第20話 名前を守る日
佐伯から紹介の電話が入ったのは、2日後の昼だった。
その時間、黒瀬直人は学校にいた。
算数の授業で、先生が分数の計算を黒板に書いている。
教室の窓からは、校庭で体育をしている別の学年の声が聞こえていた。
けれど、直人の頭は黒板の上にはなかった。
クロセ治具。
標準台座A型。
公開前確認。
特許。
実用新案。
商標。
弁理士。
その言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。
前の人生で、直人は何度も後悔した。
もっと早く知っていれば。
もっと早く契約していれば。
もっと早く図面を守っていれば。
もっと早く名前を押さえていれば。
町工場は、腕で生きている。
だが、腕だけでは守れない時代が来る。
直人はそれを知っていた。
そして、その時代はもう、新聞の中から少しずつ顔を出し始めている。
円高。
値下げ。
海外。
下請け再編。
まだ1985年の教室にいる子供たちは、そんな言葉に何の実感もない。
だが直人には、それが鉄の匂いをした未来として見えていた。
「黒瀬くん」
先生の声が飛んだ。
「はい」
「次、答えて」
直人は慌てて立ち上がった。
黒板を見る。
分数の足し算。
51歳の頭には簡単すぎる。
だが、気を抜いて間違えると、それはそれで目立つ。
「5分の3です」
「はい、正解」
座った直人は、小さく息を吐いた。
今は子供でいる。
工場を変えるためにも、学校で変に目立ちすぎてはいけない。
そう自分に言い聞かせながらも、放課後の鐘が鳴るのを待つ時間は、いつもより長く感じた。
家へ戻ると、黒瀬精機の前に見慣れないセダンが停まっていた。
白でも黒でもない、少し地味な灰色の車。
大和計測のライトバンではない。
田端の軽トラックでもない。
直人は胸が跳ねるのを感じた。
来ている。
弁理士だ。
工場のシャッターは開いていた。
機械音はしていない。
作業台の周りに、父の隆夫、母の美智子、森川修一、佐伯、そして見知らぬ男が立っている。
男は50歳前後に見えた。
紺の背広に、少しくたびれた革鞄。
職人ではない。
だが、図面を見る目は妙に鋭かった。
「ただいま」
直人が声をかけると、母が振り返った。
「おかえり。学校終わったんやね」
父もこちらを見た。
「直人、奥で宿題しとけ」
「うん」
直人は素直に頷いた。
前へ出てはいけない。
今日は大人の話だ。
けれど、耳だけは開いておく。
工場の奥の椅子に座り、ランドセルからノートを出すふりをしながら、直人は作業台の声を聞いた。
佐伯が紹介していた。
「こちらが、伊原先生です。うちが以前から相談している先生とは別ですが、町工場の相談も見ておられる弁理士の方です」
父が深く頭を下げた。
「黒瀬です。今日はわざわざありがとうございます」
「伊原です。佐伯さんから話を聞きました。まず、実物はまだ外へ見せていないんですね?」
「はい。図面だけです。田端さんにも、まだ持ち出さないように言っています」
伊原は頷いた。
「それは良かった。出願を考えるなら、見せる前に相談したのは正解です」
森川が少し緊張した声で聞いた。
「あの、先生」
「はい」
「弁理士さんって、弁護士さんとは違うんですか?」
伊原は少し笑った。
「よく聞かれます。弁護士は法律全般の専門家です。裁判や契約、トラブル対応など幅広く扱います。弁理士は、特許、実用新案、意匠、商標といった、技術や名前や形を守る手続きの専門家です」
「発明を守る先生、みたいな感じですか」
「だいたいそう思ってもらって構いません」
森川は感心したように頷いた。
「そんな先生がおるんですね」
「います。あまり表には出ませんが、ものづくりの裏側では結構大事です」
直人は、ノートに目を落としたまま静かに息を吐いた。
いい。
森川にも、父にもわかる説明だ。
伊原は作業台に広げられた図面を見た。
クロセ治具 標準台座A型。
父の線は、2日前より整理されていた。
四角い台座。
交換式の当たり。
ブッシュ交換部。
押さえレバーの取り付け位置。
手順札の差し込み溝。
予備部品の管理。
横には、父が書いた公開前確認の紙もある。
伊原はしばらく黙って図面を見ていた。
工場の中が静かになる。
やがて、伊原は言った。
「まず、厳しいことを言います」
父の顔が引き締まった。
「はい」
「これを丸ごと特許で広く守れるかというと、簡単ではありません。台座、押さえ、交換式の当たり、それぞれは既に世の中に似た考えがある可能性が高い」
森川の顔が少し曇った。
父は黙って聞いている。
直人は心の中で頷いた。
当然だ。
未来の直人から見ても、この全部が完全な新発明というわけではない。
だが、大事なのはそこではない。
伊原は続けた。
「ただし、だから駄目という話ではありません。どこに新しい工夫があるかを絞る必要があります」
「絞る」
父が繰り返した。
「はい。たとえば、この標準台座に、交換式の当たり、ブッシュ交換、手順札の保持部を組み合わせ、小物検査治具として現場で使いやすくした構造。そこに考案としての特徴があるかもしれません」
「考案、ですか」
「実用新案の方で検討する余地があります。特許は発明、実用新案は物品の形状や構造の工夫、という理解でまずはいいでしょう。もちろん、最終的には調査が必要です」
母が聞いた。
「調査というのは、同じようなものが既にないか調べるということですか?」
「その通りです」
伊原は母を見て頷いた。
「既に似たものがあれば、出願しても意味が薄い。逆に、全く同じではなくても、どこが違うのかを明確にできれば、守れる範囲を考えられます」
父は図面を見つめた。
「守れるところだけ守る、ということですね」
「そうです。全部を自分のものにしようとすると難しい。けれど、黒瀬さんの工夫の中心を決めて、そこを守ることは考えられる」
森川が直人の方をちらっと見た。
直人は気づかないふりをした。
守る中心を決める。
それは、昨日直人が言った言葉だった。
父はそれをちゃんと専門家にぶつけている。
それでいい。
伊原は次に、図面の上の「クロセ治具」という文字を指した。
「それと、この名前です」
「名前ですか」
「はい。特許や実用新案は構造を守るものです。ですが、クロセ治具という名前を育てていくなら、商標も考えるべきです」
森川がまた首を傾げた。
「商標って、名前を守るんですか?」
「そうです。商品やサービスの名前、印です。たとえば、お客さんが『クロセ治具』と聞いて黒瀬精機のものだとわかるようになれば、その名前自体に信用がつきます」
父は目を細めた。
「信用が名前につく……」
「はい」
伊原は静かに言った。
「町工場の仕事は、図面や現物だけでなく、信用で選ばれます。その信用を名前に乗せるなら、名前も守る価値があります」
母が小さく頷いた。
「それは、わかる気がします」
父も黙っていた。
直人は、その言葉に胸が熱くなった。
信用が名前につく。
前の人生の黒瀬精機には、それが足りなかった。
腕はあった。
誠実だった。
だが、名前として積み上げきれなかった。
いつも相手の会社名の裏に隠れていた。
どこかの下請け。
便利な加工屋。
無理を聞いてくれる工場。
それでは駄目なのだ。
クロセ治具。
黒瀬精機の名前で選ばれる仕事を作る。
それこそが、攻めだった。
「先生」
父が言った。
「ただ、うちは小さい工場です。出願も商標も、全部やる金はありません」
「でしょうね」
伊原はあっさり頷いた。
その言い方に、森川が少しむっとした顔をしたが、伊原の表情に馬鹿にした色はなかった。
「だから順番を決めます」
「順番?」
「まず、公開しない。次に、図面と日付と作成経緯を残す。そして、簡単な先行技術の調査をする。その結果を見て、実用新案で出すか、特許で検討するか、あるいは出願せずに秘密として管理するかを決める」
「出願しない場合もあるんですか」
母が聞いた。
「あります」
伊原は即答した。
「出願すれば、いずれ内容は外へ出ます。守れる範囲が狭いなら、あえて出さずに、図面管理や秘密保持で守る方がいい場合もあります」
父は驚いた顔をした。
「出せばいい、というものではないんですね」
「そうです。出願は魔法ではありません。費用もかかる。時間もかかる。権利になっても、守るにはまた手間がかかる」
工場の空気が少し重くなった。
だが、それは悪い重さではなかった。
夢から現実へ足をつける重さだ。
伊原は続けた。
「ただし、見せてから慌てるより、今の段階で止まったのは非常にいい。町工場では、ここで失敗することが多いです」
父は深く息を吐いた。
「危なかったんですね」
「はい。田端さんが悪いわけではありません。むしろ紹介したいというのはありがたい話です。ですが、広がった後では戻せません」
その時、工場の入口から声がした。
「呼んだか?」
田端だった。
軽トラックの音がしていたのに、誰も気づかなかったらしい。
田端は缶コーヒーを片手に、少し気まずそうに笑っている。
「いや、田端さんの悪口やないです」
森川が言った。
「お前が言うと悪口に聞こえるわ」
田端はそう言いながら入ってきた。
父が説明する。
「先生から、見せる前に止まってよかったと言われました」
「ほらな。わしが喋りすぎたら危なかったんやろ」
田端は自分で言って、苦笑した。
伊原が田端を見る。
「田端さんのように町を回る方は、情報を運ぶ力があります。それは強みです。ただ、新しいものは、運ぶ前に守る必要があります」
「肝に銘じますわ」
田端は真面目に頭を下げた。
「わしも、黒瀬さんの仕事で儲けたいけど、盗まれて終わりでは困る」
その率直さに、工場の空気が少し緩んだ。
伊原は鞄から白い紙を出した。
「今日の段階で、私から提案する進め方を書きます」
父と母、森川、田端が覗き込む。
直人も、遠くから目だけで追った。
1 クロセ治具標準台座A型の図面を整理
2 作成日、作成者、改良履歴を記録
3 見せた相手を記録
4 外部に見せる時は、秘密として扱う約束を書面にする
5 先行技術を簡易調査
6 実用新案または特許の可能性を判断
7 クロセ治具の商標を検討
8 出願前に販売・公開しない
母がすぐに言った。
「これ、うちの紙にも写して残します」
「ぜひ」
伊原は頷いた。
「記録は大事です。後になって、いつ誰が何を考えたかが曖昧になると困ります」
父は壁の「黒瀬精機の決まり」を見た。
そして、鉛筆を取った。
「追加する」
母が少し笑った。
「また増えるん?」
「増える」
父は壁の紙を外し、7番の下に新しい1行を書いた。
8 見せる前に守る
森川がそれを見て、ぽつりと言った。
「決まり、どんどん増えますね」
父は言った。
「工場が強くなるなら増えてええ」
伊原はその紙を見て、少し笑った。
「いい決まりです」
それだけで、父は少し誇らしそうな顔をした。
相談の終わりに、伊原は父へ言った。
「黒瀬さん。この標準台座は、単なる道具としてだけでなく、仕事の進め方まで含めて価値があります。ただ、仕事の進め方そのものは権利で守りにくい。だから、構造、名前、図面、記録、秘密管理を組み合わせて守るべきです」
父は真剣に頷いた。
「わかりました」
「そしてもう1つ」
「はい」
「出願するなら、早い方がいい。ただし、焦って雑に出すのはよくない。守りたい中心を決めて、図面を整えてください」
父は作業台の図面を見た。
「中心は、交換式の当たりと、手順札まで含めた標準台座です」
伊原は頷いた。
「そこをもう少し詰めましょう」
その瞬間、直人は見た。
父の目が変わるのを。
ただの職人の目ではない。
社長の目。
自分たちの技術を、守り、育て、広げる人間の目だった。
伊原が帰った後、工場にはしばらく誰も話さない時間があった。
やがて、森川が口を開いた。
「社長」
「なんや」
「なんか、すごいことになってきましたね」
「そうやな」
「俺、まだノギスも怪しいのに、特許とか商標とか……」
「ノギスは練習せえ」
「はい」
森川は反射的に返事をした。
田端が笑う。
「でもな、森川。こういうのは大事やで。腕のええ職人が、腕だけで食えん時代が来るかもしれん」
父が田端を見る。
田端は軽く肩をすくめた。
「円高やろ。大手はこれからいろいろ締めてくる。町工場も、ただ安く受けるだけではしんどい。黒瀬さんとこが名前で仕事取れるようになったら、わしも町を回りやすい」
母がすかさず言った。
「回る前に、守ってからやで」
「わかってます、奥さん」
田端は両手を上げた。
工場に笑いが起きた。
直人はその笑いを聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
これは、前の人生にはなかった光景だ。
町工場が、ただ仕事を待つのではなく、自分たちの名前を守ろうとしている。
権利を考えている。
未来の波に飲まれる前に、足場を作ろうとしている。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
伊原弁理士来社
弁理士は特許・実用新案・意匠・商標の専門家
クロセ治具は丸ごと広く守るのは難しい
守る中心を絞る
実用新案または特許の可能性
クロセ治具の商標を検討
出願しないで秘密管理する選択肢もある
公開前の管理手順を作った
黒瀬精機の決まりに8番追加
8 見せる前に守る
そして、大きく書いた。
名前に信用を乗せる。
技術に線を引く。
守れない知恵は、未来で他人のものになる。
直人は鉛筆を置いた。
階下の工場では、父が図面を整理している。
機械は回していない。
夜なべの作業ではない。
ただ、明日から何を作るか、その中心を決めている。
森川はもう帰った。
母は帳面に、今日の相談料を書いている。
田端は、たぶんどこかの飲み屋で「今日は喋ったらあかん話を聞いた」と黙っているだろう。
直人は窓の外を見た。
1985年の東大阪。
まだ、町工場の灯りは多い。
だが、未来ではその灯りのいくつもが消える。
その未来を変えるには、腕だけでは足りない。
名前がいる。
権利がいる。
記録がいる。
そして、見せる前に守る勇気がいる。
黒瀬精機は今日、クロセ治具を作る前に、クロセという名前を守る意味を知った。
それは、町工場がただの下請けから抜け出すための、大きな1歩だった。
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