第17話 入金日を見る目
大和計測から正式な連絡が入ったのは、翌日の午後だった。
黒瀬直人は、その時もちろん学校にいた。
小学4年生の教室で、黒板に書かれた割り算をノートに写している。
教師の声。
チョークの音。
窓の外で遊ぶ下級生の声。
けれど直人の頭の半分は、ずっと黒瀬精機にあった。
昨日、大和計測の現場から戻ってきた声。
字が小さい。
紙が汚れる。
指差し確認を入れた方がいい。
交換用樹脂当たりの向きがわかりにくい。
それらを受けて、父の隆夫は「黒瀬精機の決まり」を書いた。
1 朝飯を食ってから機械を触る
2 赤字の仕事は仕事と呼ばない
3 口約束は紙にする
4 失敗は隠さず記録する
5 使う人の声を聞く
6 同じ失敗を2回しない
その紙は、今朝、工場の壁に貼られていた。
直人は登校前に何度も見た。
ただの紙だ。
けれど、あれは黒瀬精機の背骨になる。
そう思えた。
授業が終わると、直人はいつもより早足で家へ戻った。
工場のシャッターは開いている。
機械音はしていない。
代わりに、父と母の声が聞こえた。
何かを話している。
直人はランドセルを背負ったまま、工場に入った。
「ただいま」
「おかえり、直人」
母の美智子が振り返った。
作業台の上には、電話の横にメモ用紙が置かれている。
父の隆夫は、その紙を見ながら腕を組んでいた。
森川修一も横に立っている。
17歳の見習いは、嬉しそうな顔と不安そうな顔を半分ずつ浮かべていた。
「大和計測さん?」
直人が聞くと、父が頷いた。
「ああ。現場確認、通った」
直人の胸が熱くなった。
「ほんま?」
「ほんまや。佐伯さんから電話があった。クロセ No.2、現場で使えるって」
森川が我慢できないように言った。
「傷も出てへんって。ばらつきも前より小さいって。現場の人も、手順札が見やすくなったって言うてくれた」
「よかったやん」
「ああ」
森川は笑った。
だが、父は手放しでは喜んでいない。
直人はその表情に気づいた。
「何かあったん?」
父はメモを指で叩いた。
「追加の相談も来た」
「ええやん」
「ええことや。けど、その前に請求や」
母が帳面を開いた。
「納品が済んだら、請求書を出す。そこまではええねん」
「うん」
「問題は、いつ入るかや」
直人は胸の奥で頷いた。
来た。
ここは避けて通れない。
仕事が終わった。
納品した。
相手に喜ばれた。
でも、それで工場に金が入ったわけではない。
前の人生で、直人は何度もこの罠にはまった。
売上はある。
帳面の上では黒字。
けれど入金は来月、再来月。
その間にも材料費は出ていく。
外注費も出ていく。
給料も払う。
電気代も払う。
金が入る前に、金が出ていく。
それが町工場の息を詰まらせる。
「支払い条件、どうなってるん?」
直人は思わず聞いた。
父と母が同時にこちらを見た。
森川も目を丸くする。
「直坊、また難しいこと言うな」
「学校で聞いた」
「絶対聞いてへんやろ」
森川が笑う。
父は少しだけ目を細めた。
最近の父は、直人の言葉をすぐには流さなくなっている。
それはありがたい。
同時に危ないことでもあった。
10歳の子供としての線を、越えすぎてはいけない。
直人は慌てて言葉を柔らかくした。
「だって、お金って、すぐもらえる時と、あとでもらう時あるやん」
母が頷いた。
「それはあるね」
父はメモを見た。
「佐伯さんの話では、月末締めの翌月末払いらしい」
「つまり?」
森川が聞く。
母が説明した。
「今月中に請求書を出したら、来月の終わりに入るってこと」
「え、そんな先なんですか」
森川は驚いた顔をした。
「納めたのに?」
「そういうもんや」
父が言った。
だが、その声は少し重い。
「うちみたいな小さいところには、きついけどな」
直人は作業台の上に置かれた紙を見た。
材料費。
西野研磨への外注費。
大西樹脂への樹脂材料代。
田端への材料代。
森川の作業時間。
父の設計時間。
母の事務時間。
すべてはもう発生している。
だが、大和計測からの入金は来月末。
この差が、資金繰りだ。
「おかん」
直人は母を見る。
「外に払うお金はいつなん?」
母は帳面をめくった。
「田端さんの材料代は、今月末。西野さんと大西さんは、いつもなら来月の初めには払いたいところやね」
「入金より先?」
「そうなるね」
森川が眉を寄せた。
「ほな、仕事は成功したのに、先にお金が出るんですか」
「そうや」
父が答えた。
「それが工場や」
森川は黙った。
その顔は、加工の失敗を見た時とは違う意味で青くなっていた。
「怖いですね」
「怖いで」
父は素直に言った。
「どれだけ腕があっても、金が回らんかったら工場は止まる」
直人は父の言葉を噛みしめた。
前の人生の黒瀬精機も、何度も金に詰まった。
赤字だから苦しい時もあった。
だが、黒字でも苦しい時があった。
仕事はある。
請求も出している。
でも入金がまだ。
その間に、支払いだけが迫ってくる。
銀行へ頭を下げる。
支払いを待ってもらう。
自分の給料を後回しにする。
父も、きっと同じことをしていたのだろう。
直人が子供だった頃には、見えていなかっただけで。
母が帳面の横に新しい紙を置いた。
「これ、作った方がええね」
父が聞く。
「何や」
「入金予定表」
母は紙の上に線を引いた。
日付。
相手。
請求額。
入金予定日。
先に出るお金。
残るお金。
「売上だけ見てもあかん。いつ入るか見な、怖いわ」
直人は思わず母を見つめた。
母は本当に鋭い。
前の人生で、直人が資金繰り表を真剣に見るようになったのは、工場を継いでからだった。
だが母は、生活の感覚でそこへたどり着いている。
「美智子」
父が静かに言った。
「それ、頼めるか」
「もちろん」
母は当然のように頷いた。
「ただし、隆夫さんもちゃんと数字出してや。材料代も外注費も、だいたいで誤魔化さんといて」
「わかってる」
「ほんまに?」
「たぶん」
「たぶんはあかん」
森川が小さく笑った。
工場の空気が少しだけ緩む。
だが、直人の胸には重さが残っていた。
この問題は、簡単ではない。
請求してから入金までの時間。
支払いと入金のズレ。
それを甘く見ると、工場は本当に死ぬ。
「お父ちゃん」
「なんや」
「次の見積もりから、支払い条件も書いた方がええんちゃう?」
父は直人を見た。
「見積もりに?」
「うん。いつ払ってもらうか。あと、外に頼む分が多い時は、前金もらうとか」
森川が目を丸くした。
「前金って、先にもらうんか」
「そう」
直人は頷く。
「全部じゃなくても、材料代とか外注分とか」
父は黙った。
これは、簡単に言えることではない。
小さな工場が相手に前金を求めるのは勇気がいる。
信用がないと思われるかもしれない。
面倒な工場だと思われるかもしれない。
だが、外注費や材料費を黒瀬精機が全部かぶって、入金を待つだけでは体力がもたない。
母が静かに言った。
「私は、聞くだけ聞いてもええと思う」
父が母を見る。
「前金をか」
「毎回やなくてええ。でも、外に払うお金が先に大きく出る時は、相談してもええんちゃう? 相手が無理なら、その条件でうちが受けられるか考えたらええ」
父は腕を組んだ。
その顔には、職人ではなく社長の悩みが浮かんでいた。
「佐伯さんなら、話は聞いてくれるかもしれん」
「ほな、聞くだけ聞いたらええやん」
母は言った。
「口約束は紙にするんやろ。支払いも約束やん」
父の目が動いた。
工場の壁には、昨日貼った紙がある。
黒瀬精機の決まり。
3 口約束は紙にする。
父はその文字を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「そうやな」
その日の夕方、父は大和計測へ電話をした。
直人は工場の端に立っていた。
前に出ない。
喋らない。
父がどう言うのかを聞く。
「黒瀬です。お世話になっております。……はい、現場確認ありがとうございました」
父の声は、少し硬い。
「請求の件で確認させてください。月末締め翌月末払いとのことですが、今回、外注費と材料費が先に発生しています。次回以降、外注費が大きい仕事の場合、材料費相当の前払い、もしくは一部前払いをご相談できるか確認したくて」
工場の空気が静かになる。
森川は息を止めている。
母は帳面を抱えたまま、父の横顔を見ている。
直人も、拳を握った。
電話の向こうの声は聞こえない。
父の表情だけが頼りだ。
「はい。もちろん、毎回ではありません。見積もり時に条件として明記します。……はい。ありがとうございます。佐伯さんの一存では難しいですよね。……はい。経理の方にも確認を。助かります」
父の肩から少し力が抜けた。
「それと、今回分は通常条件で構いません。こちらも勉強になりましたので。……はい。ありがとうございます。では、請求書を送ります」
父は受話器を置いた。
森川がすぐに聞いた。
「どうでした?」
「すぐにええとは言えんらしい」
「やっぱり」
「でも、次回から見積もり条件に書いてくれれば、内容によっては相談できると言うてくれた。経理にも確認してくれるそうや」
母が頷いた。
「前進やね」
父は苦笑した。
「言うだけで胃が痛いわ」
「でも言えたやん」
母の声は優しかった。
父は壁の紙を見た。
「口約束は紙にする。支払いも約束」
そう呟いて、作業台に白い紙を置いた。
表題を書く。
支払い条件確認
直人はそれを見た。
また1枚、黒瀬精機を守る紙が増えた。
母が横に座り、項目を足す。
相手先。
締め日。
支払い日。
支払い方法。
前払い相談の有無。
外注費先払いの有無。
備考。
森川が首を傾げた。
「支払い方法って、現金とか振込とかですか」
「そうや」
父が答える。
「あと、手形とかもある」
「手形?」
森川は聞き慣れない言葉に眉を寄せた。
父は少し難しい顔になった。
「簡単に言うと、あとで払いますという紙や」
「紙?」
「すぐ現金になるわけやない。期日まで待つ。早く現金にしようとすると、割り引かれて少なくなることもある」
森川の顔がさらに曇る。
「仕事して、紙もろて、まだ待つんですか」
「そういうこともある」
「怖すぎません?」
「怖いで」
父は言った。
「せやから、条件を見なあかん」
直人は黙って聞いていた。
手形。
前の人生でも、小さな工場を苦しめた言葉の1つだった。
仕事をしても、すぐ現金にならない。
期日まで待つ。
資金繰りに困れば割り引く。
その手数料がまた利益を削る。
もちろん、すべてが悪ではない。
商売の仕組みとして使われてきたものだ。
だが、小さな工場にとっては重い。
とても重い。
「黒瀬精機の決まりに、追加した方がええんちゃう?」
直人は言った。
父がこちらを見る。
「何をや」
「仕事は、値段だけやなくて、いつ入るかも見る」
母が頷いた。
「それ、ええね」
父は少し考えてから、工場の壁に貼った紙を外した。
鉛筆を持つ。
6つ目の下に、新しい1行を書き足す。
7 仕事は、値段だけでなく入金日を見る
森川がそれを見て、低く呟いた。
「ほんまですね。値段だけ見てたら、わからんことあるんですね」
「ある」
父が答えた。
「工場は、金額だけでは回らん。日にちで回る」
直人はその言葉に、静かに頷いた。
工場は、日にちで回る。
納期。
支払い日。
入金日。
材料が届く日。
外注先へ出す日。
検収される日。
人が休む日。
その全部が繋がって、工場は動いている。
日付を間違えれば、どれだけ腕があっても詰まる。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
大和計測 クロセ No.2正式確認
請求は月末締め翌月末払い
外注費と材料費は先に出る
母、入金予定表を作った
父、佐伯さんへ前払い相談
支払い条件確認表を作った
黒瀬精機の決まりに7番追加
そして、大きく書いた。
仕事は、終わった時ではなく、入金された時に一度区切りがつく。
工場は、金額ではなく日にちで苦しくなる。
直人は鉛筆を置いた。
階下では、母が帳面をめくる音がしている。
父は壁に貼り直した「黒瀬精機の決まり」を見ているようだった。
森川は、今日はもう帰った。
工場は静かだ。
けれど、黒瀬精機は今日も新しいことを覚えた。
作ること。
測ること。
記録すること。
失敗を隠さないこと。
現場の声を聞くこと。
そして、入金日を見ること。
1985年の東大阪の夜。
小さな町工場の壁に、また1つ、未来を守るための決まりが増えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます