第18話 新聞の円高
翌朝、黒瀬直人が台所へ下りると、父の隆夫はちゃぶ台で新聞を広げていた。
工場はまだ動いていない。
味噌汁の匂い。
炊きたての米の湯気。
母の美智子が卵焼きを皿に移す音。
その向こうで、父が新聞の経済面に目を落としている。
最近の黒瀬精機は、朝飯を食べてから工場を開ける。
たったそれだけのことが、直人には奇跡みたいに思える時があった。
「おはよう」
「おう」
父は新聞から目を離さずに答えた。
直人はちゃぶ台に座り、父の手元を覗いた。
見出しには、円高という文字があった。
9月のプラザ合意から、新聞には何度もその言葉が出るようになっていた。
円が高くなる。
ドルが安くなる。
輸出企業に影響。
海外向け製品の採算悪化。
10歳の子供には難しい言葉ばかりだ。
だが、51歳の直人は、その先を知っている。
円高。
バブル。
崩壊。
下請けへの値下げ圧力。
海外生産。
町工場の淘汰。
新聞の小さな見出しが、未来では黒瀬精機の喉元を締める鎖になる。
「お父ちゃん」
「なんや」
「円が高くなるって、外国に売ってる会社は困るん?」
父はようやく新聞から目を上げた。
「急にどうした」
「新聞に書いてるから」
「まあ、そうやな。外国に売る時、日本の品物が高く見える。輸出してる会社はしんどくなる」
「ほな、その会社の下で部品作ってる工場も、安くしろって言われるん?」
父の箸が止まった。
母も味噌汁を置く手を止めた。
「……言われるかもしれんな」
「もっと安く、もっと早くって?」
父は新聞を見た。
その顔が、少しずつ険しくなる。
「そうなるかもしれん」
「島田さんが持ってきた仕事みたいなん、増えるん?」
父は答えなかった。
だが、直人にはわかった。
父の中で、いくつかの線が繋がった。
大手電機。
安い試作。
量産に乗ればという口約束。
仕様変更の条件なし。
円高で苦しくなる輸出企業。
そのしわ寄せを受ける下請け。
黒瀬精機は、その波の一番下に置かれかねない。
母が静かに言った。
「安くしろって言われても、材料代や外注費は急に安くならへんよね」
「ああ」
父は低く答えた。
「人の時間も安くならへん」
直人はそう言った。
父が直人を見る。
直人は慌てて卵焼きを口に運んだ。
言いすぎたかもしれない。
だが、父は怒らなかった。
新聞を畳み、ちゃぶ台の横に置く。
「安い量産にしがみついたら、飲まれるな」
父が呟いた。
直人の胸が鳴った。
言った。
父が自分の口で、そこまで言った。
母が聞く。
「ほな、どうするん?」
「わからん」
父は正直に答えた。
「でも、大手の下の下で、安い量産だけ追うのは危ない。今回の大和計測さんみたいな、困りごとを聞いて作る仕事を増やした方がええ」
直人は頷きそうになって、堪えた。
ここで社長みたいに頷くと、また母に変な目で見られる。
父は続けた。
「ただ、それはそれで手間がかかる。毎回最初から考えてたら、俺も森川も潰れる」
そこだ。
直人は心の中で拳を握った。
守りから攻めに変えるなら、ここが入口だ。
ただの個別対応では、仕事が増えた瞬間に父がまた倒れる。
標準化。
共通化。
同じ困りごとを、同じ土台で解決する仕組み。
10歳の言葉で、そこへ父を連れていかなければならない。
「お父ちゃん」
「なんや」
「今まで作った治具って、全部違うん?」
「そら違うやろ。部品が違うんやから」
「でも、似てるところもあるんちゃう?」
父の目が止まった。
「似てるところ?」
「置くところとか、当てるところとか、押さえるところとか。毎回ぜんぶ最初から作ってるん?」
父は黙った。
母も黙った。
直人は卵焼きを飲み込み、子供らしく首を傾げた。
「同じ積み木を使って、違う形作るみたいにできへんの?」
父の顔が変わった。
職人の顔だった。
目の奥が、図面を見る時の色になる。
「積み木……」
母が茶碗を置いた。
「共通の部品を作っとくってこと?」
「たぶん」
直人は曖昧に答えた。
父はちゃぶ台の端に置いてあった鉛筆を取った。
新聞の余白に、ざっと線を引く。
台座。
交換式の当たり。
ブッシュを入れる穴。
押さえのレバー。
手順札を差す場所。
父の手が止まらない。
「……標準の台を作って、当たりだけ替える。押さえも何種類か用意する。ブッシュも交換できるようにする」
母が覗き込む。
「それ、最初に作るお金かかるんちゃう?」
「かかる」
父は即答した。
「でも、毎回最初から作る時間は減るかもしれん」
「森川くんでも組みやすくなる?」
「なるかもしれん」
父の声に熱が入り始めていた。
直人はそれを見て、胸が高鳴った。
これだ。
こういう動きが必要だった。
毎回の仕事を、ただの受注で終わらせない。
経験を部品にする。
知恵を形にする。
黒瀬精機だけの標準を作る。
「直人」
父が言った。
「お前、学校行く前に変なこと言うな」
「変?」
「頭から離れんようになる」
母が笑った。
「ええやん。今日は朝飯食べてから考えたら」
「そうやな」
父は新聞を畳み直した。
だが、目はもう新聞ではなく、見えない図面を追っていた。
「直人、学校遅れるで」
「うん」
直人はランドセルを背負った。
行きたくない。
今日は本当に行きたくなかった。
父が今、何を描くのか見たい。
森川がその話を聞いて、どんな顔をするのか見たい。
けれど、10歳の自分は学校へ行かなければならない。
「行ってきます」
「おう」
「ちゃんと勉強してき」
母の声に送られて、直人は家を出た。
通学路の途中でも、頭の中では標準治具の形が浮かんでいた。
標準台座A型。
小物部品用。
交換式樹脂当たり。
ブッシュ交換式。
押さえレバーは軽荷重用と標準用。
手順札を立てる溝。
予備部品用の小袋。
納品チェック表。
現場の声記録。
それらを組み合わせれば、毎回1から作らなくていい。
父の負担を減らせる。
森川も覚えやすい。
協力先にも同じ説明ができる。
そして何より、黒瀬精機の仕事が「安い下請け」ではなくなる。
困りごとを解決する、黒瀬精機の型になる。
授業中、直人はノートの端に、小さな四角を描いてしまった。
台座。
当たり。
押さえ。
先生に見つかりそうになり、慌てて消しゴムで消す。
隣の席の女子が小声で聞いた。
「何描いてたん?」
「積み木」
「授業中に?」
「うん」
「変なの」
直人は苦笑した。
たしかに、変だ。
小学4年生が授業中に標準治具の構想を描いているなど、変どころではない。
放課後、直人は走り出したい気持ちを抑えて家に戻った。
工場のシャッターは開いている。
機械音はしていない。
その代わり、作業台を囲む父と森川の声が聞こえた。
「ただいま」
直人が工場に入ると、森川が振り返った。
「直坊、えらいことになってるで」
「何が?」
「社長が朝からずっと、積み木のこと考えてる」
「積み木ちゃう」
父が言った。
作業台の上には、紙が何枚も広がっていた。
新聞の余白から始まった線は、きちんとした図に変わっていた。
四角い台座。
溝。
ネジ穴。
交換式の当たり。
押さえの取り付け位置。
手順札を立てる小さな差し込み。
図の上には、父の字でこう書かれていた。
クロセ治具 標準台座A型
直人は息を呑んだ。
もう名前がついている。
クロセ治具。
標準台座A型。
ただの治具番号ではない。
シリーズの最初の1枚だ。
「お父ちゃん、これ……」
「お前が言うたんやろ。似てるところがあるんちゃうかって」
父は少し照れたように言った。
「午前中、森川と今までの治具を見直した。No.1とNo.2、部品は違うけど、考え方は似てる」
森川が紙を指さした。
「置く場所、当てる場所、押さえる場所、手順札。そこは共通にできるんちゃうかって」
父が続ける。
「全部を標準化するのは無理や。でも、小物部品の検査治具なら、土台だけ共通にできるかもしれん」
「作るん?」
直人が聞くと、父は腕を組んだ。
「作りたい」
その声には、職人の欲があった。
良いものを思いついた時の父の声だ。
だが母が横から現実を差し込む。
「作るお金、どこから出すん?」
父は黙った。
森川も黙った。
直人は母を見た。
さすがだ。
勢いだけで進ませない。
標準台座を作るには、材料も時間もかかる。
売れる保証はない。
黒瀬精機はまだ小さい。
余裕資金があるわけではない。
ここで無茶をすれば、せっかくの改革がまた父の負担になる。
「試作品は1個だけでええんちゃう?」
直人は言った。
「1個?」
父が聞き返す。
「うん。売るための完成品じゃなくて、見せるための見本。佐伯さんとか辰巳さんとか田端さんに見せて、いるか聞く」
母がすぐに反応した。
「先に聞くんやね」
「うん。いっぱい作って売れへんかったら困るし」
父は紙を見つめた。
「見本か」
森川が目を輝かせる。
「それなら作れそうですね。端材も使えるかもしれんし」
母がすかさず言う。
「端材もタダちゃうで」
「はい」
森川はすぐに背筋を伸ばした。
その反応に、工場に笑いが起きる。
父は白い紙を1枚出した。
表題を書く。
クロセ治具 標準台座A型 試作計画
その下に項目が並ぶ。
目的 小物検査治具の共通台座
対象 手のひらサイズの部品
特徴 交換式当たり、ブッシュ交換、手順札差し込み
作る数 見本1台
確認先 大和計測、辰巳製作所、田端経由の協力先
注意 売れる前提で量産しない
直人は最後の1行を見て、少し笑った。
父も笑った。
「ここは美智子に怒られる前に書いといた」
「よろしい」
母は満足そうに頷いた。
その時、工場の前に田端の軽トラックが停まった。
「黒瀬さん、いてる?」
田端が顔を出す。
いつもの缶コーヒーではなく、今日は新聞を丸めて持っていた。
「おう、みんな難しい顔してるな」
「田端さん、ちょうどええところに」
父が手招きした。
「これ、どう思います?」
田端は作業台を覗き込んだ。
「なんやこれ」
「小物部品用の標準治具台座です。毎回1から作らず、当たりや押さえを替えて使える土台にしようかと」
田端はしばらく黙って図を見た。
軽い冗談を言うかと思ったが、そうしなかった。
目が商売人のものに変わっている。
「これ、黒瀬さんとこで使うだけか?」
「まずはそうです。見本を作って、使えそうなら」
「いや、これ欲しがるとこあるで」
工場の空気が変わった。
森川が身を乗り出す。
「ほんまですか」
「ほんまや。どこも同じことで困っとる。ちょっとした位置決め、ちょっとした検査、若いのでも同じようにできる道具。いちいち特注するほどの金はないけど、手作業やと不良が出る。そういう仕事、山ほどある」
父は黙った。
田端は図の手順札差し込みを指さした。
「これもええな。紙を立てとけるんやろ」
「はい」
「交換式の当たりもええ。樹脂を替えられるなら、部品に合わせやすい」
田端は腕を組んだ。
「黒瀬さん、これ、名前ちゃんとつけた方がええで」
「名前?」
「ただの治具やと埋もれる。クロセ治具、ええやん。町工場向けの便利道具として見せられる」
直人は息を止めた。
田端が、ほとんど直人の考えていた方向を言った。
この人はやはり町を見ている。
どこが困っているか。
何が売れそうか。
軽トラックで町を回っているからこそ、感じている。
父は慎重に聞いた。
「でも、売り物にするほどのもんですか」
「最初から商品みたいに考えんでええ。まず見本や。うちの軽トラに積んで、何軒か見せたるわ」
母が口を挟む。
「見せるだけならええけど、値段決めずに話広げたらあかんよ」
田端は笑った。
「奥さん、きっちりしてはるなあ」
「広げるだけ広げて、赤字になったら困りますから」
「そらそうや」
田端は楽しそうに頷いた。
「ほな、見本作る前に、材料代と加工時間を見て、仮の値段出しとき。高すぎたら売れん。安すぎたら黒瀬さんが死ぬ」
その言い方に、父も森川も少し笑った。
だが、直人は笑えなかった。
その通りだからだ。
安すぎたら、父が死ぬ。
前の未来では、本当にそうなった。
父は作業台の紙を見つめた。
「田端さん」
「なんや」
「これ、試す価値ありますか」
「ある」
田端は即答した。
「円高で、これから安い量産は厳しくなる。大手の下で単価下げられるより、町の困りごとを取った方がええ。黒瀬さんとこは、今それができる形を作りかけてるんちゃうか」
父は目を見開いた。
「田端さんも、円高のことを?」
「材料屋なめたらあかんで。新聞も読むし、客の愚痴も聞く。輸出絡みのとこは、もう顔色変わってきてる」
田端は丸めた新聞を作業台に置いた。
「これから、安くしろの声は増えるやろな」
工場の中が静かになった。
朝、直人が父に投げた疑問が、田端の口から現実の匂いを持って返ってきた。
円高は、新聞の中だけの話ではない。
町へ来る。
工場へ来る。
黒瀬精機にも来る。
父は壁の「黒瀬精機の決まり」を見た。
赤字の仕事は仕事と呼ばない。
口約束は紙にする。
仕事は、値段だけでなく入金日を見る。
そして今、もう1つの決まりが必要になっているのかもしれない。
父は鉛筆を取り、試作計画の下に書いた。
安い量産に逃げず、困りごとを形にする。
直人はその1行を見た。
胸の奥が熱くなった。
これは防御ではない。
攻めだ。
黒瀬精機が、ただ未来の波から逃げるのではなく、自分から道を作り始めた瞬間だった。
「森川」
父が言った。
「はい」
「明日から、標準台座A型の見本を作る。急がん。飯食ってから、記録しながらやる」
「はい!」
森川の声が弾んだ。
母が言う。
「試作費用もちゃんと書くで」
「わかってる」
父は苦笑した。
田端は満足そうに笑い、軽トラックへ戻っていった。
「見本できたら呼んでや。町を回る楽しみが増えたわ」
軽トラックが去ったあと、工場には不思議な熱が残った。
いつもの納期に追われる熱ではない。
誰かに急かされる熱でもない。
自分たちで未来の形を作ろうとする熱だった。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
新聞の円高
父、安い量産に飲まれる危険に気づく
直人、治具の共通部分を積み木として話す
父、クロセ治具 標準台座A型を構想
田端さん、町工場向けに需要ありと言った
円高の影響が町にも来始めている
安い量産に逃げず、困りごとを形にする
そして、少し大きく書いた。
未来を知っているだけでは足りない。
知っている危機を、今の形に変えなければ意味がない。
直人は鉛筆を置いた。
階下の工場では、父がまだ図面を眺めている。
だが、機械は回していない。
朝飯も夕飯も食べた。
森川も帰った。
無理をしているわけではない。
それでも、黒瀬精機は前へ進んでいる。
1985年の東大阪。
円高の波は、まだ新聞の文字に見えているだけかもしれない。
だが、直人は知っている。
その波はいずれ町工場の足元まで来る。
だから、今のうちに形を作る。
クロセ治具 標準台座A型。
小さな町工場が未来へ打つ、初めての攻め手だった。
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