第16話 戻ってきた声
納品の翌朝、黒瀬精機はいつも通り朝飯を食べてから工場を開けた。
父の隆夫は味噌汁を飲み、母の美智子は帳面を横に置きながら、今日の予定を確認している。
森川修一も、今日はちゃんと朝飯を食べてから来たらしい。
工場へ顔を出した時、直人がすぐに聞いた。
「森川さん、朝ごはん食べた?」
「食べた食べた。今日はほんまに食べた」
「何食べたん?」
「飯と味噌汁と卵」
「合格」
「お前は俺のおかんか」
森川が笑う。
その笑い声を聞きながら、直人は少しだけ安心した。
失敗の翌日も、納品の翌日も、人間は飯を食う。
工場が変わるとは、こういう小さなことの積み重ねなのだと思う。
だが、今日の工場には落ち着かない空気もあった。
大和計測へ納めた「クロセ No.2」が、現場で試される日だった。
治具は昨日、佐伯と辰巳が持ち帰った。
今日の午後、大和計測の現場で実際に使ってみる。
父と森川は、その立ち会いに行く予定だった。
直人も行きたかった。
喉から手が出るほど行きたかった。
けれど、今日は平日だ。
小学4年生の黒瀬直人は、工場の現場確認ではなく学校へ行かなければならない。
「直人、学校」
母の声が飛ぶ。
「わかってる」
直人はランドセルを背負いながら、父と森川を見た。
「お父ちゃん」
「なんや」
「現場の人、何言うたか、ちゃんと聞いてきてな」
「わかってる」
「ええことだけやなくて、使いにくいところも」
父は少しだけ笑った。
「お前に言われんでも、そのために行くんや」
森川が横から言った。
「直坊、帰ったら全部報告するわ」
「全部やで」
「怖いなあ」
森川は笑ったが、その目は真剣だった。
直人は家を出た。
通学路を歩いていても、頭の中は大和計測の現場だった。
箱は無事に開けられただろうか。
納品チェック表は役に立っただろうか。
交換用樹脂当たりは、ちゃんと見つけてもらえただろうか。
手順書は読まれただろうか。
声出し手順は、現場で笑われていないだろうか。
いや、笑われてもいい。
使われればいい。
手順が人を守るなら、最初は少し恥ずかしくてもいい。
授業中、直人は黒板の文字を写しながら、何度も時計を見た。
今日ほど学校の時間が長く感じた日はなかった。
放課後。
直人はいつもより早足で家に戻った。
工場脇には、黒瀬精機のライトバンが停まっている。
もう帰ってきている。
工場の中から、父と森川の声が聞こえた。
いつもの機械音ではない。
作業台を囲んで、何かを話している声だった。
「ただいま」
直人が工場へ入ると、森川が振り返った。
「おかえり、直坊」
「どうやった?」
直人は思わず聞いた。
森川はすぐ答えなかった。
父も、母も、少しだけ黙った。
直人の胸が跳ねる。
「失敗したん?」
「いや」
父が首を振った。
「治具は使えた」
直人は息を吐いた。
森川がようやく笑った。
「傷も出てへん。ばらつきも前より小さかった。佐伯さんも、現場の人も、そこはええって言うてくれた」
「ほな、よかったやん」
「よかった」
森川は頷いた。
「でも、いろいろ言われた」
直人は作業台へ近づいた。
そこには、父の字と森川の字が混じった紙が置かれていた。
表題には、こう書かれている。
現場の声 大和計測 クロセ No.2
直人はその文字を見た瞬間、胸が熱くなった。
苦情ではない。
クレームでもない。
現場の声。
父たちは、ちゃんと持ち帰ってきたのだ。
「何言われたん?」
直人が聞くと、森川が紙を指さした。
「まず、手順書の字が小さいって」
「小さい?」
「作業台の横に置いたら、少し離れるだけで見にくいらしい。現場の人が、老眼の人やったらもっときついかもって言うてた」
父が頷く。
「こっちでは読めた。でも、現場では立ったまま見る。手元と部品と治具を見ながら、横目で手順を見る。机に座って読む紙とは違う」
直人は頷いた。
その通りだ。
手順書は、作った側が読めるだけでは足りない。
使う人が、使う場所で読めなければ意味がない。
「次は?」
「紙が汚れる」
母が答えた。
「現場で油のついた手で触るから、普通の紙やとすぐ汚れるって」
「そうか」
直人は納得した。
工場の紙は、すぐ汚れる。
油。
切り粉。
手汗。
水。
だから、ただ綺麗な紙を作ればいいわけではない。
「佐伯さんは、厚紙に大きく書いて、透明の袋に入れて作業台に吊れるようにしたらどうかって」
父が言った。
「それ、ええな」
直人はすぐに言った。
森川も頷く。
「あと、声出しは最初ちょっと恥ずかしそうやった。でも、現場の人が途中から『指で確認した方がええな』って言うてくれて」
「指差し?」
「そう」
森川は手順書を指さす真似をした。
「1、奥。2、右。3、浮きなし。4、押さえ。そうやって指で追いながらやると、声だけより間違えにくいって」
父が紙に書き足していた。
声出しだけでなく、指差し確認。
直人は、その字を見て胸の中で頷いた。
また1つ、現場から戻ってきた。
黒瀬精機が考えたものを、現場が使い、現場の声で直す。
これが循環だ。
「他には?」
直人が聞くと、父が少し苦い顔をした。
「交換用樹脂当たりの袋はわかりやすかった。けど、どっち向きにつけるかが少し迷うって」
森川が自分の額を軽く叩いた。
「そこ、俺ら全然気づいてへんかった」
「形でわかるんちゃうの?」
「俺らはわかる。作ったから」
森川は真面目な顔で言った。
「でも、初めて見る人は迷う。片方をちょっと削って、向きがわかるようにした方がええかもって」
父が頷いた。
「樹脂部品にも印を入れる。上下か左右がわかるように」
母がすぐに言った。
「袋にも同じ印を書いといた方がええね」
「それも書いた」
父が紙を見せた。
交換部品に印。
袋にも同じ印。
取扱説明書にも印の意味を書く。
直人は、工場の中を見回した。
父。
森川。
母。
3人とも、少し疲れている。
けれど、顔は暗くない。
現場でいろいろ言われた。
だが、それを責められたとは受け取っていない。
次へ進む材料として持ち帰っている。
それが嬉しかった。
「お父ちゃん」
「なんや」
「現場の人、怒ってた?」
「いや」
父は首を振った。
「むしろ、よう聞いてくれた。こんなん言うてもええんかって感じやった」
森川が続ける。
「俺、聞いたんや。使いにくいところありますかって。そしたら最初は遠慮してはった。でも佐伯さんが『遠慮せず言ってください。黒瀬さんは聞くために来ています』って」
父は少し照れくさそうに笑った。
「それから、ぽつぽつ出てきた」
直人は作業台の紙を見つめた。
聞くために行く。
それもまた仕事だ。
作ったものを納めて終わりではない。
使う人の声を拾い、次の形へ変える。
そのためには、相手が言いやすい空気を作らなければならない。
現場の人は、意外と遠慮する。
こんなこと言っていいのか。
職人さんに失礼ではないか。
納めたものに文句をつけるみたいではないか。
そう思って黙る。
そして、黙ったまま不便を抱え、やがて使われなくなる。
前の人生で、直人はそういう道具を何度も見た。
引き出しにしまわれた治具。
誰も使わなくなった専用工具。
現場に合わないまま、机上の正解として残った手順書。
今度は、そうさせない。
母が紙を1枚出した。
「それでな、これ作った」
そこには、母の字でこう書かれていた。
現場の声記録
日付。
相手。
品番。
良かった点。
困った点。
次に直すこと。
費用が発生するか。
対応日。
直人はその紙を見て、思わず声を出した。
「おかん、すごい」
母は少しだけ得意そうに笑った。
「言われっぱなしやと忘れるやろ。ちゃんと書いとかんと」
父が言った。
「美智子、これ今後も使う」
「そう言うと思って、何枚か作っといた」
森川が笑った。
「奥さん、準備ええなあ」
「男の人らはすぐ紙なくすからね」
「それは否定できません」
森川が素直に頷く。
父は反論しかけたが、やめた。
たぶん思い当たることが多すぎたのだ。
その日の夕方、黒瀬精機は機械を回さず、手順書と交換部品の改良に時間を使った。
父は大きな字で手順を書き直した。
森川は指差し確認の番号を考えた。
母は厚紙に清書し、透明の袋を探した。
直人は横で見ながら、言いすぎないように気をつけた。
「1、奥」
森川が言った。
「2、右」
「3、浮きなし」
「4、押さえ」
「5、測る」
父が紙に書く。
母が首を傾げる。
「これ、漢字ばっかりやと現場でぱっと見にくいんちゃう?」
「ほな、どうする?」
「1、奥へ当てる。2、右へ寄せる。3、浮きなし。4、押さえる。5、測る。これぐらいでええんちゃう?」
森川が頷いた。
「その方が見やすいです」
父は少し悔しそうに言った。
「美智子の方が手順書うまいな」
「使う人の気持ちで見てるだけや」
「それが難しいんや」
父は素直に言った。
直人は母を見た。
母は機械を動かさない。
図面も引かない。
けれど、使う人の気持ちを見る目がある。
黒瀬精機には、この目が必要だった。
しばらくして、森川が交換用樹脂当たりに小さな切り欠きを入れた。
右上にだけ、浅い印をつける。
袋にも同じ印を書く。
手順書にも、こう書いた。
切り欠きが右上。
それだけで、取り付ける向きがわかる。
「こういうの、最初から思いつかなあかんかったですね」
森川が少し悔しそうに言った。
父は首を振った。
「最初から全部は無理や」
「でも」
「現場で使って、声を聞いて、直す。そこまで含めて仕事や」
森川は黙った。
父は続けた。
「ただし、同じことを2回言われたらあかん。1回目は学び。2回目は怠慢や」
森川の顔が引き締まった。
「はい」
直人はその言葉を心に刻んだ。
1回目は学び。
2回目は怠慢。
厳しい。
だが、前向きな厳しさだった。
失敗を許す。
でも、同じ失敗を放置しない。
その線引きが、工場を強くする。
夜になり、父は今日の作業記録をまとめた。
現場確認 大和計測
手順書文字小さい
紙が汚れる
指差し確認追加
交換部品の向き表示追加
厚紙手順札作成
透明袋で保護
現場の声記録を新設
母は帳面に、手順札作成時間と追加部品加工時間を書き込んだ。
「これ、お金もらうん?」
森川が聞いた。
父は少し考えた。
「今回は、初回調整の範囲に入れる。見積もりに含めてる」
「次からは?」
母が聞いた。
「次からは、手順札と交換部品の向き表示を最初から見積もりに入れる」
母は頷いた。
「それがええね」
直人も頷いた。
ただのサービスで終わらせない。
学んだことを、次の仕事の標準にする。
それが大事だった。
「標準……」
直人は小さく呟いた。
父が聞き逃さなかった。
「なんや」
「いや、こういうの、黒瀬精機の普通にしたらええんちゃうかなって」
「普通?」
「納品チェック表も、現場の声記録も、手順札も。毎回、必要かどうか見る。必要なら作る。そういう普通」
父はしばらく黙った。
森川も考え込む。
母が言った。
「黒瀬精機の決まり、みたいなもん?」
「うん」
直人は頷いた。
「忘れへんように」
父は白い紙を1枚出した。
そして、表にこう書いた。
黒瀬精機の決まり
直人は息を止めた。
父は続けて書く。
1 朝飯を食ってから機械を触る
2 赤字の仕事は仕事と呼ばない
3 口約束は紙にする
4 失敗は隠さず記録する
5 使う人の声を聞く
6 同じ失敗を2回しない
森川がそれを見て、小さく笑った。
「1番が朝飯なんですね」
父は真顔で言った。
「大事やろ」
母が頷く。
「大事やね」
直人は笑った。
けれど、その目の奥が少し熱くなった。
黒瀬精機の決まり。
それは、たった6つの簡単な文だった。
だが、前の人生の黒瀬精機にはなかったものだ。
父を守る決まり。
森川を育てる決まり。
母の仕事を見えるようにする決まり。
技術を安売りしない決まり。
失敗を未来に変える決まり。
この紙が、いつか黒瀬精機の背骨になるかもしれない。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
大和計測で現場確認
治具は使用可能
手順書の字が小さい
紙が汚れる
指差し確認追加
交換用樹脂当たりに向き表示
母、現場の声記録を作った
父、黒瀬精機の決まりを書いた
そして、少し考えてから書いた。
現場の声は、文句ではない。
次の失敗を減らすための材料だ。
直人は鉛筆を置いた。
階下では、父が「黒瀬精機の決まり」を工場の壁に貼っている音がした。
金槌で画鋲を軽く打つ音。
紙が壁に留まる音。
小さな音だった。
だが直人には、それがまるで、新しい柱を1本立てる音のように聞こえた。
1985年の東大阪。
まだバブルも、その崩壊も、震災も、父の死も遠くにある。
けれど、黒瀬精機は今日、未来に立ち向かうための決まりを1枚、壁に貼った。
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