
「社長、これ外しにくいです」
「どこが」
「ここ。切粉入ったら噛みます」
「ほんまか」
「ほら」
「無理に引っ張るな。傷つくやろ」
「外れへんからですやん」
「貸せ」
隆夫が触る。
外れない。
直人は少し離れたところで見ていた。
森川が口元を緩める。
「社長も外れへんやないですか」
「分かってる」
「さっき無理に引っ張るな言うてましたよ」
「うるさい」
隆夫は一度外すのを諦め、固定部を見直した。
「ここ逃がした方がええな」
「切粉落ちるように?」
「ああ。あと、締める場所ももうちょい外から触れた方がええ」
直人は口を挟まなかった。
こういうところは、未来知識だけでは分からない。
実際に手を入れ、削り、切粉を出して初めて分かる。
翌日には形が少し変わった。
森川がまた使う。
今度は外れた。
「これならええです」
「ほんまに?」
「昨日よりは」
「昨日よりは、やなくて」
「まだ一回しか使ってませんやん」
隆夫が鼻を鳴らした。
「生意気なってきたな」
「社長が考えて言え言うからでしょう」
「そこは正しい」
隆夫は紙へ何かを書き込んだ。
直人は横から覗く。
作った日。
変更した場所。
使った部品。
森川が気づいたこと。
紙の上に、加工した物だけではなく、使った結果まで残っていく。
それは前の人生の黒瀬精機には、ほとんどなかったものだった。
一週間後。
田端が材料を届けに来た時、作業台の端に置かれた台座へ気づいた。
「なんやこれ」
手を伸ばしかけ、隆夫が先に言う。
「まだ触らんといてください」
「また秘密兵器か?」
「秘密いうほどでもないです」
「ほな見せて」
「まだ外には出せません」
田端が目を丸くした。
「黒瀬さんがそんなこと言うようなったんか」
「何ですかそれ」
「前やったら、できかけでも『こんなん考えてます』いうて見せてたやろ」
隆夫が少し気まずそうな顔をする。
直人は黙っていた。
見せる前に、何を見せてよくて、何を見せないかを決める。
最近の黒瀬精機では、それを意識するようになっていた。
「まだ試してる途中です」
隆夫が言う。
「使える形になったら、その時は見てもらいます」
「何に使うやつ?」
「それもまだ」
「固なったなあ」
「田端さんが喋るからですよ」
「俺のせいかい」
「町中知ってるやないですか」
「情報が早い言うてくれ」
田端は笑いながら材料を置いた。
「まあええわ。できたら教えて。こういうもん探してる工場、俺の客にもあるかもしれんし」
隆夫が顔を上げた。
「探してる?」
「治具作れるとこないか、いう話は時々聞くで。自分とこで作るほど機械ない会社もあるし、製品は作れても治具まで手ぇ回らんとこもある」
「どんな治具です?」
「知らん。案件ごとにちゃうやろ」
「そらそうか」
「ただな」
田端は少し真面目な顔になった。
「『治具作れます』だけやったら、どこ紹介したらええか分からんねん」
隆夫が聞き返した。
「どういう意味です?」
「黒瀬さんが何得意なんか、一言で言われへんやろ」
「旋盤もフライスもやりますけど」
「そういう話ちゃうねん」
田端は作業台を指した。
「辰巳さんとこで使いやすい治具作った。大和さんでも測り方込みで話した。そっちの方が分かりやすいやろ」
隆夫が黙る。
「誰でも同じように使えるように考える治具とか、間違えにくい治具とか。そういう言い方やったら、俺も『こんなん困ってるとこあるで』って思い出せる」
直人の胸の中で、何かがつながった。
前の人生で、営業が苦手な町工場は多かった。
何ができるかと聞かれれば、
旋盤があります。
フライスがあります。
鉄もアルミも削れます。
精度出せます。
そう答える。
嘘ではない。
だが、発注する側からすれば似た答えをする工場はいくらでもある。
黒瀬精機が何を解決できるのか。
それを相手の頭に残る形にしなければ、仕事にはつながらない。
「オトン」
「なんや」
「名前つけたら?」
隆夫が嫌そうな顔をした。
「またお前か」
「田端さんが一言で言われへんって」
「名前付けたら言えるんか?」
「少なくとも、『黒瀬さんとこのあれ』よりは」
田端が笑う。
「それはそうや」
美智子も帳面から顔を上げた。
「名前ないと、こっちも何の仕事か書きにくいよ」
「お前まで」
「今、帳面には何て書いてると思う?」
隆夫が答えられない。
「治具試作、治具改造、治具確認。似たようなんばっかりや」
「……そうなんか」
「自分の仕事やのに知らんの?」
「作る方で手いっぱいや」
「ほな余計、名前あった方がええんちゃう」
隆夫は腕を組んだ。
田端が面白そうに見ている。
「黒瀬式治具」
「嫌や」
隆夫が即答した。
「なんで?」
「恥ずかしい」
「黒瀬式」
森川まで口にする。
「やめろ」
「黒瀬スペシャル」
「もっとやめろ」
「黒瀬一号」
「それやったら機械みたいやろ」
直人は笑いながら、作業台に置かれた紙へ鉛筆で書いた。
《クロセ治具》
隆夫が覗き込む。
「そのままやないか」
「今はそれでええやん」
「名前いうほど名前ちゃうぞ」
「正式な商品名にするって決めてへんし」
直人はそう言って鉛筆を置いた。
今ここで商標だのブランドだのまで決める必要はない。
むしろ、まだ形も固まりきっていない。
ただ、工場の中で同じものを同じ名前で呼べるだけでも違う。
田端が紙を見た。
「クロセ治具か」
「仮ですよ」
隆夫が念を押す。
「まだ外で勝手に言わんといてください」
「分かってるわ」
「田端さんの『分かってる』一番信用ならん」
「ひどいなあ」
森川が作業台へ近づいた。
「でも、ええんちゃいます?」
「何が」
「名前ついたら、昨日のやつとか言わんで済むし」
美智子も頷く。
「帳面もそれで分けられる」
隆夫だけが、まだ納得しきれない顔をしていた。
直人は紙に書かれた文字を見た。
クロセ治具。
五文字のカタカナと漢字。
派手ではない。
格好よくもない。
それでも、黒瀬精機が作ったものを、黒瀬精機自身の名前で呼ぶ。
それまでの黒瀬は、客から図面をもらい、作り、納める工場だった。
完成した物には客の部品番号が付き、客の設備の一部になる。
黒瀬の名前は、納品書から先には残らない。
治具も同じだった。
どれだけ工夫しても、納めれば「辰巳の治具」「大和の治具」になる。
だが、自分たちが繰り返し使う考え方に名前を付ければ、少なくとも工場の中では黒瀬の仕事として残せる。
「オトン」
「まだ何かあるんか」
「これ、番号も付けへん?」
「番号?」
「同じ名前で増えたら分からんようになるやろ」
美智子がすぐ反応した。
「それは要る」
隆夫がため息をつく。
「お前ら二人、こういう時だけ早いな」
「社長、俺も番号あった方がええです」
森川まで加わった。
「何でや」
「『あの治具どこですか』って聞かんで済みます」
「お前、よく探してるもんな」
「社長もですやん」
「……番号付けよか」
隆夫が折れた。
ただし、いきなり大げさな台帳を作ることはしなかった。
今ある試作品へ仮番号を振る。
どの客向けか。
何を載せるか。
どこを交換できるようにしたか。
作った日と変更した日。
その程度から始める。
美智子が一枚の紙へ欄を書いた。
《名称 クロセ治具》
《番号》
《用途》
《使用先》
《変更》
隆夫が見て言う。
「使用先まで書くんか」
「書かんかったら、どこの仕事か分からんやろ」
「外に見せる紙と一緒にすんなよ」
「せえへんよ。これはうちの控え」
「ならええ」
田端がそのやり取りを見ながら笑った。
「黒瀬さんとこ、前より会社みたいになってきたな」
「前から会社です」
「知ってる知ってる」
「絶対思ってへんやろ」
「町工場いうんはな、仕事増えたら紙も増えるんや」
「増やしたいわけやないです」
「でも、探す時間減るならええ紙やろ」
田端はそう言って帰っていった。
午後、隆夫は試作台座をもう一度機械へ持っていった。
名前が付いたから完成したわけではない。
使いにくいところは直さなければならない。
森川が実際に取り付け、外し、また取り付ける。
三回目で、固定部に小さな不満が出た。
「社長、ここ指入りにくいです」
「またか」
「使うん俺ですから」
「分かった。そこ削る」
直人はそれを聞いて笑った。
名前ができても、現場の不満は消えない。
むしろ、それでいい。
完成したふりをして売り出すより、使う人間が文句を言えるうちに直した方がいい。
夕方。
森川が帰った後、隆夫は試作品を棚へ戻した。
その棚に、美智子が紙を貼る。
《クロセ治具 試作》
隆夫が見る。
「でかない?」
「見えへんかったら意味ないやろ」
「客来たら?」
「その時は外す」
「仮の名前やぞ」
「分かってる」
直人は少し離れたところから、その紙を見た。
商品名ではない。
商標でもない。
世間へ売り出せる完成品でもない。
まだ黒瀬精機の中だけで使っている、仮の呼び名にすぎない。
それでも、昨日まで「辰巳の治具」「大和の治具」と客の名前で呼んでいたものに、初めて黒瀬側の名前が付いた。
次の日。
隆夫は作業台で見積書を書いていた。
大和計測から、別の部品でも同じように作業者の間違いを減らせないか、相談が来ていた。
図面を見た隆夫は、すぐに受けるとは言わなかった。
今ある試作台座が使えるか確認し、使えなければ専用品として考える。
「森川」
「はい」
「昨日のクロセ治具、持ってきて」
森川が振り返った。
それから少し笑う。
「通じましたね」
「何が」
「昨日の、で言わんでも通じた」
「それだけか」
「それだけでも便利ですやん」
森川は棚へ向かった。
直人は黙ってその背中を見送った。
名前を付けただけで仕事が増えるわけではない。
値段が上がるわけでもない。
競争相手が消えるわけでもない。
けれど、自分たちが何を作っているのかを自分たちの言葉で呼べなければ、外へ説明することもできない。
黒瀬精機はまだ、小さな町工場だった。
看板も同じ。
機械も同じ。
働いている人間も同じだった。
ただ、棚の一角に一枚だけ、新しい紙が増えていた。
《クロセ治具 試作》
隆夫はその紙の下から治具を取り出し、森川と一緒に次の部品へ使えるか確認を始めた。
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