第19話 見せる前に守れ
翌朝、黒瀬精機の工場は、いつも通り朝飯のあとに開いた。
父の隆夫は、ちゃぶ台で新聞を読みながらも、目はほとんど活字を追っていなかった。
頭の中にあるのは、昨日からずっと同じものだ。
クロセ治具 標準台座A型。
小物部品用の検査治具を、毎回1から作るのではなく、台座や押さえや手順札の部分を共通化する。
部品ごとに当たりを替える。
樹脂当たりを交換式にする。
ブッシュも替えられるようにする。
手順札を立てる場所を作る。
うまくいけば、黒瀬精機はただの下請け加工屋ではなくなる。
困りごとを早く、安定して、しかも記録と手順つきで解決する工場になれる。
黒瀬直人は、味噌汁をすすりながら父の横顔を見ていた。
父の目に熱がある。
それは嬉しい。
だが、同時に怖かった。
いいものを思いついた。
早く形にしたい。
早く見せたい。
早く広げたい。
その気持ちはわかる。
けれど、未来を知る直人は、もう1つの怖さも知っていた。
真似される。
盗まれる。
こちらが小さな工場で、相手が大きな会社なら、なおさらだ。
前の人生でも、似たようなことは何度もあった。
図面を渡した。
相談に乗った。
試作を作った。
気づけば、別の安い工場で量産されていた。
「参考にしただけです」と言われれば、それ以上追えない。
町工場の知恵は、紙にしなければ、権利にしなければ、ただの親切として消えてしまうことがある。
「お父ちゃん」
直人は箸を置いた。
「なんや」
「クロセ治具の見本って、田端さんが町に見せて回るんやろ?」
「そのつもりや」
「見せた人が、真似したらどうするん?」
父の手が止まった。
母の美智子も、卵焼きを皿に移す手を止めた。
「真似?」
「うん」
直人は、できるだけ子供の疑問に聞こえるように言葉を選んだ。
「ええもんやったら、同じようなん作る人おるんちゃう?」
父はしばらく黙っていた。
その沈黙で、直人にはわかった。
そこまでは考えていなかったのだ。
いや、父が甘いわけではない。
町工場の職人は、まず作ることを考える。
どうやって削るか。
どうやって精度を出すか。
どうやって使いやすくするか。
権利や契約は、その後に来る。
だが、本当は逆でなければならない時がある。
見せる前に守る。
出す前に線を引く。
これをしなければ、攻めの一手が、ただの無料見本になってしまう。
母が静かに言った。
「それ、ありそうやね」
父は眉間に皺を寄せた。
「町の知り合いに見せるぐらいで、そこまでせんでも」
「でも、田端さんが見せた先で、誰かがまた別の人に話すかもしれんやん」
母の声は冷静だった。
「悪気がなくても、広がる時は広がるで」
父は言い返せなかった。
直人は続けた。
「学校でも、工作の工夫を先に見せたら、他の子が同じの作るかもしれんやん」
「また学校か」
父は苦笑した。
だが、その顔にはもう笑いきれない色が混じっていた。
「ほな、どうするんや」
母が聞いた。
直人はすぐには答えなかった。
10歳が、特許や実用新案をすらすら語るのはおかしい。
だから、わざと少し首を傾げた。
「名前つけるだけじゃあかんの?」
「名前?」
「クロセ治具って」
父は考え込んだ。
「名前だけでは守れんやろな」
「ほな、役所かどこかに、うちが考えましたって出すん?」
父の目が動いた。
「特許か」
その言葉が出た瞬間、台所の空気が変わった。
母が言う。
「特許って、あの特許?」
「たぶん、そうや」
父は新聞を畳んだ。
「ただ、これが特許になるのか、実用新案みたいなものなのか、俺にはわからん」
「実用新案?」
森川修一の声が工場側から聞こえた。
どうやら、ちょうど来たところだったらしい。
17歳の森川は、まだ作業着の袖をまくっていない。
ちゃんと朝飯を食べてきたのか、顔色は悪くなかった。
「おはようございます。なんか難しい話してますね」
直人はすぐ聞いた。
「森川さん、朝ごはん食べた?」
「食べた。ほんまに食べた。今日はパンと卵」
「よし」
「だからお前は俺のおかんか」
森川は笑ってから、ちゃぶ台の方へ近づいた。
「で、実用新案って何です?」
父は腕を組んだ。
「俺も詳しくは知らん。特許は発明を守るもんやろ。実用新案は、道具の形とか仕組みの工夫を守るやつやったと思う」
「そういうのって、弁護士さんに相談するんですか?」
「いや……」
父はそこで言葉を止めた。
「弁護士とは、ちょっと違う先生がおったはずや」
「違う先生?」
「弁理士、やったかな」
森川が眉を寄せた。
「べんりし? 弁護士やなくて?」
「俺もよう知らん」
父は正直に言った。
「せやから、わからんまま動いたらあかん」
母がぴしゃりと言った。
「見せる前に、わかる人に聞いた方がええんちゃう?」
その一言で、父の顔が決まった。
「ああ」
父は立ち上がった。
「佐伯さんに聞いてみる。大和計測なら、特許とか図面管理とか、うちより詳しいはずや」
直人は胸の中で頷いた。
いい。
いきなり出願へ走るのではなく、まず信頼できる相手に専門家を紹介してもらう。
10歳の直人が直接「弁理士」と言うより自然だ。
ただ、もう1つ言っておく必要がある。
「お父ちゃん」
「なんや」
「田端さんに見せるの、ちょっと待った方がええんちゃう?」
父は一瞬、動きを止めた。
森川も目を丸くする。
「田端さんに?」
「うん。田端さんはええ人やけど、軽トラでいろんな工場回るんやろ? 話、すぐ広がるやん」
森川が「ああ」と声を漏らした。
「確かに。悪気なく言いそうですね。『黒瀬さんとこ、面白いの作ってるで』って」
父は苦い顔で頷いた。
「言うやろな」
母が言った。
「ほな、田端さんには、まだ見本は持ち出さんって言うとき」
「怒るかな」
「怒らへんやろ。あの人、商売人やし、筋はわかる人やと思うで」
父は頷いた。
「わかった。今日は見本作りの前に、守り方を決める」
その言葉に、直人は静かに息を吐いた。
良かった。
攻める前に、守る。
これができるだけで、未来は大きく変わる。
学校へ行く時間になった。
直人はランドセルを背負ったが、足が重かった。
今日ほど工場に残りたい日はない。
特許。
実用新案。
弁理士。
クロセ治具の権利。
全部が、黒瀬精機の未来に関わる話だ。
だが、直人は10歳だ。
小学4年生が平日に工場の権利相談に顔を出すのはおかしい。
「行ってきます」
「おう。ちゃんと勉強してこい」
父が言った。
直人は少しだけ笑った。
「お父ちゃんも、ちゃんと相談してな」
「わかってる」
母が苦笑する。
「ほんま、どっちが親やら」
直人は家を出た。
通学路を歩きながら、頭の中で考える。
特許は強い。
だが、何でも特許になるわけではない。
実用新案の方が近いかもしれない。
いや、構造そのものよりも、交換式当たり、手順札差し込み、ブッシュ交換、納品書類や現場記録を組み合わせた仕組みに価値がある。
ただし、手順や仕事のやり方そのものは権利にしにくい。
ならば、全部を権利にするのではなく、守るものを分けるべきだ。
構造は出願。
名前は商標。
図面は管理。
見せる相手は絞る。
話す前に日付入りの記録。
外へ出す時は、守秘の約束。
2026年の直人なら、そう考える。
だが1985年の黒瀬精機に、それをそのまま持ち込むのは無理がある。
だから、今は専門家に繋がるだけでいい。
大きな1歩だ。
授業中、直人はノートの端に「まもる」と小さく書いた。
作る。
測る。
記録する。
聞く。
入金日を見る。
そして、守る。
黒瀬精機の決まりに、また新しい柱が必要になるかもしれない。
放課後、直人は早足で家へ戻った。
工場のシャッターは開いている。
機械音はしていない。
作業台を囲んで、父、母、森川、そして田端がいた。
田端は腕を組み、いつもの軽い笑みを消している。
「ただいま」
直人が工場へ入ると、森川が振り返った。
「直坊、帰ってきた」
「どうなったん?」
父は作業台の上の紙を見せた。
そこには、父の字で大きくこう書かれていた。
クロセ治具 公開前確認。
その下に項目が並んでいる。
1 弁理士に相談するまで、見本は外へ持ち出さない
2 図面には日付と作成者を書く
3 見せる相手を記録する
4 構造をどこまで話すか決める
5 特許か実用新案か確認する
6 名前の扱いも確認する
「弁理士って、やっぱり弁護士さんとは違うんですか?」
森川が聞いた。
父は頷いた。
「佐伯さんに電話で聞いた。弁護士は法律全般の先生やけど、弁理士は特許とか実用新案とか商標とか、発明や名前を守る手続きに詳しい先生やそうや」
「へえ……そんな先生がおるんですね」
「俺も初めてちゃんと聞いた」
父は苦笑した。
「佐伯さんが言うには、町工場の工夫ほど、見せる前に相談した方がええらしい。出せるものかどうかも含めて、弁理士に聞くのが筋やって」
母が続ける。
「それまでは、田端さんにも見本を持って回ってもらうのは待ってもらうことにした」
田端が頭をかいた。
「正直、最初は早よ見せた方がええと思ったんやけどな。佐伯さんの話聞いたら、そら守ってからやなと思ったわ」
「怒ってへんの?」
直人が聞くと、田端は笑った。
「怒るかいな。わしが軽トラで喋って回って、黒瀬さんのネタが盗まれたら寝覚め悪いやろ」
森川がぼそっと言った。
「田端さん、喋りそうですもんね」
「おい」
田端が睨む。
工場に笑いが起きた。
だが、父はすぐに真面目な顔に戻った。
「ただ、問題は金や」
「相談料?」
母が聞く。
「ああ。弁理士に相談するにも金がかかる。出願するなら、もっとかかる」
工場の空気が少し重くなった。
直人は黙った。
ここも現実だ。
権利は大事。
だが、ただではない。
小さな町工場にとって、出願費用は軽くない。
しかも、出願したからといってすぐ金になるわけではない。
父が言った。
「見本を作る金。出願の金。相談の金。全部やる余裕はない」
母は帳面を開いた。
「まず相談だけやね」
「ああ」
「その相談で、出す価値があるか聞く。特許なのか実用新案なのか、名前はどう守るのか。そこまで聞いてから決める」
父が頷く。
「そうする」
直人は少し考えた。
ここで、もう1つ未来知識を出したい。
ただし、子供の言葉で。
「お父ちゃん」
「なんや」
「全部を守ろうとしたら高いんやろ?」
「ああ」
「ほな、絶対真似されたら困るところだけ守ったらええんちゃう?」
父の目が動いた。
「どういうことや」
「台の全部じゃなくて、ここだけは黒瀬の考え、みたいなところ」
直人は標準台座の図を指さした。
「たとえば、当たりが替えられるところとか、紙を立てるところとか、部品ごとに変えられるところとか」
森川が頷いた。
「全部は普通の板とネジでも、組み合わせが大事ってことですか」
「そう」
直人は森川の言葉に乗った。
父は図を見つめた。
「守る中心を決める……」
田端が腕を組んだ。
「それ、ええ考えかもしれんな。全部守る言うたら大げさやけど、黒瀬さんとこの売りになるところだけは押さえた方がええ」
母が紙に書き足した。
守る中心を決める。
父はそれを見て、静かに頷いた。
「弁理士に、それを聞く」
直人はほっとした。
直接答えを出す必要はない。
専門家に正しく聞くための問いを作ればいい。
それだけで、黒瀬精機はかなり前へ進む。
その日の夕方、父は標準台座A型の図面に、日付を書いた。
1985年10月。
作成者 黒瀬隆夫。
補助 森川修一。
横から母が言った。
「直人の名前は?」
父の手が止まった。
直人の心臓も止まりそうになった。
「俺はええよ」
直人はすぐに言った。
「なんで」
母が聞く。
「俺、子供やし。思いついたの、お父ちゃんやろ」
嘘ではない。
直人は種を投げた。
だが、形にしたのは父だ。
図面を描いたのも父だ。
森川も意見を出している。
自分の名前をここに入れるのは危ない。
10歳の子供が発明者として出るなど、目立ちすぎる。
父はしばらく直人を見ていた。
何かに気づいているような目だった。
だが、追及はしなかった。
「ほな、直人の言葉は記録に残しとく」
「言葉?」
父は別の紙に書いた。
似てるところを積み木みたいに使えないか。
直人の疑問より。
直人は少し恥ずかしくなった。
「それいる?」
「いる」
父は言った。
「誰の言葉で考え始めたか、忘れんためや」
母が静かに頷いた。
「それは残しといた方がええね」
森川も笑った。
「直坊、発明少年やな」
「ちゃう」
「ちゃうことないやろ」
「ちゃうって」
直人は顔をそらした。
その照れは、半分本物だった。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
クロセ治具を見せる前に守る話
父、特許か実用新案か考える
森川さん、弁理士と弁護士の違いを聞く
佐伯さん、弁理士紹介を検討
田端さん、見本を持ち出すのを待つ
公開前確認の紙を作った
図面に日付と作成者
守る中心を決める
直人の名前は出さず、疑問だけ記録
そして、大きく書いた。
作る前に考える。
見せる前に守る。
広げる前に線を引く。
直人は鉛筆を置いた。
階下の工場では、機械はもう止まっている。
だが、作業台の上には、クロセ治具標準台座A型の図面が置かれている。
それはまだ鉄にもなっていない。
けれど、今日はその図面に日付が入った。
守るための最初の線が引かれた。
1985年の東大阪。
円高の波は町工場へ近づいている。
安い量産の仕事は、これからもっと厳しくなる。
だからこそ、黒瀬精機は自分たちの知恵を、ただの親切で終わらせてはいけない。
未来を変えるには、技術がいる。
技術を残すには、権利がいる。
そして権利を守るには、見せる前に立ち止まる勇気がいる。
直人は目を閉じた。
明日から、標準台座A型は少しずつ形になる。
だが今日、黒瀬精機はそれより先に、大事なことを覚えた。
攻める工場は、守ることも知っていなければならない。
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